13 おはようございます、ご主人さま!
澄んだ空に朝日が昇る。
小鳥の鳴き声が染みわたり、朝の訪れを高らかに告げる。
まぶしげな光が少しずつ町に広がり、例外なく、この喫茶店も朝を迎える。
きらきらとカーテン越しに窓から陽が差し込む、その店の二階、青年の自宅。
彼の自室では一人の少女がさえずっていた。
「ご主人さま! ご主人さまぁ!」
「……ん、んん……」
「ご主人さま! 起きてください、ご主人さま~!」
「う、う~ん……」
“ご主人さま”と呼ばれた青年、桐谷嗣郎は、いまだ朝のまどろみの中にいた。温もりの残る布団の中を未練がましく、もぞもぞと寝返りを打つ。その動きに合わせてあちらからこちらへ、首輪をつけた少女が気ぜわしく寄り添っていた。
彼女はじりじりと嗣郎の顔をめがけてすり寄ってくるので、嗣郎はそのたびに体の向きを転換させられていた。嗣郎の寝顔に興味津々の様子で、懲りずに何度も覗きこもうとしてくる。彼女の髪の毛が嗣郎の顔にかかるほどの至近距離であった。
おそろしくうっとうしい……。
とうとう嗣郎はそんな可愛げのある少女に起こされて、今朝も目を覚ました。
「ご主人さま!」
「……というか、そのビジュアルで、その呼び方は犯罪的だろ……」
寝ぼけ眼でもツッコミは欠かさない嗣郎。
「そうですか? でも、しろうさんは新しいご主人さまだから、まちがってないですよね?」
「まぁ……そうだが……」
首輪をつけた少女が「ご主人さま!」と連呼するさまは、嗣郎に非常に危なげな妄想をさせた。いや、彼でなくともそんな光景を目の当たりにしたら、落ち着きはしないだろう。嗣郎の頭の中ではSとMの二文字がぐるぐると踊っていた。
それにしたって、なんだってこのバカ犬は朝っぱらからこうもうるさいんだ。
「だってしろうさんが、朝は起こしてくれって言ったじゃないですか~!」
「う、そうだった……」
嗣郎は反省した。しかしこの少女がこんなにも、早朝から、ハイテンションで襲ってくるとは思っていなかったのだ。
自らの安眠を妨げられたことを嗣郎はうらめしく思いつつも、仕方ない、と頭を撫でてやった。
「わう……!」
少女は満足げに目を細めていた。
彼女はある理由がもとで家出をしてきたヤツで、今現在はこの桐谷家に居候をしている。
普段は嗣郎の自室で生活しており、半ば同棲状態となっていた。『天然』という言葉が非常によく当てはまる、天真爛漫で無防備である彼女に対して、嗣郎は自らの健全な精神と戦うことを余儀なくされた。
なにせ彼女はそのナリでべたべたと甘えてくる。嗣郎のそばを片時も離れようとしない。風呂やトイレにまでついてこようとしたときには、さすがの彼も怒鳴りつけた。
「ここから先は神聖領域だっ!」
「あ、あう……」
隙あらば嗣郎の“お褒め”をいただこうと常にくっついてまわっているのだ。
そんなわけでこうして毎朝、嗣郎は少女にせっつき起こされてはげんなりする日々を送っていた。
少女の名前は、ラテ。
舌足らずの泣き虫のくせに、いやに丁寧な口調で話す。そして嗣郎のことをこよなく愛し、バカがつくほどに従順である。
なんたって彼女は犬だから。
頭にぺろんと生えた獣の耳は、敏感に嗣郎のことばをキャッチし、決して逃がさない。
お尻から覗き忙しなくパタパタと揺れている尻尾は、彼女の慕っていることを示す感情のバロメーターだ。
◇
嗣郎はラテを伴って喫茶店兼自宅を出た。
朝日の陽光に思わず目をしばたたいて、嗣郎はゆるやかに伸びをした。早朝の冷たい空気を胸に取り込んで、眠たげな体を覚まさせる。
「……ふぁ~、ねむ……んじゃ行くか、散歩」
「はいっ、いきましょう!」
ラテは元気に呼応した。尻尾がピコピコと強い反応を示している。
「たかが散歩でそんだけ喜べるおまえが、うらやましいよ」
「なにをおっしゃいますか! 散歩といえば遠足も同じですよ!」
「なんじゃそら……おまえこそ何を仰いますかと言いてーよ」
嗣郎とラテは並んで歩き出した。
二人の間にはリードのようなものは何もなかった。しかし嗣郎にとってはそんなものを取り付ける必要もなかったのだ。そもそも“彼ら”と意思疎通のできる嗣郎は、ことばだけでコントロールすることも可能であったし、加えてラテと信頼関係で強くつながっていることも感じていた。
というよりも正直に嗣郎に言わせれば、である。少女相手に首輪を巻きつけて、さらに鎖までつけて引っ張るということが彼の感覚ではありえないことだった。彼の健全な精神によってそれは阻害された。なぜならその見た目は完全に……
「変態、だよなぁ……」
「はい?」
「い、いや、なんでもない」
嗣郎はふと、小首をかしげてこちらを見上げるラテと目が合い、どぎまぎした。彼女のあどけなさを残す顔つきに、軽やかな淡い髪の毛が照り映えている。少女の、ネグリジェのような薄い肌着に包まれた体は、朝日に透けて華奢なことが見てとれる。
嗣郎はこのごろ、意識すればするほど彼女が女の子であると感じてしまっていた。
「とっ、とにかくだ。散歩中はぜぇーったいに、俺のそばから離れるんじゃないぞ」
「わかりましたっ!」
ラテは元気良く返事をした。
こうやってなにか命令を出すたびに彼女は喜んでいるようだった。そのことが余計に、嗣郎を変な気持ちにさせるのだった。
◇
早朝の空気は、人と人との心を自然と通わせる。そんな気がする、と嗣郎は思った。
お互いに全く知らない者同士なのに、全く同じ朝に出くわすことで、不思議と親近感を得る。すれ違いざまにぽろりと挨拶が口をつく。
「おはようございます」
「おはよーございます!」
嗣郎は道端ですれ違った人と挨拶を交わす。
それにつられてラテも、ぺこりとお辞儀をする。
「しろーさん、今の人はお知り合いですか?」
「いや知らん。でも朝の挨拶ってのは、その日に初めて会った誰とでもするもんだ」
そうなんですか~、とラテ。
「じゃあ、しろうさん、おはようございます!」
「なんでだよ……」
「いえ、今朝はまだ挨拶をしていなかったので……」
「はいはい、おはようさん」
嗣郎はやれやれと、仕方なさげに応じてやった。彼女といえばこういう細かいところで律儀なヤツなのだった。
「とっ、ところでしろうさん、そのっ……ポケットの中のものはなんでしょうか……?」
「ああ……これは……」
これに気付くとは、さすが犬の鼻だけある。
相変わらずテンションがハイなのもきっとこれのせいだろう。
「ま、あとでのお楽しみだ」
そういって嗣郎は、つと歩き出した。
嗣郎のポケットの中では、『ちくわ 4本入パック(98円)』が小躍りしていた。
ラテの朝ごはんにして、大好物であった。