11 帰り道
夕陽が町を照らす。電柱、街路樹、立ち並ぶ家々に、帰り着く人々。今このたそがれの町に存在するすべてのものが、シルエットとなって地面のアスファルトに投影されている。そのうちの二つの影ぼうし、帰り道をゆく一人の青年と一匹の少女の姿があった。
あれから嗣郎とラテはそのまま帰路に着いた。
嗣郎は何も話さなかった。ラテを叱りつけるつもりでいた。
彼女はその気配を察して、やはり何も言わなかった。
お互いに一言も発しないまま歩いていた。
それでも言葉にしなければ伝わらないことは、ある。
「ラテ」
「はい……」
オレンジの歩道をゆく嗣郎の後に続いて、しゅんと冷めた少女がついてくる。
「俺が怒っていることは、わかるか? 勝手に家を飛び出して、おまえ、車にひかれたりしてたかもしれないんだぞ」
「……はい。ごめんなさ……」
「もう謝らなくていい。すぐに謝るのは、おまえの悪い癖だ」
いつものごとくして謝罪しようとしたラテの言葉を、嗣郎が遮る。
「いちいち謝るくらいなら、なにか言い訳でもしてみろ。どうして逃げ出したのか。おまえの本当の飼い主は一体どこにいるのか、とかな」
嗣郎は怒鳴りつけるでもなく淡々と言葉を続ける。しかし、その裏に静かな叱責を込めて、芯に響くように確かな声で語りかけた。
「…………」
「元の飼い主のところへ戻りたいとは思わないのか?」
ラテは首を横に振る。
「……わかりません」
「それはどうしてだ?」
「それは……」
嗣郎は立ち止まって振り返り、意気消沈の少女の顔を凝視する。次第にその無言の圧力に屈して、ラテはとつとつと元いた家のことを話し始めた。
「わたしは……逃げ出してきたんです。“ご主人さま”のところから……」
◇
少女はある家で飼われていた。そこではとてもよく可愛がられていた。それと同時に厳しく躾けられてもいた。生活するうえでのきまりはもちろんのこと、マナーや、芸など、様々なことを飼い主は教えた。少女は飼い主の言うことをよく聞いて、覚えた。
この少女が幼いくせに妙に敬語口調なのはそのせいか、と嗣郎は納得をした。
だんだんとその躾けのハードルは上がっていった。
愛情の裏返しは、スパルタ教育だった。飼い主の要求がエスカレートして、少女の理解が追いつかなくなったとき、飼い主は少女をよく叱るようになった。
叱られることが怖くなった少女はこわばって、それまでできていたことすらもよく失敗するようになってしまった。そしてまた叱られる、の繰り返し。いつしか少女はおびえて何もできなくなっていた。
そうしてある日、お仕置きとして外に閉め出されてしまったのだ。
「わたしは要らない子だったのかもしれません。ご主人さまにそう言われてしまうのが、怖くなって……わたしはその場から、逃げてしまいました」
少女はその家を飛び出して、走った。雨の中をいとわずにどこまでも走った。あてもなくとにかく走った。少女に逃げ場なんてなかったから。
その果てにたどり着いたのが、あの高架橋の下だった。
そこで少女は嗣郎と出会った。
◇
夕焼けの町をびゅうと吹く風が、青年と少女の間を通り抜けてゆく。
今にも消えてしまいそうな少女は、その震える唇で問いかけた。
「しろうさん。わたしは……要らない子だったのでしょうか? わたしは、しろうさんにも捨てられてしまうのでしょうか……?」
少女は純粋で、従順で、生真面目だった。
もし彼女がもっとしたたかで、愛情深くなかったならば、今こんなにも憔悴してはいなかっただろう。
嗣郎はしかと考えて、それから静かに口を開いた。
「ああ。全くそうだな」
「……あ、……え、……」
「おまえみたいな泣き虫じゃ、前の飼い主もさぞ、苦労しただろうな」
「ご、ごめんなさい……、しろうさ……ん……ううっ……えぐっ……!」
少女はこらえきれずに泣き出した。
大粒の涙が頬を伝い、少女が何度手で拭っても、こぼれ落ちた。
「……だから。おまえのその、どうしようもない泣きぐせが直るまで……うちで預かってやる」
「……え……?」
「うちにいればいい。捨てたりなんか、するもんか」
嗣郎は少女の手を無理やり引いて、それから、仕方ないと言いながら、抱き寄せた。そのまま少女の頭を優しく撫でてやった。
「おまえが一人前になる頃には、きっと元の飼い主も、迎えにやってくるはずさ」
もう泣くんじゃない、そう言った嗣郎のことばに反して、少女の涙はしばらくの間、とどまることをしらなかった。
帰り道。夕陽に照らされて、寄り添う二つの影があった。