03
「けほっ、げほっ……」
溜まり切った唾液に数回咽ると、私はヨシュアさんから忌々しい猿轡をひったくり、森の奥に投げ捨てた。あんな物二度と見たくない。付けるのなんてもっと御免だ。ケッ、と放り投げた方角に悪態をつき、口元を乱暴に拭う。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよマリア。心配してくれてありがとうね」
そう言ってマリアの頭を撫でてやると、マリアは可愛らしい笑顔を浮かべてくれた。まさに聖母、いや天使。本当に可愛いなこの子は。連れて帰りたい。
だがそれに比べて……
「………」
「………」
ラッキースケベ、違った、ヨシュアさんは何ていうか、うん。残念過ぎる。何で猿轡を投げた方向を名残惜しそうに見てるんだ。まさか欲しかったのか?ちょっとキモいぞ。駄目だよこの人、出会って数分で変態という名の紳士にクラスチェンジしてる。
そもそもこの猿轡を外してもらう時も、ちょっと気持ち悪かった。ラッキースケベに気付いているのかどうかは知らないが、私が圧し掛かったっていうのが相当キたらしく、元は青かった筈の肌が見事に真っ赤だった。後頭部をぶつけた痛みを通り越して妙に興奮してたし、息遣いも変態臭かった。だがここまではまだいい。まだマシだった。
問題はここからだ。マリアが拘束具を外して欲しいと何度も言ったのに、彼は自分から私に近づけなかった。予想していたことだし、仕方が無いので諦めて立ち去ろうとするのだが、ヨシュアさんはその度に引き留めるのだ。しかもその時だけ自分から近づくのだから、余計に腹が立つ。最終的に何とか私が木の方に追い詰め、無理矢理迫って取らせたのだが、息遣いが更に荒くなった。めっちゃ匂い嗅がれてた気がする。ちょっとぞっとした。記憶が劣化するの、あんまり待ちたくないんだけど。
「ねえお姉ちゃん、お姉ちゃんの名前は?」
ヨシュアさんを残念な目で見ていると、マリアが可愛らしく上目遣いで質問してきた。だから何なのこの可愛い生き物は! 今だけ私はヨシュアさんのことを変態呼ばわりできない……!
「う、うん、そういえば自己紹介できなかったもんね。私は依。芹沢依だよ」
「ヨル?」
「そう、依――ヨルだよ」
「……ヨルお姉ちゃん!」
私の名前を知ったのが嬉しいのか、マリアはまた良い笑顔を向けてくれた。ああああ可愛い! 可愛いよマリア超可愛い! 私今ならロリコンって言われてもいい! この手枷さえなければ、もう滅茶苦茶に抱きしめたい!
「………ヨル、さん……」
だが、私の幸せな気分を木端微塵にするように、背後から不吉な声が聞こえた。ぽそりと私の名前を呼ぶヨシュアさんは、天使のような妹と違って、顔を赤らめながらも影のある不気味な笑顔を浮かべていた。こう、ニタァ……って感じの。顔が良くなかったらただの不審者だが、顔が良いので、まだ「陰のある青年」みたいな感じでギリギリで許されるレベルだ。イケメンという名の変態の癖に。
だが……まあこれでもマリア同様、彼は私の恩人に当たるのだ。喋れるようになったのだし、きちんと礼を言うべきか。私はヨシュアさんに向き直った。
「その、ありがとうございます、ヨシュアさん」
「……!!! …わっ、私の、名前……っ!!」
「はい」
「……も、もう1回……いい、ですか?」
「……ヨシュアさん」
「~~~~っ!!!!!!」
ああもう駄目だこの人、救いようが無い。名前呼ばれただけで身悶えてるよ。
マリアはこの兄の様子を初めて目にするのか、さっきから私とヨシュアさんが何かアクションを起こす度、オロオロと兄と私を交互に見やって困っている。うん。初めてあの人が喋ってた感じを思うに、マリアには本当に普通に接してたみたいだからな……そりゃ戸惑うわ。
それにしても、もう随分時間が経った。月はもう3つ森の木々に隠れているところから、残された時間はあまり多くないだろうし、私もいい加減精神的にも肉体的にも疲れているのだ。早く逃げて、安全な隠れ場所を確保し、休みたい。
……よし。さっさと終わらせよう。私は少し意を決すると、木の幹をばんばん叩いてるヨシュアさんに声をかけた。
「あの、お忙しいとこ申し訳ないんですけど、こっちも外してもらえませんか?」
「……あっ……その枷、ですか……」
ヨシュアさんは私が発する言葉を一言も聞き漏らしたくないのか、即座に奇行を止めて私に向き直る。だがここで気になったのは、彼が枷を外すことに、さっきの猿轡の時と違って赤面するのではなく、困った顔をしたことだった。
「そ、その枷……見たところ、強力な呪具です。枷を嵌めている者自身の魔力を利用して術式が展開され、対象の魔力を封印、及び枷自体の物理的強度と、術式保護のための魔術的強度を、魔力の許す限り上げています。これを外すには専用の解言を告げるか、無理矢理枷を破壊するか……あるいは、膨大な魔力で無理矢理術式を壊すしかありません」
「それ、ヨシュアさんできます?」
「その……ヨ、ヨルさん……のお力になりたいのは山々ですが、私の力では、ど、どれも……。ヨルさん、かなりの魔力をお持ちのようなので、封印がとんでもないレベルになってて……それに、物理的に壊すのも、む、無理です」
「そう……ですか」
