15 委員長×箱入娘×御嬢様=図書委員
朝の散歩から戻った嗣郎は、取って返して大急ぎで学校へ向かった。
ちくわの喪失で意気消沈するラテに、その埋め合わせを今度してやるだの、なぐさめるので時間を食ってしまったのだ。
「うぅ……わたしは気付いていたのですよ……でもしろうさんが……」
「わかった、わかったから、すまんかった! また今度買ってきてやるって……」
「ぜ、ぜったいですよ……ふえぇ……」
嗣郎は通学鞄を乱暴に引っつかんで家を出た。道中で信号待ちをする間に靴紐を結びなおし、最短のルートを最速で進み、学校を目指した。
既に生徒もまばらな校門を、嗣郎は走ってくぐりぬけた。
教室へ遅刻ギリギリ、滑り込むことができた嗣郎。
そこへ彼の友人にしてクラスメイトのマサトがすり寄ってくる。
「おっ、豆ぇー。おはいよーう!」
嗣郎、これを華麗にスルー。
「おいっ!? 朝の挨拶は誰とでもするもんだろっ!」
「……そんな文化、俺にはねーな」
嗣郎はしれっとマサトを放って、自分の席へと向かった。
その途中で、行儀良く席に着いて予習をしている様子の委員長の前を通った。彼女と目が合ったので、嗣郎は小さく会釈を交わした。
なんでもないようなその光景をひょいと目にしていたマサトは、たじろいだ。そして次の瞬間には猛烈な勢いで嗣郎に詰め寄ってきて、委員長には絶対に聞こえないように小声で、だが意気盛んに嗣郎を問いただした。
「……豆。おまえさ、委員長と何かあったの……? スゲー仲良さそうじゃん……」
「べつに何も。特にマサトが期待してるようなことは、ない」
嗣郎はすまし顔であしらった。
が、彼はちっとも納得していないようだった。
「だっていま、なんか親密そうにアイコンタクトしてたよな……?」
「いや、今朝ちょっと散歩中に会ってさ、そんだけだよ」
「だってだって相手はあの委員長、一柳さんだぞ?」
「たかが挨拶だっつーの……」
いくら弁明してもマサトはこれぽっちも引き下がろうとしなかった。
「あのなぁ、豆。この際だからツウのオレが教えておくけど。一柳さんは、ウルトラC級のお嬢さまなんだぞ……」
「ウルトラCってなんだよ」
そういって彼は饒舌に委員長こと一柳さんについて、熱く語りだしたのだ。
この教室の最前席に着いている、彼女の名前は。
「一柳……文香、だろ」
嗣郎は口にした。もちろんそれくらいは知っている。
マサトはウンと頷いて喋りだした。
「あの子のパパ上様は議員か何かをやっててさ。ジジ上様もなんか有名な創業者らしいんだ」
「議員か“何か”って、いきなり情報があやふやなんだな……情報ツウとか言ったくせに」
「と・に・か・く! 超っ、箱入り娘のお嬢さまなんだよ!」
つい勢いで声が上ずったマサトを、嗣郎がぽかと殴った。
その話題の当人は相変わらず大人しく、行儀良く席に座っていて、この程度のことにはぴくりとも動じていない様子だった。
ふぅ、と息をついてマサトが続ける。
「……で、そんな箱入りのお嬢さまだから、偶然にも遭遇するなんて、俺はびっくりなわけよ」
「ほう。びっくりか、おまえはその程度でびっくりしちゃうのか」
「だってオレはてっきりさぁ! 毎朝、なんか黒塗りのゴージャスな車でっ、送迎されてるんだと思ってたもん」
「声がデカイっつーの!」
嗣郎の二発目がマサトにヒットする。
「アテテ……んできっとさぁ、お付のシツジとかがいてさぁ。車から降りるときはレッドカーペット敷かせるんだ」
絵に描いたようなべたべたのお嬢さま像を語るマサト。どんどん彼の妄想が肥大化されてゆく。
彼には一柳女史その人が、そのようにイメージされているらしい。
「どこからツッコむべきか……。というか、そんな光景はいっぺんも見たことないだろうが」
「そうだけどさ~。オレ、一柳さんが朝、登校してくるところは見たことないぜ」
「あぁ、それは……」
委員長の朝はやたら早いからな……嗣郎はひとりで納得した。
◇
この地域で一柳といえば非常に名のある姓だった。古くはこの一帯を牛耳っていた一族らしいが、その流れを汲む旧家で、今でも方々に影響力を持っているという。そのお家柄、委員長も周囲からは一目置かれる存在であった。
嗣郎は授業中、ふと気になって“一柳文香”その人に視線を向けていた。
彼女はどんな退屈な授業でもぴしっと背筋を伸ばして臨んでいて、授業中に居眠りをしているどころか、頬杖をついているところすら、嗣郎はこれまでにも見たことがなかった。
彼女がこの教室にいるだけで、何倍にも授業の緊張感は増しているような気がする。まさに委員長たりえる存在なのだった……本人曰く、本当は図書委員らしいけれども。
そうして嗣郎は考えた。
やはり立派な家に生まれた人間は、その家系の重圧を背負って生活しなければならないのだろうか?
