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03

 閃光弾でも炸裂したのだろうかという眩しい光の爆発に反射的に目を閉じ、間を置かずどこかにぐいっと引っ張られるような感じを覚えた。一瞬体内の臓器が引っくり返るような錯覚に陥ったが、幸い本当にそんな事態に陥ることも無く、その錯覚はすぐに消える。それから少しして、瞼の向こうに眩しさを感じなくなったため、私は恐る恐る目を開いた。

「(一度目は神殿。二度目は――焦土かよ)」

 マリアにお招きと言う名の誘拐をされた私は、先程までの森とは百八十度異なる周囲の景色に目を瞬いた。

 焦土……いや、正確には、焦土のような荒野だ。つまり、焦土と言っても遜色のない、それぐらい酷い有様の荒野である。地面はひび割れて奇妙な黒い(もや)が吹き出し、座り込んでいる土は固く、草の一本も生えてなどおらず、あるとすれば石ころだけ。動植物に限らず、ここには生命というものが暮らしていける要素が見当たらない。不毛と言う言葉がこの上なく似合う大地だ。私とマリアの半径二メートルほどの周囲には、不自然な茂みや木が丸ごと転がっているが、多分さっきの森から一緒に連れてこられてしまったのだろう。

 空を見上げると、空気中には何か妙な気体……多分あの吹き出している黒い靄が混ざっているのか、青紫色の薄暗い空とくすんだ太陽が見えた。理屈はよく分からないが、あちらが夜だったのに対して、こちらは昼間のようだ。何とも不思議な世界である。空には雷を帯びた暗雲が漂っており、その雲の合間をコウモリっぽいものや、ドラゴンっぽいものが飛んでいた。

「(何か、魔界とかそういう感じの所なんだけど……)」

 恐らく魔族であるマリアの家があるとすれば、そういう所でもおかしくは無いだろう。むしろしっくりくる。

 しっくりくるが――それ故に、ただの人間である私は、激しく浮いている。その場の雰囲気に似つかわしくないにも程がある。

「お姉ちゃん」

「!」

 スカウターがぶっ壊れるくらいの戦闘力を持っていそうな気がしたマリアのお呼びに、思わずちょっとビクつきながら振り返ると、少女は何やら大きな壁を背にして小さく手招きしていた。巻き添えに持って来られた木や茂みを避けながらマリアに近寄ると、彼女は女子供がようやく潜れるくらいの穴の開いた、壁の一部を指差して言った。

「ここを潜ると、マリアのおうちのお庭に出るの。マリアが先に行くから、ついて来てね」

 マリアはそう言うと、言葉通り穴の向こうに先行していく。

「(こ、これ以上この子と一緒に居ると、何か身が持たない気がするんだが……)」

「――お姉ちゃん? どうしたの?」

 穴の前で私が躊躇っていると、向こう側からマリアが心配そうに様子を窺ってきた。ただの子供ならそのまま無視することもできるのだが、先程のこともあって、何だか逆らえる気がしない。幼女強過ぎワロエナイ。

 ……しかし、もうここまできたら、乗りかかった船というやつだろうか。環境が先程の城周辺とはあからさまに異なるので、恐らく第一目標である逃亡は達成されているだろう。安全に関しては保留だが、一先ずは安心していい状況になったと考えていい筈だ。

 マリアの兄やその他親族が私をどう扱うのかという博打要素は存在するものの、こんなに都合の良い機会がまた巡るという確信は無いし。このあからさまに厄介な拘束具を外すために、マリアの擁護を期待して、多少リスキーであってもこの賭けに乗ってみてもいいだろう(外してもらったら、その対価は出世払いでいいかな……)。

 ていうか何よりも、この子から逃げられる気がしない。どうしてこれほど私に固執して意地でも助けようとしているのかは不明だが、私がどれだけ拒否しても、私の意思を無視すると言外に言ったのだ。何があってもあの子は私を助けるだろう。

「(もう半ば自棄だ、自棄)」

 本当は賭け事は嫌いだが、もう危険に関しては直面しない方が難しい状況に陥っているような気がするし。残念ながらこんなに状況が捻じれてしまった今、あれこれ手段を選んでいる場合ではないと諦めるしかないだろう。

