02
「(女の、子?)」
私は目を瞬いて、目の前の少女を見つめた。
髪は黒。紺色に近いのか、月明かりの下、その長い髪は黒と紺の二色が入り混じった、落ち着いた美しい色合いだ。年齢は七に届くかどうかといったところか。私の腰くらいまでの身長の少女は、長い睫毛に縁取られた大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、予想外の存在に呆気に取られた私をじっと窺っている。その将来有望な顔立ちと愛らしい仕草は目を引くが、それ以上に私の意識を奪ったのは、少女の容姿だ。
少女の肌の色は、青かった。
病的な色合いの比喩としてではなく、本当に青い。まるで絵具を塗ったかのように真っ青だ。
更に、瞳の色は金色だが、白目に当たる部分が黒い。そして極めつけは、裾の辺りに黒っぽい染みが付いたローブを破り、その背中に生えた蝙蝠のような翼だ。
この少女は明らかに人間ではない。多分見た目悪魔っぽいし、この子が本物の「魔族」というやつだろう。何かの勘違いとは言え、私に対してあの城に連中が盛大に警戒した相手。
なのに――どうしようもなく、安心できる。
「(意味が分かんないんだけど……)」
どう見ても人間ではない少女に、何故生まれて初めて親近感と言える感情を抱くのだろう。どう見ても頼れるとは思えない、まして味方であるかも定かではない年端もいかない少女に、この上なく安心するのだろう。意味不明だ。
意味不明だが――純然たる事実だった。
「お姉ちゃん、泥だらけ。……どうしたの?」
「!」
はっとして目線を落とすと、少女はいつの間にか私のすぐ目の前まで来ていた。私が呆然としている間に距離を詰めていたらしい。驚いた私が思わずバランスを崩して大袈裟に尻餅をつくと、少女は「お姉ちゃん、大丈夫?」と言い、ぺたぺたと私の体を触り始めた。
反射的に身を強張らせるが、少女は意に介することなく、私をぺたぺたと触り続ける。その様子には全く邪気が無く、眉を八の字にしているところを見ると、本気で心配されているようだった。
「(よく分からないな……分からないけど、とりあえず、敵じゃあなさそうだ)」
どう見ても人間ではないという点で警戒心を抱いたが、謎の親近感と少女の様子を見て、とりあえず敵意やこちらを害する意図はないだろうと判断する。
現状において、少女はただの良い子にしか見えなかった。というか、こんな年端もいかない少女に警戒心を抱いている私の方が間違っているような気分にさえなった。
そして、一度そう思ってしまうと、何だか緊張していたのがアホらしい。戸惑っていないわけではないが、私は肩の力を抜くと同時に、少女が見上げなくても済むよう、その場に座り込んだ。
「お姉ちゃん?」
「(こうして近くで見ると、ほんとに美少女だな)」
間近で見る少女の黒目がちな目は、本当に満月のように大きい。白目の部分が黒いため、明るい瞳の色が良く目立つ。肌の色が青いので少し判りづらいものの、それでも子供らしく頬には赤味が差しており、これまた愛らしい。子供ながらにすっきりとした鼻梁も、ふっくらとした唇も、美人の条件にぴったり当てはまる。そこらの子供モデルなんかでは太刀打ちできないレベルだ。
それにしても、どう見ても私に似ているとかそんな要素もありはしないのに感じる、この親近感は本当に何なのだろう。
そこそこ似ている実の妹にも感じていないのに、容姿どころか種族まで違うような少女に、庇護欲ならまだしも、何故こんな気持ちになるんだか。全くもって不思議だ。
「ねえお姉ちゃん……どうしたの? 何で、こんなところに居るの?」
暫く少女を眺めていたが、やがて少女が改めて質問をしてきた。残念ながら私は喋ることができないため、この質問に答えることはできない。私は猿轡を指差し、首を横に振った。
「それのせいで、喋れないの?」
私が頷くと、少女は思いもしなかったというような顔をした。まさかとは思うが、これ趣味か何かだと、好き好んでしてると思われてたのか。ショックだ。いたいけな少女に変態だと思われていたのか私は。
予想外のダメージは大きかったが、変態的な印象が壊れてくれればいいと思い、私は少女の言葉に首肯した。
「じゃあそれ、外してあげる!」
「(えっ?)」
私が不自由していることを理解したらしい少女は、言うが否やさっさと後頭部のベルトに手をかけていた。私は突然の申し出に困惑しながらも、軽く身を捩って拒絶の意思を示してみたのだが、そんな私を余所に少女は猿轡の拘束を解こうと必死に奮闘し始める。ちょっと髪の毛が引っ張られて痛かったけど、少女の努力と私の我慢も空しく、拘束は少女では全く歯が立たなかった。
