07 彼の正体は豆
迷子の少女・ラテは、ひとまず段ボール箱に入れて喫茶店の奥に置いておくことにした。
嗣郎にするとその光景は、『いたいけな少女が粗末な箱に入れられて虐待されている』というふうに見えて、やはり異様だったのだが、甘音はてきぱきと準備していた。
「ラテちゃん、寒くないかしら?」
「無駄にもふもふしてるからいいよ」
やたら毛布やらタオルケットやらを投入するので、嗣郎は適度に制止しておいた。
それから一晩が経った。
◇
この店の朝は騒々しい。
何しろ喫茶店というものは、客の大半は午前中にやってくるので、その用意と開店準備とで甘音は大忙しである。
嗣郎はその姉の手伝いをしつつ、自らも登校をしなければならない。
「いいか、ラテ? 俺は学校へ行くけど、ここで大人しくしてろよ」
「……は、はいっ。その、しろうさんは……いつごろ帰ってくるんですか……?」
妙にそわそわしだすラテ。
やっぱり、コイツは寂しがり屋なんだな。
「さぁな。早いかもしれんし、遅いかもしれん。それまでは甘姉に甘えてろ」
「はい……」
しょんぼりするラテの頭を、仕方なく、嗣郎は撫でてやった。
◇
「う、今日は日直だったっけ……」
登校時間にぎりぎりセーフ、教室へ着いた嗣郎は思い出した。
そして、日直としてのその責務。
なるべく果たしたくはなかったその最初の責務を果たしに、黒板の隅へと向かった。
「よー、豆! おはいよーう……あっ!」
嗣郎のことを『豆』と呼び、寄ってきたクラスメイト。彼は朝の挨拶とともに、声をあげた。
嗣郎はぎくりとした。
「おまえなぁー、名前の詐称はダメだろう、詐称は!」
「……友よ、見逃してくれ」
さらりと切り抜けようとした嗣郎を、しかし、クラスメイトは逃がさなかった。
彼は黒板の隅、日直当番と書かれた『桐谷嗣郎』を指して、
「だって、おまえ、名前が違うでしょ!」
と、詰め寄った。
誰かに絶対ツッコまれるだろうなぁ。嗣郎は思っていた。
「豆はちゃんと、豆って書きなさい、ほら!」
半笑いのクラスメイトは嗣郎の手にしていたチョークをぶん取って、日直当番の名前を『桐谷豆司郎』と書き換えた。
桐谷豆司郎。
豆である。
「お、おのれ……」
嗣郎は思わず顔を背けたくなった。
しかし、これは事実だから嗣郎も茶化されるよりほかないのだ。
◇
「……だがちょっと待ってほしい」
嗣郎はクラスメイトのチョークをぶん取り返した。嗣郎のターンである。
「たとえば、現国の『木村』という先生がいるな。
これを縦に書くと『森』っぽくならないか?」
嗣郎は黒板に、森と書きながら、
「アイツは背も低いから、苗字もこのように縮むかもしれない」
と、冷静に解説する。
「ふむ、続けたまえ?」
「で、豆司郎こと俺は、痩せ気味体型じゃないか。
こないだも姉ちゃんに肉を無理やり食わせられ……じゃねーや。
……つまりだ、横に縮んでいる。そこから導き出される結論はひとつ」
嗣郎は黒板に『嗣』という字を書いた。
「このように豆司郎の『豆』と『司』がくっついて、『嗣』という字になって然るべきだ」
だからこれは必然だろう、嗣郎は独自の理論を展開した。
そして日直当番の名を改ざんし直した。
「……いやいやいや。どうみても豆でしょ、そこは。というか、『豆司』を縮めても『嗣』になんねぇ!」
クラスメイトの冷静なツッコミが応酬される。
嗣郎のターンはあっけなく終わりを迎えた。
「ぐ……ぐぬぬ……」
黒板消しを持った友によって、黒板上の嗣郎は無慈悲にも粛清された。
そうこうしているうちにチャイムが始業の時間を告げたので、嗣郎は泣く泣く自分の席へと引き下がった。
この類のやり取りはもはや日常茶飯事であった。
◇
嗣郎の元々の名前は『豆司郎』で、間違いはない。
一見して『まめじろう』と呼ばれるのは、よくある間違いだ。
桐谷家は長女が先に生まれて“甘音”と名づけられた。
何でも父親が甘い物好きだったから、だそうな。
「どんだけ甘党だったんだよ、親父……」
そして、それと同時に経営していた喫茶店の名前を、今現在も使われている『喫茶甘音』に改名した。娘も店も“あまねく”受け入れられますように、と願掛けをしたらしい。
甘音は数年前にこの店を継いだとき、
「店の名前と私の名前が同じって、恥ずかしいわね~……」
と、洩らしていた。
それから弟で長男の嗣郎が生まれて、父親はまた色々と思索に耽ったらしい。
そうして辿りついた答えが、「喫茶店で一番大事なモノは何か」、というものだった。
どうしてそこへ行き着いてしまったのか?
もっと他に大事なモノはなかったのか……。
嗣郎は思い悩んだ。
いくら喫茶店店主の息子とはいえ、
「まめじろう」
この字面は間が抜けすぎている……。
黒板の隅の『豆』を見返すたびに嗣郎はため息が出た。
拝啓、姉さん。俺も恥ずかしさで一杯です。