相変わらず目は合わせず、人差し指同士を突き合わせてもじもじとした軟弱な気持ち悪い仕草をしているが、会話の内容が真面目なためか、ヨシュアさんはかなりまともに喋る。「ヨルさん」と言った時だけ一気に変態臭い声音だったが、それを帳消しにできるくらい普通だった。
だが、状況は全く進展しなかった。私はこの枷をこれからも付け続けなくてはならないことが決定したのだから、当然である。むしろ悪くなったと言っていい。枷が外れる方に賭けていたからこそ、私は時間の浪費を良しとしていたのだ。それが失敗に終わった今、私は会話が可能になったこと以外に何のメリットも得られず、ただ徒に時間を消費してしまっただけなのだから。
「(くそ、やっかいな物付けてくれやがって……あのデブ共ますます許せなくなったな)」
私はギリ、と歯を食いしばり、城を睨みつける。あの豚共め、やってくれやがる。生きたまま燻製にして家畜の餌にしてやろうか。
そんな拷問計画を立てつつ、私は今後のことを考える。正直これが外せなかったのは痛手だが、それにこだわり過ぎても時間がもったいないだけだ。こういう時はすぐに次の行動に移らないと、二の足を踏んでいる内に失敗するのがセオリーである。
逃走に最も必要な時間はもう少ない。では、その残り少ない時間をどう有効活用するかがこれからの課題だ。そのために今必要なのは……
「……ねえマリア、この辺りってどういう場所? 教えてくれない?」
私はマリアに、この辺りの地理を訪ねた。地理のことが分かれば、ただがむしゃらに逃げるよりは、ある程度賢く逃げ回れるだろう。時間が無いのなら地理を把握し、それを上手く活かすしかない。土地勘の無さを少しでもカバーすれば、少しは逃走の助けになる筈だ。
「うん。えっとね……ここは人間界の、エウラタって国だよ。あの壁の向こうがエウラタのお城と町で、ここは町の外の、ヘジュデの森なの」
「あの城下町以外で、近くに街とか村とか、人が居るところは?」
「森をあっちに抜けた川の向こうに、ラーシャ村があるよ」
「ここから川までは近い?」
「うーん……ちょっとだけ遠い」
マリアの教えてくれた情報を元に、私は頭の中で地図を作る。月が地球と同じように西に沈むと仮定して、城はここから南。川はここから北東。更に川からそう離れていない場所に村……と。
さて、私が城の者なら、脱獄犯をどう追うだろうか。逃走経路が不明だと仮定したら、まず城下町を捜索するだろう。特に裏町やスラムといったものは、人の出入りが多い城下町のような場所なら必ずあるだろうし、そういう場所は訳有りの人間が隠れるのにうってつけの場所だからだ。それと、町の外の捜索は整備された道ではなく、この森を対象にする。森の中なら隠れる場所はそれなりだし、自生している茸や木の実、木の根などを食べることもできる。飢えの心配が無くなるからな。そして次に捜索するのは、村の方だ。木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中である。城下町と同様、人に紛れる可能性がある。
「(つまり、人里は追手がかかるからアウト……)」
選択肢から城下町と村の存在を消し、森に潜伏するのも危険とする。残されたのは川だけだが……そうだ、いっそ川を下るというのはどうだろうか。川に入れば匂いが消え、犬を使った捜索をされた場合、そこで撒くことができる。幸い今は夏だ、水温も高くないから、凍死の心配も無い。ただこの枷があるから、あんまり水深が深かったり流れが速かったりすると、溺れる可能性がある。
だが、川はいずれ海に出るだろう。海には港があると考えられるし、流れ着いた先に無かったとしても、海岸線に沿って行けば辿り着くかもしれない。そこで船の一つにでも潜り込めば、追手も来ない筈だ。それに上手く流れに乗ることさえできれば、体力を無駄に消費することなく、水が運んでくれる。危険だが、やってみてもいいだろう。それにこの土まみれの格好も、いい加減に何とかしたい。
「マリア、ありがとうね。ヨシュアさんも。私そろそろ行きます」
「あ、あの、ヨルさん、さっきから、どこに行くおつもりで……?」
「あの城の連中から逃げんの。どこでもいいから逃げないと殺される」
「こ、殺されるっ?ヨルさんが?」
「ヨルお姉ちゃん、何で殺されるの……?」
「何だか知らないけど、私、魔族だとか言いがかり付けられてんの。私は人間以外のものになった覚えなんざないってのに……!」
「……え?」
私の言葉に、ヨシュアさんは勿論、マリアも、ぽかんとした顔をした。あれ?私何か変なこと言った?
「ヨルお姉ちゃん……人間なの?」
「うん」
「で、でもヨルさん、ま、魔力だって、黒いですし……魔族では?」
「は? いやいや、そんな馬鹿な」
突然何を言い出すんだ変態という名の紳士。私の親は普通に人間で、肌は青くなかったし、目も普通で、魔法なんて使えないし、翼も角も無かった、関東在住の日本人なのだが。祖父祖母も同じく。そんな人間しか生まれようのない環境で生まれ育った私に向かって、何を馬鹿なことを。100歩譲って勇者だとしても、魔族なんて人外な存在ではない。
「黒魔力は、ま、魔物、及び魔族……魔界の民、特有の魔力の色です。だから貴女は、ヨ、ヨルさんは、魔族で間違いないかと……」
「お姉ちゃん、人間の姿だけど、魔族でしょ……?」
「………えーと」
……………。
嘘だろ。