「ごめんねお姉ちゃん……」
少女は困ったような、申し訳ないような顔をして私に謝った。
確かに、少女からすれば自分から申し出た、しかも拒否されても押し切ったことを失敗してしまった負い目があるのだろうが、この子が謝ることなんてないだろう。むしろ本来私に謝るのは、あのデブ共である。絶対タダじゃ済まさんと、私は決意をより一層固くしながら、気にするなという意味で首を横に振った。
確かに突然の申し出には驚いたし、私自身が他人の手を借りることをあまり良しとしていないために断りもしたものの、こうした親切は本来善行である。見ず知らずの私に親切な申し出をする辺り、この子は普通に良い子だ。同族である人間に理不尽に殺されそうになったせいか、異種族であっても、この子が示した優しさには染み入るものがある。
「(驚いたけど、この世界で初めて他人の優しさを見たな……)」
「――あっ、そうだ。外れないなら、魔法で壊しちゃえばいいんだ」
「(うん?)」
「お姉ちゃん、ちょっと頭が削れちゃうかもしれないけど、いい?」
「(は? ……は!?)」
純粋そのものの表情で恐ろしい提案をしてくる少女を、私は思わず目を見開いて見つめた。何を言ってるんだこの子は。ちょっと削れるって何事だよ。
私は勿論全力で首を横に振り、断固拒否の姿勢を取った。
「……分かった。でもいいの? それ、取れないよ?」
「(頭削ってまで取りたくないです!)」
魔法は無しだということを必死で伝えると、少女は素直に首を縦に振って了承してくれた。
その魔法を使ったら確かに猿轡は取れそうであるが、同時に私がどうなるのかを是非考えて欲しかった。子供の発想と言えばそれまでなのだが、いくらなんでも恐ろし過ぎる。私はサッと血の気が引いていくのを感じた。
一方、そんな私の様子には気付いていないらしい少女は、再びこれを外すための算段を考えているのか、暫く可愛らしい仕草で唸りながら頭を抱えていた。
何となくまた流血を伴いそうなアイディアが出そうな気がしたため、無理に外そうとしなくて構わないと首を横に振ってみた。が、少女はどうにも引くことをしてくれず、うんうんと呻いていたのだが、少しして何かを思いついたように明るい声を上げた。
「あのねお姉ちゃん。マリアのお兄ちゃんなら、これ外せるかもしれない。マリアじゃこれ、外せなかったけど……お兄ちゃんは大人だから、きっと大丈夫っ。だから、一緒にマリアのおうちに来て!」
「(え? お兄ちゃん? ていうか来てって言われても……)」
私は先程述べたように、他人の手を借りるのを良しとしないタイプだ。それというのも、例の中二病疾患のために、私は周囲に気の置けない相手と言うものが存在せず、また作ろうともしなかったためである。つまり、手を借りる相手がそもそも前提として存在していないことが当たり前で、手を借りるという発想なんて基本的に無かったのだ。手を借りるという行為自体を、選択肢から無意識に排除していたと言える。
私は昔からどれほど大変でも自力で出来ることは全て自分でやり、他人の親切心からの手助けも、気持ちだけ受け取ることにして、基本的に断っていた。手助けが当たり前になったら、やがて一人でやっていけなくなり、私自身が駄目になってしまうからだ。それでも極稀に手を借りることと言えば、どうしても自力ではできないことだけで、そもそもそんな一人では手に余るようなことには手を出さなかった。
確かにこの拘束具は、私一人でどうこうできるレベルの代物ではないので、いずれは誰かの手を借りなければとは思う。だがそれは、金銭などの対価を支払う「取引」にするつもりだ(何を支払うかは後々考えるつもりでいる)。
だが、今マリアに兄の元に案内されても、私には支払える対価が無いのである。これでは取引にならない。
また、重要なのが、あくまで拘束具は現段階において、「外れれば儲けもの」程度であるということだ。手を借りる借りない以前の問題として、今の優先順位は、一人での逃亡と安全の確保が最上位なのである。
勿論、拘束具が外れれば逃亡の効率が上がることは確かだが、拘束具を外すために費やされる時間がどれほどになるかは分からないのだ。いくら逃亡の効率を上げるためとはいえ、そもそもの逃亡するための時間を減らすのは得策ではないだろう。本来、私には寄り道をしている暇は無いのだ。マリアには悪いが、今もこうして立ち止まっている時間が惜しい。
そして最後の問題は、私とマリアが異種族であるということだ。あの城の人間の魔族に対する態度を思い返すと、両者間の仲は最悪としか思えない。