なにしろ桐谷家では、父親があの父親だし、まるっきりの放任主義的な家柄である。炊事洗濯に身の回りの世話はもちろんのこと、学業や進路についても丸投げ、もとい子に一任されているのだ。
奔放な親元で育った嗣郎には皆目、委員長の暮らしぶりが想像できなかった。
そんなことを考えていたら、ある休み時間に偶然にも委員長本人と会話する機会があった。
「今朝はお世話様でした。桐谷君」
「ど、どうも」
彼女はそういって嗣郎に向けて恭しくお辞儀をしてきた。
こうも毎度丁寧に応対されるのは、やはり慣れない。嗣郎は変わらず彼女のことを苦手に感じながら、なんとかこの場での会話を取りもつワードを頭の中で捜索した。
「えーと……委員長って、図書委員だったんだな……。てっきり皆がそう呼ぶから、この学級の委員長だと思ってたよ」
「それは“現”委員長の春川君に対して失礼です。それに私は、そのような立派な人間ではございませんよ」
彼女は一切れも嫌味を感じさせることなく謙遜をした。
十分にあなたはご立派だと思います! 嗣郎は思っておくだけにとどめた。
「……桐谷君、今朝のお散歩は。あれから公園には、お立ち寄りになりましたか」
「いや、行かなかったよ……なんとなくだけど」
「そうですか」
それはよかった、とかすかにつぶやかれた言葉が嗣郎の耳に残った。
彼女は相変わらず事務的で、無表情だった。
「それでは次の授業がありますので。失礼いたします」
「そ、そうだな。それじゃあ──」
彼女は会話を打ち切って、そうして去り際に、
「……あと。私は“フミカ”ではなくて“アヤカ”ですから」
と、言い残していった。
内輪話が筒抜けだったことを気まずく思うよりも先に、彼女との対談という急場をしのげたことに安堵をする嗣郎であった……。
◇
嗣郎が学校から帰宅すると、即座にラテが出迎えた。その対応速度たるや脅威のロケットスピードである。
ロケットすぎて戸を開けた嗣郎に勢い余って突進してきた。
「うごっ……」
「お帰りなさいませ、ご主人さま~!」
嗣郎の身に顔をうずめて抱きついてくるラテ。ちょうど頭が嗣郎のみぞおちに痛恨の一撃。
「……というか、うっ……いつからここはメイド喫茶に……なったんだ……ハァハァ」
色々とツッコミが追いつかない。ちなみに息が上がっているのは興奮のためではない。
ラテにまとわりつかれた嗣郎がややもうんざりしていると、ちょうど客がまばらで暇を持て余していたこの店の店主、姉の甘音が姿を現した。
「それも悪くないわね! 私もやってみようかしら、ご主人様?」
ヤメテー! 嗣郎は全力で反対した。
さても日の暮れ始めたこの喫茶店は閑散としている。
甘音はバーカウンターの内側に収まって、手持ち無沙汰に器具の手入れをしていた。
卓上に並べられたそれら──コーヒーミルに、ケトルとドリッパー、陶器のカップに銀のスプーン。ただ一杯のコーヒーを入れるというだけでもこの店には多様なアイテムがある。そのどれもが父親から譲り受けたものだが、甘音はその一つ一つを丁寧に取り扱った。
「ねぇねぇトシちゃん、ねぇってばー」
「なにさ……暇だからって俺に絡まないでよ、甘姉」
