16 ノラとの遭遇
鴉の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。
日は西に大きく傾き、世界を夕焼けに変える。
赤い夕陽をバックライトにして、その公園は鮮やかな一色に染まっていた。オレンジの光を幾重にも受けて、けれども、外周をぐるりと囲む木立によって外部からの視界はことごとく遮断されており、そこはさながら朱色の要塞と化していた。
たなびく風にざわめく木々はまるで、要塞の堅牢な城壁にして唯一の兵士であり、立ち入るものを拒んでいるかのよう。
なんとも不気味なこの未知の領域に、背から陽を浴びて伸びた二人分の影が、今にも吸い込まれようとしていた。
嗣郎とラテは、かの公園へ入り込んだ。
地面に落ちた木の葉や小枝を踏み鳴らす、乾いた音だけが響いた。
「なんだか妙だな……」
人っ子一人見当たらない、とはこのことだろうか。公園内は閑散としていて、見たところ嗣郎とラテの二人を除いて他に誰もいないようだった。
「ラテ。勝手にどこかへ行ったりするんじゃないぞ」
「はい……それはもちろんです……ぐすっ……」
ちくわの喪失ダメージが抜け切らないラテはしょぼくれかえっていた。とぼとぼと尻尾を引きずりながらついてくる。
「ま、誰もいないほうが自由に散歩させてやれるか……」
嗣郎はラテが迷惑になりそうな他の利用者が見当たらないことに、これよしと安易に考えていた。自分たちの置かれている状況を把握しておらず、のん気なものだった。
そう、二人の前にそれが現れるまでは……。
──私たちのナワバリに入るなッ、ニンゲン!
公園内を歩き回っていると、突如、甲高い娘の声が響きわたった。
間を置かずしてその声の主は、嗣郎たちの前に颯爽と姿を現す。
うら若き乙女の体躯に、ピンと立った獣の耳、そして逆立った毛の尻尾。
眼前に立ちはだかったそれは、ノラ耳少女だった!
ノラ少女の双眸がぎろりと嗣郎を睨みつける。
「今すぐにここを出ておいきなさい! さもなくば……」
明らかな敵対の意思を示す彼女は嗣郎よりもずっと小柄に見え、少女といっても差し支えないようだった。彼女の尻尾は幾分短めで、その頭の目立つ犬耳さえなければ人間の子どもと見間違うかもしれない。しかしその未成熟な体つきはしなやかに引き締まっていて、機能美すら感じさせる。
彼女は用心深く嗣郎を凝視し、一分の隙でも見せれば襲いかかってきそうな雰囲気だった。
突然の出来事に嗣郎は気後れした。
「お、おいおい……なんだよいきなり」
「うるさい! この公園に入ってくるニンゲンは、誰だって容赦しないんだから!」
強烈に言い放って、ノラ少女は、だっと地を蹴って嗣郎に飛びかかってきた。同時にぱっと舞い上がった木の葉が落ちきるまでの寸分の合間に、彼女の細くしなやかな右手先にきらりと光る鋭い爪は、嗣郎をその射程範囲内に収めていた。
思わぬ奇襲を受けてひるんだ嗣郎は、しかし、間に割って入ったラテの渾身の体当たりにより、攻撃をまぬがれていた。
「……!?」
体勢を崩したノラは、飛びかかった勢いをそのままに一旦駆け抜けて距離を取った。大きく動いたことでたなびいた、彼女の夕陽に照る毛髪が美しく舞った。
「なによ、たかが飼い犬のブンザイで! 引っ込んでなさい!」
「いいえ、しろうさんはこのわたしが守ります!」
ラテは嗣郎の前に立って身を挺した。
ノラは同族の犬少女・ラテと対峙する。しかしラテのそれとは違い、つんと上向いている彼女の耳はその気の強さを体現しているかのようだった。
「……邪魔立てするならアナタも許さないわよ?」
「はい、許さないのはこちらも同じです……」
ぐるる、とにらみ合いを交わす二人。