 私は諦めてマリアの手を借りることにし、壁の穴を潜り抜ける。自分に続いた私を見たマリアが嬉しそうに微笑んだので、私もつられて少し微笑み返した。


 一度四つん這いになって穴を潜り抜けて、壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がり、周囲をざっと見回す。

 壁の内側は外側と違い庭であるためか、芝生の代わりに全体に凝った石畳が敷かれていた。また、外の環境から植物を植えるのは難しいと思っていたが、数はさほど多くないものの、所々に花壇があり、そこに暗い色の花と木々が植わっている。だが、それら植物はあくまでも添え物といった雰囲気で、この庭のメインはよく分からない彫刻と、色合いの異なる石で造られた寄木細工のような石畳らしい。

 しかし、壁を見た時も思ってたけど、なかなか庭が広い。大商人などのかなり裕福な者や、貴族とかそういうお偉い地位に就いている者の屋敷であることは明白だ。そんな所に住んでいるなんて、マリアは人を使うか人に使われるか、そのどちらかの生まれだろう。

 あの子が着ているのは、あまり上等そうには見えない、所々に黒っぽい染みのついたローブだ。なので、あまり裕福な家庭の生まれではないと今まで思っていたが、今改めて少女を見直してみると、服の粗末さに比べて、本人が綺麗過ぎるのである。また、あの我が儘と言っても良い我の強さは、下層階級で培われるものでもあるまい。これは認識を改めた方が良いのかもしれない。

「こっちだよ、お姉ちゃん」

 足枷のせいでほんの数メートルを移動するのにも時間がかかる私に合わせて、マリアはゆっくりとしたペースで私を誘導する。このくらいの子供なら一人でパタパタと駆け出してもおかしくないだろうに、出来た子である。

 石の庭を進んでいくと、やがて大きな館(どう見ても雰囲気お化け屋敷)が姿を見せた。こんなデカい洋館が数十メートル進んでやっと見えてくるなんて、本当にこの庭はバカみたいに広いんだな。東京ドームくらい余裕で敷地内に収まりそうだ。東京ドームの面積なんて知らないが。


 少しずつ屋敷方面に近付いている時、ふと、また妙な親近感をどこかから感じ取った。思わずその場で足を止めてしまったのだが、その瞬間、マリアが唐突に「お姉ちゃん、隠れて!」と言い、私を近くのガーゴイル的な彫像の陰に引っ張り込んだ。

 私としては見つからない方が良いに決まっているので、こうして人目を憚ることに疑問や不満は無い。しかし、庭に入ってから今までこんな性急な動作をマリアに要求されたことが無かったので、一体何事かとマリアを見つめた。すると、マリアは何やら真面目な顔つきで彫像の向こう側の様子を窺っていたため、私もあの子に倣って陰から向こう側の様子を窺う。奇しくも、私もその方向から、マリアに抱いたような謎の親近感を感じていた。

「(格好的に、使用人かな?)」

 こめかみに何かの角を生やし、背中にはマリアの翼とはまた少し違った翼を生やした男性が、きょろきょろと周囲を忙しなく見まわしながら、足早に通り過ぎていく。彼が遠ざかるのと同時にあの原因不明の親近感も消えて行ったので、発生源はあの男性だったのだろう。てっきりマリアにだけ適用されたものと思い込んでいたが、そうではなかったらしい。ますます不思議な感覚だ。

 また頭を悩ませる事項が増えたなと思いつつ、すぐ隣で向こう側の様子を見つめていた少女を見やると、その姿が見えなくなるのと同時に、ホッとした表情で息を吐いていた。

 ……もしかしなくても、この子が探されてるんじゃないのか?

