01
「魔族め、よりにもよって勇者様のふりをするとは何たることじゃ! 我々を油断させ、皆殺しにする腹積もりであったのであろう!?」
「これは召喚魔術だぞ!? 一体どうやって勇者様と入れ替わったというのだ! 怪しげな魔術を使いおって!」
「ええい、とにかく早くこの魔族めをひっ捕らえよ! 魔力を封じるのを忘れるな!」
「何と狡猾な……くそ、魔族め!汚い手を使う……!!」
「どうやったかは知らぬが、魔王の命で我が王の命を狙ってきたのだろう、魔族めが。しかしこうして捕らえられた以上、それは叶わぬものと知れ! 明日にでも国民の前で、貴様は公開処刑とする! せいぜい短い生を謳歌するがいいわ!」
いや、どちらかと言えばお前のその言い草の方がよっぽど魔族っぽいっていうか、悪役っぽいっていうかさ。
そんな私の胸中のツッコミを知ることなく、小さくてでっぷりとした小物臭さを振りまくおっさんは、鉄格子越しにそう吐き捨てて、牢屋らしいこの場所を去って行った。猿轡に拘束具(ご丁寧に全て金属製)という、どう見ても囚人です本当にありがとうございますみたいな状態の私を残して。
「(……どうしてこうなった)」
私は混乱以上に怒りを抱えながらも、灯りの一つも無い、真っ暗で冷たい石造りの牢屋で、ぼんやりとこうなった経緯を振り返ってみた。
***
――日常の向こうは、ファンタジーの世界でした。
テンプレである。もう噛み過ぎて味がしないガムと同じくらい、ありきたりなテンプレ設定である。
ピンク色の髪の貴族の女の子が地球産の男子高校生を使い魔にしたりとか、実は王様だった赤毛の女子高生が金髪イケメンの神獣に異世界に拉致されたりとか、叔母さん一家に虐待されてる実は英雄な男の子が煉瓦の壁の向こうにある魔法使いの街へ来ちゃったりとか。そういう系統の設定だ。
つまり、私が言いたいことはただ一つである。
「(ねーよ)」
奇しくもそれは先程強制的に途切れた言葉であったが、そんなことはどうでもいい。
大切なのは、私がいつもの通学路から、突然何か重要儀式の真っ最中としか言えないような重苦しい雰囲気の蒸した部屋の中に移動していること。そして何となくそんな状況から察してしまった自分の置かれた状況である。
「(何これ。ていうか何ここ。勇者でも召喚してたの? それとも魔王とか邪神復活の儀式? どちらにせよ何? 私そういうファンタジーは自分が体験したい人じゃないから、観客気分でいたい派だから。こんな展開はゲームやラノベの中だけにしてくれ……)」
驚きのあまりに口を半開きにした間抜けな顔をしていた私だが、内心ではそれなりの混乱と、それ以上の辟易。そして焦りが渦巻いていた。
ここは神殿なのだろう。神官らしい白い僧服姿の人々が居た。また、召喚術を行っていたらしい魔術師としか表現できないような、揃いのローブを着こんだ集団も居る。更に、兵士としか思えない、鎧を着て槍を持った男達と、貴族のような風体の中年の男が何人か居た。
そして極めつけに、彼らの視線は全てが全て例外なく、呆然と立ち尽くす私に注がれていた。
「(お約束だ、お約束過ぎる。お約束にもほどがある……)」
最近のネット小説の流行は、異世界ものだ。勿論、ゲームやラノベなどでもお馴染みの展開だが、特に「召喚」や「転生」は一大ブームになっているとも言える。特にMMORPGを絡めたチート主人公ものが主流だが、今私が体験しているような、普通の召喚ものも多い。
で、この状況はまさに、そうした王道でメジャーでテンプレ的な展開である。――最悪なことに、主役は私こと芹沢依だ。
「(ていうか……これ、ヤバいよね?)」
私は異世界に召喚されてしまった(多分間違いなく。こんないい歳して中二病真っ最中のようなコスプレ集団が、現代日本に当たり前に存在しているとは思いたくない)。これだけでもう既に冗談ではない、勘弁してくれ。
しかも、私には妙にノリの良い神様から説明をされたり特典を貰ったわけでも何でもない。元々勉強もできてスポーツも万能で人気者という完璧な超人だったわけでも何でもない。
これがテンプレ的な勇者を呼ぶ召喚でも、逆に魔王やら邪神やらを復活させたり召喚したりするような流れのものだったとしても、私は何にもできないのだ。
もしこの召喚が前者なら、実は秘められし力が~とか、光の属性を持った~とか、そんな私自身の知覚が及ばない要素があるかもしれない。だが、もし後者の召喚であった場合、失敗で呼び出されたクソの役にも立たない小娘なんて、ぶっ殺されてしまうのではないのだろうか(そういう展開の話の主人公は、それらを乗り越えられる肉体的強さと精神的強さを併せ持っているのだろうが、私にはそんなものは無いのだ)。そうでなかったとしても、色々ロクな目には遭わないような気がする。
しかしどちらにせよ、現状の私が無力であることは変わらない。何をされたとしても、私自身の意思が尊重される可能性は不確定なのだ。
「(私は一体どうするべきなんだ……)」
大人の、しかも一部は武装している集団相手に、ひ弱な現代っ子の私何ができるかは置いておくとして。しかしそれでも、何かできないだろうか。
これから何をされるにしても、何をさせられるにしても、どれも私の本意とはならないだろう。私の本意は「今すぐ帰せ」だが、この手の召喚ものは元の世界に帰すことができないか、帰れるにしても条件が合わなかったり、帰せるとしても交換条件を出されたりするだろう。その上、勝手に帰るにしたって、帰り方は分からない。