ラテは未知なる敵の襲来に俄然いきり立っていた。小さな体をぐっと低く構えて、相手にいつでも反応できる姿勢をとっていた。
こんなにも攻撃的で荒々しいラテを見たのは、嗣郎は初めてだった。
「もうやめろ、ラテ。そんなヤツ相手にしちゃだめだ」
「で、ですが、しろうさん……!」
ノラ少女の尖った耳がぴくりと反応した。
「ちょっとニンゲン! ……なんなのアナタ、どうして私たちとそんなナマイキな口が利けるの?」
人間であるはずの嗣郎の、人間らしからぬやり取りを見て、ノラは疑問を投げかけた。
「どうしてって言われてもなぁ……俺が聞きたいくらいだが」
「なんなのバカにしてるの? アナタなんて豆腐の角に頭ぶつけて死んじゃいなさいよッ!」
「はぁ……? 犬のくせに豆腐がなにか知ってんのかよ……」
遠慮なしに辛らつな言葉をぶつけてくる抜身の刀のような少女に、嗣郎はほとほと呆れかえった。
「待ってくださいノラさんっ、このしろうさんは、特別なヒトなのですよ!」
二人の間に割って入るラテが、ノラ少女に呼びかける。しかし彼女は聞く耳を持とうとしない。
「ふん? そんなの私の知ったこっちゃないわね」
「しろうさんはわたしたちのことを、ちゃんと“人間として扱ってくれる”のですよ」
「……んなっ、なにいってんの……? そんなのどうせフリだけに、決まってるわ……」
ノラ少女はラテの発言に感応して見せたが、すぐに居直ってぷいとはねのけた。
「フリなんかじゃありません。しろうさんはわたしたちとちゃんとお話をしてくれます」
「いいえ……そうやっていつもニンゲンは、私たちを騙すんだわ」
「ちがいますよう! しろうさんはとてもいい人なのです!」
二人の同族はなおも対立を続ける。
「あー……ちょっといいか」
嗣郎がいまだ気の静まらないノラに話しかけた。彼がラテ以外のイヌと対話をするのは実に久しぶりのことである。
ノラが、キっと嗣郎を射抜くように見た。
「なによ、まだいたの!」
「いちゃだめなのかよ……とりあえず落ち着け。俺たちはただ、夕飯の買出しのついでに寄っただけで……」
「ゆっ、夕飯……? まさか私たちを取って食おうと……」
「食わないって。だから落ち着けってば」
「なんなの、そんなこと言ってホントは油断させるつもりなんでしょ? ニンゲンたちはいつもそう!」
「あのなぁ……お前みたいにまずそうなヤツなんか、誰も食う気がしないから安心しろよ」
「……な、なんだかバカにされた気がするわ……コイツめちゃくちゃナマイキだわ……!」
ノラ少女は全く嗣郎を受け付けようとしなかった。
嗣郎もこの少女の拒絶っぷりにあきれ果て、到底心穏やかではない。
この二人はお互いの言葉がいちいち気に障りあうようで、その会話は火と油を交互に注ぎいれるようなものなのだった。
するとそこへ、他の一匹の野良犬が姿を現す。少女の連れ合いのようで、それに続いて二匹、三匹と続々集まってきて、いつの間にやら辺りは十数匹という大所帯の様相を呈していた。
中には嗣郎と同じくらいの背丈の娘、あるいはラテよりも小さい幼子など、雑多な面々の犬耳たちが嗣郎を取り囲む。
これだけの人数がこの公園に潜んでいたのかと、嗣郎は驚きもした。群れといってもいい。そしてこの集団を束ねているのが、あのノラ少女なのだ。カリスマ的なリーダーなのかもしれない、嗣郎はそのことにさらに驚きを隠せなかった。
群れの中、最初に現れた野良犬が駆け寄ってくる。
「姉さん、大丈夫……?」
「ちょっと、どうして出てきたりしたのよ!」
この中性的な犬は、たぶんオスだろう。嗣郎はげっそりした。おそらくラテと同じくらいか、それ以下に幼い。ノラ少女の弟であろうか。
嗣郎は彼女に直接聞いてみた。
「……お前も姉ちゃんをやってるのか?」
「うう、うっさい! アナタなんかにお姉ちゃん呼ばわりされる筋合いはないわ!」