 どういう事情があるのかは皆目見当もつかないが、どうやらこのお嬢さんはこっそりおうちを抜け出しているようだ。そんな状況で人間(わたし)と一緒に見つかったら、いくら私が脱獄ルックだとしても、誘拐犯と思われても仕方がない。いや、むしろ大人の魔族に見つかれば、種族間の悪感情に誘拐の罪状が追加され、最悪その場で即座に処刑される可能性が高い。

 冷や汗が垂れるのを感じながらマリアを見つめると、この困った美少女はちょっと拗ねた顔で「だって、お勉強ばっかりなんだもん。ストレス溜まるんだもん」と答える。唇を尖らせる様があまりに可愛いので、私は脱走に関しては一瞬「じゃあしょうがない」と思ってしまったが、全く良くない。ていうか、この子の可愛さに絆されるのは危険だ。しかし、ストレスっていう単語があったことには地味に驚いた。


 マリアが使用人達に見つかりたくない理由は分かった。きっと叱責やお小言を回避したいのだろう。私的にそこは是非私を庇うという理由であって欲しいのだが、恐らく分かっていないのだろうし、まあ仕方がない。

 とは言え、無事に見つからないまま平然と部屋に戻ってみても、捜索されている時点で既に脱走はバレているのだ。どの道お小言は食らうと思うのだが、多分まだマシなお小言を寄越す人でも居るのだろう。

 とりあえず、マリアの脱走は今日が初めてというわけではないようなので、多分見つかっても私が誘拐犯にされることは無いと考えていいだろう。人間(わたし)が処刑される可能性は減らないが、罪状が減るのは不幸中の幸いだろうか。言い訳をする暇とマリアの擁護が入る余地が生まれるかもしれない。


 そういう事情で、ちょっとしたミッションインポッシブルを遂行しながら、私とマリアはお化け屋敷に無事潜入した。マリアの場合は素直に帰宅で良いのだろうが、一応招かれている身ではあるものの、私的には潜入以外の何物でもない。

 バイオでハザードなゾンビぶち殺しゲームの舞台になりそうな洋館内を二人でこっそりと進みながら、途中で自分が土だらけの泥だらけという凄まじい格好であることを思い出し、進んだ道程にヘンゼルとグレーテルのように目印が付いていることに気が付いた。お屋敷内を汚して申し訳ないと思いつつ、私はこの目印で使用人達に見つからないようにと祈った。

「もうすぐマリアのお部屋だよ」

 マリアに連れられて、似たような扉が並ぶ廊下の一番奥の角部屋へ進む。運の良いことに、屋敷は広いが、侵入した場所とマリアの部屋は比較的近かった。床を汚す範囲が少なくて済んだのは、私にとっても掃除をする人にとっても良いことだろう。

 部屋の扉を開けたマリアが手招くまま、そっと中に入る。中はお化け屋敷の雰囲気を裏切って、割と普通のお貴族的な部屋だった。全体的に色合いは暗いものの、特におどろおどろしさは無く、むしろ部屋のあちこちに熊や犬のぬいぐるみが置かれていて、幼い女の子の部屋らしい雰囲気を出している。

「(部屋のぬいぐるみが急に動き出したりしないよな……)」

 身構え過ぎだとは思うが、魔族の屋敷にいるのだからと、ついオカルト展開を警戒してしまう。アダ○ス・ファミリーよろしくその辺を手首が這い回ったりとか、チャ○ルド・プレイよろしくぬいぐるみが殺意を持って追いかけてきたりとか、そういうのはちょっと……いや、かなり嫌だ。

 そんなことを考えながらマリアのぬいぐるみ達を見ていたのだが、マリアに「ぬいぐるみ、嫌い?」と尋ねられた。別に好きでも嫌いでもないのだが、どうやら警戒し過ぎて睨んでいたらしい。とりあえず首を横に振って否定しておいた。

 少しして、マリアはお忍び用だったであろうローブを脱ぎ、その下に着込んでいた普段着であろうゴスロリチックなドレス姿になった。パッと見は結構コスプレっぽいのだが、着用しているのが美少女であるのと、人外種であるせいか、ゲームや漫画から出てきたかのように違和感が無い。よく似合っている。