マリアは幼いため人間に対する悪感情が無いのかもしれないが、あの子の兄は違うと考えていいだろう。城の連中が魔族と思い込んだ私にとった態度を思い返すと、出会い頭に殺される可能性が高い。そうでなくとも、こんな脱獄ルックの人間を見れば、厄介事を抱えていることくらい一目瞭然の筈だ。仮に事態が良い方に転んだとしても、決して良い顔はしない筈だ。むしろ私を連れて来たマリアを叱りかねない。敵対種族を自宅に連れて来たのだ、真っ当な親兄弟なら多分そうするだろうと思う。
というわけで、一緒に来てと言われても、以上の理由からそれを承諾することはできない。私は否定の意味を込めて首を横に振った。
「(申し出はありがたいけど、そこまでしてもらうわけには……)」
「……嫌なの? 何で? マリアのお兄ちゃん、優しいよ? 怖くないよ?」
「(マリアには優しいだろうけど、私にも優しいか分からないし……それと、私のプライドの問題というか)」
マリアが読心術でも使えない限りは伝わるわけが無いのだが、尋ねられたことに胸中で返答する。
しかし、拘束するだけなら手枷足枷で十分だろうに、何故猿轡込みの三点セットなんだろうか。製作者馬鹿じゃねーの。馬鹿じゃねーの。大事なことなので二回言う。
「ねえ、お姉ちゃん」
「?」
マリアが少し腹を括ったような雰囲気で口を開いた。
「あのね、お母様いつも言ってるの。「マリアが困ってたら、みんな助けてくれるでしょう? だから、困ってる人がいたら、マリアも助けてあげなさい」って。だからね、お姉ちゃんが困ってるなら、マリアは助けてあげたいの。助けてあげるって、決めたの」
「………」
何というか、立派な心がけである。いい子だなあとは思っていたが、どうやら親の教育からして、元々いい子の資質を兼ね備えていたようだ。とにかく、この子はいい子である。間違いないだろう。
だが如何せん、私はどんな親切心であったとしても、その心だけ受け取るから、放っておいてもらいたいタイプの人間である。親切な申し出に感謝をするくらいの良識的な心は持っているが、先程から述べているように、私はそれを受けようとは思わない。例え相手が可愛らしい少女であったとしても、だ。
私は自分の意見を曲げるつもりは無いため、ちょっと申し訳ないなとは思いつつも、再び首を横に振った。いい子だと評した矢先に悪いが、親切も過ぎるとお仕着せがましいものになってしまうんだよ。この場合はちょっとばかり強引かな。
我ながら子供相手に大人げないなとは分かっていながら、まあ内心の言葉だしなあと思いつつ、目の前の美少女を見つめた。マリアは私の度重なる拒否の意に堪えたのか、ローブの裾を握って俯いている。ちょっと……いや、大分罪悪感を覚える光景だが、それでも私は意見を変えようとは思わなかった。
「(ごめんね、マリア)」
胸中で謝りながらその場で立ち上がり、私は逃亡を再開しようとマリアに背を向けた――のだが。
「(えっと、手を放してくれないかな……?)」
違和感を感じて振り向くと、むっとした表情も可愛らしい美少女が、私の制服のスカートの端を、しっかりと握りしめていたのである。
「――まだ、続きがあるの」
「?」
「お父様はいつもこう言ってるの。「捕まえたら絶対に逃がすな。一度決めたら曲げるな」って」
「(……うん?)」
おい、お父様地味に物騒っていうか、そういう系のこと教えてないか? ていうか、何かちょっとマリアの目が据わってるんだけど。何だか妙に嫌な予感がした。
「決めたの。マリア、お姉ちゃんを助けてあげるって、もう決めたの」
「(……それはつまり)」
――私の意思は無視されるってことなのか?
私の表情筋が強張ったのを見たマリアは、自分の言いたいことを言外に私が理解したことを悟ったらしく、花開くような可愛らしい素敵な笑顔を向けた。
「(待て待て待て! よりによって物凄く良い笑顔で可愛いけどちょっと待て! どこにそんな執着する要素があった!? 何で出会ったばっかの他人にそこまで入れ込む!? 私何もしてないぞ!? ていうか何か地面光ってんだけど! この子今何しようとしてんの!?)」
実はこの子魔王か何かだったりするの? 何やら呪文らしきものをぶつぶつとマリアが唱えると、何か半径二メートルほどの魔法陣的な物が現れた。それに驚いたのもつかの間、なんとその内側にある茂みやら木やらが浮き始め、がっつりその範囲内の私とマリアも浮いている。
「それじゃあお姉ちゃん、行こう?」
視界が魔法陣の発する光一色になる寸前に見えた無邪気な笑顔を見て、私は思わず胸中でこう呟いた。
――ぅゎょぅι゛ょっょぃ、と。