こっぴどく一蹴された。
ノラ少女はその身の後方に弟を隠して、嗣郎に宣言する。
「……いいことニンゲン、よく聞きなさい? 私はアナタたちが大嫌いなの。もう見ただけでも引き裂いてやりたくなるくらい、大大大っ嫌いなの」
彼女は深く息を吸って、語気を強めた。
「それがわかったら……。もしアナタが、ホントに私の言うことばが理解できるというのなら……今すぐ・即刻・3秒でこの場を立ち去りなさいッ!」
トドメとばかりに言い放った。
3秒は無理だろ……。嗣郎はしかしまた飛びかかられてはたまらないので、口には出さずにおいた。
そうして嗣郎は彼女の有無を言わさぬ剣幕に、仕方なく撤退を決め込むことにしたのだ。
彼女とその一群をなるべく刺激しないよう、いまだ興奮の冷めやらぬラテを引っ張ってその場を退いた。
嗣郎たちが去ったのち。
ノラの弟が純粋に言葉を発する。
「姉さん、あのヒトは何者だったの?」
「……知らないわ」
「ボクたちの言うことが分かるみたいだったけれど」
「知らないったら! そんなのは気のせいよ、そうに違いないわ。だってニンゲンは……」
言いかけて彼女はそこで口をつぐんだ。
「元気出してよ姉さん……あっ、そうだ。今朝そこでこんなものを拾ったんだけど、姉さんにあげるね。……はい」
弟はノラ少女を元気付けようと、ある袋詰めされたものを手渡した。
「……何よこれ、ヘンな形。ニンゲンはこんなモノを食べてるの? これだからニンゲンは……」
ノラ少女は袋をがさがさと開けて、謎の筒状の食品を取り出す。
ぶつくさと文句を垂れながら、彼女はちくわにかじりついていた。
◇
嗣郎とラテは、ほうほうの体で公園を後にした。
やがて自宅へ帰り着く頃には日もすっかり暮れていた。
「あら。おかえりトシちゃん、ラテちゃん?」
「ただいま……」「です……」
あれほど獰猛で攻撃的な犬に遭遇したのは、嗣郎は久しくないことだった。甘音の声を聞いてようやく我が家に帰ってきた気分だった。
「甘姉、あの公園には近づかないほうがいいよ……なんかヘンなのがいる」
「なぁに、ヘンなのって? 私、気になっちゃうんですけど♪」
嗣郎は事情を説明した。
興味津々に甘音は話を聞いていた。
「へぇ~、野良犬がいるだなんて初めて聞いたわ~」
「うむ……どっか別のところから移ってきたのかな」
厄介な奴らが来てしまった、と嗣郎は嫌気が射した。
相手がいくら少女とはいえ……いや少女であるがゆえに、あれだけの数で囲まれるとややも恐怖感が、というよりもヘンな気持ちが湧き上がってくる。
嗣郎は共に修羅場を潜り抜けたラテを見る。
「それにしてもだが、ラテ。その……助けてくれたことには、いちおう感謝しとく」
「あれくらいは当然です……」
「お前をただの泣き虫の弱虫だと思ってたが……まさか守ってくれるとはな」
「いざとなれば戦いますよ(しろうさんその言い方はヒドイです)」
ラテはまだ興奮が抜け切っていないように嗣郎には感じられた。
彼女の活躍を知った甘音は感嘆の声を上げた。
「あら、なに? あんな~にかわゆくワンワン言ってたラテちゃんが? 群がる凶暴な野良犬たちを相手に、切っては投げ、切っては投げの大活躍?」
「うむ……いや、全然違うけども。俺もびっくりした」
嗣郎はラテを見直したようで、頭をわしわしと撫でてやった。
「次、襲ってきてもわたしが撃退してやります……」
なぜかラテは復讐の炎にメラメラと燃えていた。
それはまるで彼女にあるまじき勇ましさであったが、
「わたしのちくわを奪ったノラさんは、許しません……! 食い物のウラミはおそろしいのですよっ!」
単なる、今は亡きちくわの私怨だった。
「なんだよ結局、食い意地かよ……」
嗣郎の柄にもない謝意は急激に薄まっていった。