「それじゃあお姉ちゃん、ここで待っててね。マリアのお兄ちゃん、呼んでくるから」

 マリアは汚れてしまうのにも構わずに、私を高級そうな柔らかいソファに座らせると、そう言い残して部屋の外に出ていった。


「(はあ……何と言うか、疲れた……)」

 格好的には全く楽にできないが、ソファという一心地つける場所で一人きりになったことで、召喚やら脱獄やら強制連行やらのイベントでじわじわと蓄積されていた疲れが、堰を切ったようにどっと押し寄せてきた。確かに、脱獄した辺りから肉体的な倦怠感が多少あったものの、いざこうして一度腰を落ち着けてみると、かなりずっしりと圧し掛かってきている。今まで張っていた気を多少緩めただけでこれとは、我ながら実はかなりの無理をしていたようだ。

 しかし、だからと言って気を抜くようなことはしていられない。なにせ、私はこの異世界であまりに無力なのだ。そんな人間が異世界で死にもの狂いにならずやっていけるかと言えば、答えは否。あっという間に途中敗退(ゲームオーバー)だ。エンディングリストに載る最悪の結末(バッドエンディング)ですらないのである。

「(これからのこと、考えないとな)」

 この後、マリアの兄にどうにかこの枷を外してもらったとしたら、頼み込んで出世払いで対価を後々支払うことを確約しよう。何も返さないままというのは気分が悪い。

 対価を手に入れる方法は、この世界について無知なので物品では今の所具体的には思いつかないのだが……そうだ、異世界ファンタジーに付き物の現代知識の応用とかでいけるだろうか。幸い無為に十八年生きてきたわけではないので、それなりの知識は持っている。浅く広くなのがネックだが。

 よし、対価についてはひとまずこれで。では、マリアの兄に敵意を向けられ、枷を外してもらえなかった時の場合のことを考えよう。


 最優先事項としては、やはり殺されないようにしなくてはならないだろう。マリアがどれだけ私を気に入ったのだとしても、庇ったとしても、私は人間である。魔族であるあの子とは違うのだ。だから生き延びること、この屋敷からも脱出することが、何よりも重要なことだとしていい。人間である私が魔族である彼らに殺されない可能性は、殺される可能性よりも遥かに低いのだから。

 私はソファから立ち上がり、バルコニーに繋がる窓に近寄る。方角的にこの窓はあの壁の穴がある方に面しており、ここから真っ直ぐ走れば、穴まで逃げられるだろう。窓の鍵が開いていたので、予想だが、マリアも脱走の際に同じ手段を使っている気がした。

「(よし、逃走経路は確保した)」

 お次は当面の行動である。最終目標は帰還と城の連中フルボッコだが、その前に一国の城に単体で乗り込んでも何とかなるような技術を習得しなくてはならない。最悪フルボッコを断念したとしても、召喚場所であるあの城に乗り込んで帰還の手がかりを探す必要がある。

 が、今現在の私は希代の暗殺者でもないし、魔法使いでもない。つまり、城に侵入できるようになるまでに、それなりの時間がかかることを覚悟するべきだ。しかし時間が必要であるということは、当たり前だが、同時にそれだけの期間を生きなくてはならない。

 だがこの窓の外の景色を見る限り、この土地は生物が自活できる環境であるとは全く思えなかった。

「(この屋敷周辺だけがこんな不毛な土地なのかもしれないけど、詳しくは何も分からないしな……やっぱり城への侵入のことも考えて、城の周辺にまた戻れないかな)」

 少々敵陣に近過ぎて危険だが、城の様子を外側からでも監視できると思えば、あの周辺の森はそう悪い場所ではない。城下町に何とか紛れ込んで、この世界についてだとかの情報収集も行えるだろう。

 それに、森なら木の実やキノコが採れるので、食料も何とかできる(毒キノコなどに当たる危険があるが、そういうのは野生動物が食べていることを確認したものだけを口にすれば、多分大丈夫だろう)。ホームレスサバイバル生活に抵抗が無いわけではないが、この緊急事態にそんな我が儘を言っていられる余裕など無いため、その点も問題無い。ただ、飲み水に関しては水源を探す必要があるが。

「(うん、こんな感じでやって、じっくり修行的なことをすることにしよう。ちょっと……いや、かなり楽観的で非現実的なプランだけど、今まで何だかんだ運良くそれなりに上手くいったし)」

