第一話:クロとシロ
――困った。どうするべきか。
『氷鉋黒羽』という文字と、簡易地図の書いてある紙を持ち、さっきから二十分はこの辺をうろうろしている。僕の目の前に広がるのは、巨大と言って差し支えない程の、邸宅。
『氷鉋』という苗字が読めないのだが、表札とは一致しているし、珍しい苗字だから、この家で間違いではないだろう。
北海道に転勤してきた僕は、娘にもう一度学校に行かせるためにも、会ってやってくれと言われ、父さんの知り合いの引きこもり娘に会うために、ここに来た。
地図を見ながらここまで来たは良いものの、家のあまりの大きさに、チャイムを押すに押せないのだ。
しかし、何時までも迷っている訳にもいかず、勇気を振り絞って、恐る恐るチャイムを押してみた。
「はい」
即座に、女の人の声が返って来た。
当たり前の現象だというのに、インターホンから返って来た声にびくりとする。恐るべし、豪邸。
「た、立森です」
「ああ、志狼君ね。今開けるわ」
カチャン、と軽い音を立てて、門が開いた。もちろん、自動だ。
「あの子の部屋は、二階の上がって直ぐだから」
インターホン越しの声に従って、階段を上がる。しかし、豪華な階段だな。
二階の廊下は、ものすごい部屋数があり、あまりの広さに、突き当りが見えない。
階段を上がって直ぐの部屋……と、あったあった。扉に小さな黒猫のプレートがかかっている。
扉の前で、僕は再び躊躇した。
初対面の人間と話すのはあまり得意じゃない。その上、どうやらそのひきこもり娘は天才らしい。天才は、何となく苦手だ。
コンコン、とノックをしてみた。返事は無い。
「入りますよー」
聞きなれない声に驚いたのか、中の人物が動くのがわかった。
中に居たのは、何処か神秘的な印象のある、少しウェーブのかかった、長い黒髪の少女で、積み上げられた本の中に座っていた。
真っ白い肌は良く言えば白磁、悪く言えばモヤシっ子。
「はじめまして。立森志狼です。ええと、ひ、ひ……」
『氷鉋黒羽』と書かれたメモを見ているのだが、正直に言おう。漢字の読みがわからない。
「ヒガノクレハ」
「あ、ども」
結局、相手に読み方を教えてもらう結果となった。
氷鉋はヒガノと読むらしい。
「へえ、黒羽でくれは、って読むのか……ややこしいな。クロで良い?」
瞬間、無表情だった相手の顔が、豹変した。目を見開き、信じられないものを見るように、僕の方を見ている。その顔から読み取った感情が合っているのなら――99%合ってるだろうけど――『なんだこいつ』。
「いいじゃん、クロ」
「良くない」
「その内馴れるって」
言っておくが、僕は普段初対面の人間にいきなりニックネームをつけるような、フレンドリーな奴じゃない。それなのに不思議と、クロとは話し易かった。
「……じゃあ、そっちはシロ」
「へ?」
「シロウだから、シロ」
うーん、いざ、自分にニックネームがつけられるとなると、抵抗があるな……。
「はい、決定。それで、シロは何の用?」
僕の葛藤など気にも止めず、ニックネームはシロと決定されてしまった。くっ、こっちだって、クロに決定だ!
「用って……別に、君のお父さんと僕の父さんが知り合いで、同い年の子供がいて、引きこもりだから会ってやってくれ、って」
僕の答えに、クロは少し驚いた顔をした。
「『黒猫』関係じゃないの?」
「なんだそれ。あ、これケーキ」
差し出したケーキ箱に、クロは興味を示したが、それも一瞬の事で、
「生クリームはキライ」
この、折角買ってきたのに!どうすんだ、僕は甘いものは苦手なんだけど。
「冷蔵庫にでも入れといて。下にあるから」
そう言って、本の山のてっぺんから辞書のようなハードカバーを取って読み始めた。
あれか、これは。本読んでるから冷蔵庫にケーキを置いてこいと言ってるのか。
「早く」
わかりましたよ、行けば良いんだろ!
以外と早く打ち解けられたが、ちょっとばかり打ち解け過ぎの気がする。会って五分の人間に命令するか、普通。
とりあえず一階に下りたが、何しろ家が広すぎるので、誰かに訊く事にする。
「あ、すみません」
「何?」
きちんとした出でたちに、バッグを持った女性。氷鉋さん――クロのお母さんだった。
「冷蔵庫って、何処にありますか?ケーキを持って来たのですが、生クリームは苦手みたいで」
「あらら、どうもありがとう。冷蔵庫は左を真っ直ぐ行った所にある、居間の奥よ」
僕は礼を言い、歩き出そうとした。
「出かけられるんですか?」
「ええ。急の仕事で」
クロの両親はとにかく忙しい人だと聞いていた。
母親は仕事で家を開ける事が多く、父親に到っては、滅多に家に帰らないという。
「そうですか。お気を付けて」
「ありがとう。行ってきます」
見送りをすませると、僕は、居間に向かった。
またもや、広い居間。ただ、奥にあった冷蔵庫は、意外に普通の大きさだった。
この家に住まうのは、クロの家族三人と、メイドが一人で、食事をするのはクロとメイドだけだというから、それも当然と言えば、当然だ。
――こんな広い家に、何時もたった二人なのか。
僕は、冷蔵庫を開けた。綺麗に整理整頓されている。
一番に、『きのこの山』が目に入った。しかも三箱。明らかに買いすぎだろ。
僕はケーキをしまうと、再びクロの部屋へ向かった。
「遅い」
いきなりその台詞はないだろうと思うのだが、どうか。
「好ききらいすると、大きくなれんぞ」
座っていてわかりづらいが、クロは小柄だった。僕もあまり背が高い方じゃないけれど、それでも僕より小さいと思う。
「木登りするような、幼稚な奴に言われても」
「木登りは関係ないだろ……って、何で知ってんだ」
木登りをしたのは、本当だ。ただし、木に引っ掛かった友人の帽子をとってやる為であって、断じて遊んでいた訳じゃない。
それより、そんな事を言った覚えはないのだが。
そんな僕に、クロはいとも容易く言ってのけた。
「まず、指が少し茶色い。良く見ると、顔やズボンにも付着してる。それから、葉っぱ。最初に来たとき、上着に葉っぱが付いてた。まだ若い葉だから、登りでもしないと、付くことはない……って訳」
まるで探偵のようだ、と思った。台詞の後ろにQED(証明終了)と付ければ、さぞかしそれらしかった事だろう。
「当たり?」
「……正解」
それが、僕と『黒猫』、クロの出会いだった。