姉の甘音は嗣郎のことを“トシちゃん”と呼ぶ。ちゃん付けされることに嗣郎は抵抗を感じずにはいられなかったが、もっともその呼び方のほうが本名に近いということは、事実であった。
「そういえばラテちゃんって、ぜんぜん吠えないわよね~」
退屈を紛らわそうとして甘音が言った。
「ふむ、たしかに……ラテ、ちょっと吠えてみ」
「わ、わん!」
「もっと真剣に。吠えよラテ!」
「わわ、わん!」
「ぜんぜん気合が足りないよ、もっと熱くなれよ!」
「え、えぇ……なんですかそれ……」
ラテは嗣郎に言われるがまま応じてみたが、いまいち迫力に欠けた。
「やーんかわいいー♪」
姉は、必死に虚勢を張って吠えているラテをいたく気に入ったようだった。
嗣郎は姉の退屈しのぎ相手もほどほどに、ラテを外へ連れ出してやることにした。
夕飯の買出しのついででもある。
「また散歩に行くのですかっ!?」
「うむ……今日は店もヒマだったからな」
嗣郎は冷蔵庫を物色して中の食材をチェックした。前日の夕飯当番が姉であった場合、思わぬ食材が保存してあったり、著しく食材が不足していたりするので、嗣郎は事前確認を怠らない。
チェックの済んだ嗣郎はラテと共に自宅を出た。
「しっかり俺の横に着いてこいよ。それから道路は飛び出すな」
「わかっています!」
ラテは今にも駆け出していきそうなはしゃぎぶりだった。
「しろうさん、しろうさん!」
「ん、なに」
「今朝の公園にも行きますか?」
「あー……道すがらではあるが……」
嗣郎は今朝のことを思い出した。公園のそばを通っていて、そこで委員長に出逢ったのだ。
「近寄るなと言ってたな。あれはなんだったんだろうか」
たとえば、ジョギングやサイクリングをしている人が多くて、ラテを連れていると危ないからとか。あるいは遊んでいる子どもが多いとか。たしかにそういった公園の利用者とラテの相性は悪いだろう。
嗣郎なりに彼女の言葉の意味を考えた。
「……で、おまえはあの公園に行きたいのか?」
「はいっ、ぜひとも!」
「うーむ」
嗣郎は少し悩んだ末に、一度寄ってみることにした。委員長の忠告のわけが気になった。
「そのかわり、知らん人に飛びかかったりするんじゃないぞ」
「もちろんです!」
◇
二人は公園のすぐ近くまでやってきた。嗣郎はこの場所で委員長と出くわしたのだ。
ラテは嬉々として周囲を見回している。何かを探している様子だった。
「たしかこのあたりに……」
なにやら草むらのかげを熱心にかき分けている。
「おい、ラテ。なにやってんだ?」
「い、いえっ、今朝のちくわが落ちていないかと……!」
「……もしかして、この公園へ来たがったのはそのためか」
やれやれと頭を抱える嗣郎。
「だだ、だって! わたし見たのですよ、ここの草むらへちくわが逃亡してゆくのを! ぜったいにこの場所でまちがいはないのです!」
「はぁ……とんだ食い意地の張った犬っころだな、まったく」
ラテは執念深くちくわの捜索を続けた。
が、探し当てることはできなかった。
「きっとちくわに足が生えて、トンズラこいたのです……うっ、ううっ……」
捜索は難航。ホシの行方は知れず。
ラテは悲しみのあまり、号泣した。マジ泣きだった。