09 迷子の少女、預かってません
「ありがとーございましたぁ。ワンちゃんの件、よろしくねぇ~」
客の一人が店を後にする。開け閉めされた扉の鈴がカラカラと鳴り、ランチタイムの後片付けに追われる甘音の声が客を見送った。
昼下がりも過ぎると、店の客足も落ち着いてくる。
食器を下げ、テーブルを拭き、洗い物をし終えてから、甘音も一息つくことにした。
「さて、お昼だけど。ラテちゃんは何が好きなのかしらね~。昨日は牛乳しか飲まなかったから……お豆腐かしら? ごはん? それともヨーグルト?」
甘音は独自の白いモノ基準で食べ物を列挙していく。
「……まさか! 雪見犬福か!」
段ボール箱に向けてビシィっと言い放った。
そうして、異変に気付いた。
「あら……?」
箱の中の毛玉の主は、忽然と消えていた。
◇
「お、おそろしい……あれがきっと“せんしゃ”に違いないですね……!」
一人の少女が住宅街の道を歩いていた。
見慣れない景色にきょろきょろとしながら、そばを通り過ぎる車にいちいち驚いている。
ラテは嗣郎のにおいをよく覚えていた。
あの雨の日も、嗣郎に抱きかかえられてこの店までやってきた。それから嗣郎はずぶぬれの髪をといて、頭を撫でてくれた。仕方ないとは言いながらも撫でてくれた。何度も、そう何度も。
嗣郎はあまり目を合わせようとしなかったけれど、嗣郎のことをラテはしっかり覚えていた。
ラテは今まで飼い主にいい子いい子してもらえなかった。
失敗をするたびに叱られていた。何をしていいかわからず、余計に飼い主を苛々(いらいら)とさせた。
いつの間にかラテは怯えることしかできなくなっていた。
「しろーさんはどこに……」
ラテはただ嗣郎のそばにいたかった。
だから、甘音の甘い隙を狙って店をこっそり抜け出していたのだ。
ラテはかすかなにおいを手がかりにして道路を渡っていた。右から左から車のやってくる交通量の多い交差点。親切に一時停止してくれる者など、ほとんどいない。
「あまねぇさんは“ヨユーのヨッチャン”でしたけど。アレはそうもいきませんね……」
そうしてラテは行き交う車に恐怖を感じて、道のど真ん中で立ち往生していた。
「あう……“せんしゃはやわらかい”と聞いていたのに。超強そうですよぅ……」
車の往来はとどまることなく、重厚な排気ガスで嗣郎の手がかりを乱暴にかき消していく。
ラテは覚悟を決めた。
嗣郎のにおいが完全になくなってしまう前に。
そしてなによりも、少しでも早く嗣郎の元へ辿りつくために。
勇気を振り絞って前進した。
◇
それから、とある喫茶店。
午後のうららかな陽光が射し込み、優雅なひと時を楽しめる……はずだったお店。
店の中を店主が青い顔をしてあわただしく駆け回っていた。
「!? い、いない……いなくなってるぅ~」
ラテが段ボール箱の中に収まっていないことに気付いてから、甘音は店中をくまなく捜索した。テーブルの下、カウンターの裏、それから冷蔵庫の中まで。
しかし、どこにも見つからなかった。
「これはラテちゃんなりの、雪見犬福がNOという意思表示なの……? それとも豆腐がNOなのかしら……」
冷静さを欠いた甘音がわけのわからないことを口走りだす。
「ひとまずは、落ち着けや」
店主は客になだめられていた。
「まったく、しょうがねぇ姉ちゃんだな。お代はここ、置いとくぜ。釣りはやるわ」
右往左往している甘音を見て、事態を把握した男の一人が席を立つ。
「犬、みっけたら雪見犬福にして食うたるわぁ。もしや犬が自分で帰ってくるやもしれん……姉ちゃんはここにおりや」
そう言って男は足早に店を出ていった。
男は背中で、「ワシに任せろ」と語っていた。
その姿は頼もしく、輝いて見えた。
「おじさん……ありがとう……でもね」
代金が、足りてないわ……。
残された甘音はほろりと泣いた。