 何とかなるだろう。……多分。

「(つーか、一応召喚自体はテンプレ的勇者召喚だったんだから、何かチート的な能力とかないわけ? ステータス見たいって思っても見えるわけじゃないし。脱獄後の疲労感を思うと、肉体的な補正が付いているわけでもないし。かといって、魔力補正なんてもっと分からないし。大体、魔力に至っては多分今この枷で封じられてるんだよな? まあ、魔法なんて使い方知らないんだから、どの道使えないけど)」

 優しくない。全くもって被召喚者に優しくない異世界召喚である。あの城の連中は何の補正も付けていない戦闘力ゼロの一般人に、一体何をさせるつもりだったんだか。私は胸中で溜息を吐きながらソファに戻った。


 そう言えば、もうマリアが出て行ってから、軽く五分は経過している。屋敷が広過ぎるというのが原因かもしれないが、兄を呼びに行くだけなのに、少々時間がかかっているように思う。確かに、待っている間は時間が総じて長く感じるものだが、それでもやはり遅いような気がした。

「(……もしかして、マリアの兄がこっそり私を捕縛する準備をしているんじゃ)」

 そう考えた瞬間、私は頭から氷水を浴びせられたような心地になった。全身に鳥肌が立ったどころの話ではない。

 私は再びソファから立ち上がると、逃走経路である窓辺に全速力で向かった。今の私の状態からすると大変滑稽な光景であることは間違いないが、こちらは必死だった。何せ、例の謎の親近感(恐らくだが、魔族の気配を感じ取っているものと思われる)が再び扉の向こうより近付いていることを感知してしまったのである。

 何故魔族が近寄るとこの奇妙な感覚に陥るのかは目下不明だが、その精度が恐ろしく高いことを、ミッションインポッシブル中に嫌と言う程分かっていた。原因不明の現象ではあるが、防犯ブザーのようなものと考えると、それなりに便利である。お蔭で今逃げられる。

「――マリア?」

 扉の向こうからノックの音と共に聞こえた男性の声に、一気に緊張感が増した。一瞬ギクリと身を強張らせたが、不自由な足を動かして一目散に窓へ向かう。ああもう、本当にまだるっこしい! いっそキョンシーのようにジャンプした方が早いか!?

「マリア、戻ったのか? 入るよ」

「!」

 ようやく窓の取手に手を掛けたと同時に、背後の扉が開く音がする。反射的に振り返ると、そこには背の高い陰湿そうな印象の男性が居た。

 髪の色も、瞳も、肌の色も、マリアと全く同じ。背中から生えた大きな翼も、マリアの翼がそのまま大きくなったようだった。ただマリアと違い、男性はこめかみの辺りから黒い羊の角を生やしている。マリアに似て整ってはいるのだが、しかしどうにも辛気臭いというか陰気臭いというか、そういう陰のある雰囲気をしていた。

 誰だ、なんて考えるまでも無い。十中八九、この人はマリアの兄だろう。父にしては少々若いし。どうやらマリアと出会うより先に、この部屋に来てしまったようだ。

 男性は前髪に隠されていない左目を見開き、妹の部屋に居る見知らぬ人間に対して、大いに驚いている。一方の私は情けないことに、彼とばっちり目が合ってしまったせいで、取手に手をかけた体勢で固まっていた。

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「……………」

「………」

「…………………」

「………」

「………………………」

「………」

「(……何なの、この状況)」

 お互いに見つめ合ったままぴくりとも動かず、沈黙が約一分ほど続いた。初めは確かに緊張の糸が張り詰めていたのだが、あまりに沈黙が長引いたことで、私の方には少し余裕が生まれてきたと言うか、若干アホらしくなってきたというか。

「(沈黙が長過ぎじゃないか? いや、私は猿轡で元々喋れないけど、何か言えよアンタ)」

 今更だが、私が警戒していたような「部屋が完全包囲されている」というような事態は、起こっていなかった。それは喜ばしい事である筈なのに、こんな微妙な雰囲気になるくらいなら、まだ最初から最後まで緊張を強いられる緊急事態である方が、いくらかマシなのではないかと思ってしまう。

「(もしかして、元々無口なの?)」

 ふと、沈黙の理由としてそんなことを思いついたが、さっき部屋に入る前、普通に二言三言喋っていた筈。それに、沈黙することがそのままノーリアクションに繋がると言うわけではないだろう。

 とすると、彼に何かあったのだろうか? 人間である私を警戒しているという様子でも、恐れている様子でもなく。妹の部屋に居た初対面の相手に戸惑っているにしても、ただただ無反応というのは、やはりおかしい。

「(こういう場合って、どうするべきなんだ?)」

 他人の様子を窺うなんて、今までロクにしたことが無いせいか、全く対処法が思いつかない。誰か選択肢をくれ。

「………」

「………」

「………」

「(……ああもう駄目だ耐え切れん!)」

 未だにじっと私を凝視するマリアの兄に白旗を上げた私は、当初の行動を取ることにした。つまり逃亡である。私に注意を向けていないならともかく、こんなガン見されてる状態で二人きりって、拷問以外の何物でもないだろ。

 私は男性に背を向け、窓を開けてバルコニーへ足を向けた。だがその瞬間、背後からなにやらバタバタと騒音が響く。何事かと思って再び背後を振り返ると、何故か彼が部屋のソファに激突してすっ転んでいるという、珍妙な光景が広がっていた。

「あっ……ちょ、ちょっと、待って……!」

「………」

 この家に住んでいるであろう人に、完全に侵入者である私が言うことではないかもしれないが、しかしこれだけは言いたい。奴は不審者であると。

 何故、自分から動く筈が無いソファに激突しているんだ。何故、ソファに半ば下敷きにされた状態で這い出ることもせず、私を引き留める言葉を優先したんだ。

 そして何より――何故、頬を異様に赤らめて、傍目にも分かる程興奮しているんだ。

「(何この人ヤバい)」

 全く自慢にならないが、私は人生で二回、本物の不審者に遭遇したことがある。一人目は二十代くらいのお兄さん、二人目は四十代くらいのおっさんだ。双方股にぶら下がっているご自慢のポークピッツをモロ出しにした露出狂の類であったが、当時十歳と十三歳だった私は、さほど危険を感じていなかった(嫌悪感は感じていたが)。

 しかし、しかしだ。目の前の男性は股間を丸出しにしているわけでも、それをこちらに押し付けようとしているわけでもないのに、そのかつての露出狂よりもヤバい存在であると思った。もし不審者というものにレベル制が採用されているとしたら、かつての連中はレベル一、しかし目の前の男性はレベル五十ほどだと思う。感じる危機感からして、それほどの格差があった。

 私はしどろもどろになりながら、ソファの下から私を必死で引き留め続けている男性から、じりじりと距離を取る。もしホイホイ近づいたりしたら、一体何をされるか分かったものではない。

 しかし、男性の方も私が尚も逃げようとしている気配を感じ取っているらしく、慌ただしくソファから這い出てくると、チラチラと視線を寄越しながら「あー」だの「えっと」だのとぶつぶつ呟きつつ、私にじわじわと接近してきていた。これが意外に不気味で、なかなか怖い。

「ああああの、えっと……その……」

「(クソ、何だよこの人……どう見てもヤバいよ! 警察に通報されても言い訳できないレベルだよ! 何なんだこの人のこの不審者ぶりは! まるで――)」

 ピタリと効果音が付きそうなくらい、それはもう見事に私は固まった。その理由はたった一つ。あることに思い当たってしまったせいだった。

「………」

 私は改めて、目の前の不審者の様子をじっくりと観察する。

 一貫してチラ見に徹し、視線を合わそうとせず。しかし完全に興味・意識は私に一点集中。頬どころか今や顔全体を真っ赤にして、明らかな興奮状態……否、極度の緊張状態と言って良い有様。そしてとどめに、もじもじとしたじれったい、恥じらいの仕草。

 男だと分かりづらいが、これら全てを、そりゃあもう綺麗で可愛い女の子が目の前でしていると置き換えた場合、この世の一般的な感性を持つ人々(特に男性)は、一体どう思うことだろう。

「(チェンジで)」

 綺麗でも可愛くも無く、むしろ顔が良くても陰湿で好みからは外れる成人男性がする精一杯の求愛行動を受け入れるだけの器は、私に存在しなかった。

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