だからと言って大人しくなすがままにされてもいいかと言えば、答えは否。
私の意思が尊重されないとしても、何もしないまま後になって「こうしろとは言わなかった」、「あれはやりたくないと言わなかった」という風なことを言われたら、間違いなく不利になる。
それに、突然こんなことに巻き込まれたのだから、何も言わないままでいようとも思わない。それが正当ならば、クレームは言うべきだ。
よし……文句と要求だけはしっかりと言ってやろう。
「ちょっと――」
「成功だ! 我々は異世界より勇者を召喚したぞ!!」
「これで忌々しい魔族共から我が国は救われる!!」
「勇者様万歳!!」
私が意を決して口を開きかけた瞬間、周囲の人々が諸手を挙げて大歓声を上げた。
……どうやら、私が間抜け面を晒したまま放置されていたのは、彼らもまた呆気に取られていたためのようだ。この有様では、どの道私の話は聞き入れてもらえまい。
「(でも、この様子じゃ殺されることはなさそうだよね)」
彼らの口振りからして、どうやらこの召喚は王道の勇者召喚だったらしい。私の勇者としての資質はともかく、とりあえず今は召喚が成功したことを喜んでいるようだ。
まあ、私は勇者なんてものに喜んでなるわけも無いが。断れるなら絶対に断わってやるつもり満々である。自分達のケツは自分達で拭いてくれ。何で私がやらなきゃならないんだ。
そんなことを考えていると、喜びに沸く集団の中から、魔術師集団の一人だと思われる物々しいローブを着込んだ老人と、小柄だが明らかにメタボな貴族風の中年男性が私に近寄ってきた。
「勇者様、異世界より遠路遥々おいで下さいましてありがとうございます。私はこのエウラタ国の宮廷魔術師団長、アデルバード・マクマホンと申します」
「はあ……」
「そしてこちらは我が国の大臣、アレクサンドル・ペジデス殿です」
「エウラタ国大臣のペジデス侯爵だ」
「はあ」
老人は恭しく私の前で膝を着いて頭を垂れ、自分ともう一人の紹介をする。が、自己紹介をされたところで、ぶっちゃけた話、だから何だとしか言えない。王道の勇者的主人公なら、愛想よく返事をして自己紹介を返すか何かするのだろうが、いかんせん、私は本気で彼らに興味が無い。わざわざ自己紹介なんてかったるいことをしたいとも思わないし、そもそも紹介されてもよろしくする気が皆無である。
「……それで、何か? 何もないなら私を帰してくれるとありがたいんですけど」
「なっ……」
「は、ははは……とりあえず勇者様、立ち話もなんですので、是非外へ――」
私の取り付く島も無いような態度に、大臣なのか侯爵なのか肩書を統一しろと言いたいおっさんは憤慨し、魔術師の老人は私とおっさんの板挟みでおろおろしていたが、別室に案内でもするつもりなのか、私の手を取り――顔色を変えた。
「こ、これは……」
「ど、どうしたアデルバード」
「失礼を!」
「ちょっ」
老人は私の腕をぐいと引っ張り、脈でも測るかのように手首に指を添え、数秒沈黙した。この老人が一体何をしているのかは全く分からないが、少なくとも脈を調べているわけではあるまい。
「な、何ということだ……」
「アデルバード、何事だ! 何か不都合があったか!?」
「勇者様は……いや、こやつめは、魔族ですじゃ!!」
「な、何だと!?」
「間違いありませぬ! この生成される魔力が発する痛み……こやつの魂の色は黒ですじゃ!!」
「は?」
何を言ってるんだこのジジイ。ボケてんのか。
勿論口にはしなかったが、表情には素直に出る(私は素直だ)。が、そんな私の怪訝な顔は、「チッ、バレたか」といった、今にも舌打ちをしそうな悪人面に見えたのだろう。私を見た周囲の人々は顔を歪め、口々に私を罵り始めたのである。
――後はまあ、「お察しください」というやつだ。
口を挟む隙も無く巻き起こった大混乱の末に、魔族であると判断された私は、手枷・足枷・猿轡という拘束三点セットを強制着用することになり、囚人となったのである。
「(……理不尽!)」
怒りが湧き上がった私は、思わず手枷を床に叩き付けた。別にたかがこの程度でこれが壊れるとは思っていないが、やはり手枷は金属特有の甲高い音を立て、衝撃に震えただけだった。腕も痺れて痛いし痒い。畜生。
ていうか何だよ。私どう見ても悪くないじゃないか。態度は悪かったけど、責められた内容とは無関係じゃないか。勇者召喚って基本的に勇者の人権とか総無視していきなり呼びつけて魔王倒せっていうのが王道だけどさ、断るつもりでいたとはいえ、私その勇者ですらないってどういうこと。かといって事故でもなく、明確にその目的で呼ばれたのにもかかわらず、いきなり魔族とかどう考えても人外呼ばわりした挙句に公開処刑? 冗談じゃない!
「(あいつら絶対ただじゃおかない。でもその前にこの状況何とかしないと……)」
あのムカつく連中は絶対シメる。ただでおくものか。しかしまず何をするにも、現状をどうにかしなくてはならない。それもできるだけ急いで。
何せこっちは自分がここにぶち込まれた時の時間も分からないまま、ただ明日に処刑するとだけ言われているのだ。悠長に構えている時間は無いと考えていいだろう。何より、こんな理不尽な理由で死んでたまるか。
私は怒りはそのままに、何とか頭を冷静に働かせる。こんな時こそ焦っては負けだ。まずは自分自身のチェックだ。
体には特に怪我や異常は感じない。あるとすれば、ひんやりしたここの空気に体温が少し削られていることくらいだが、活動に支障をきたすには遠く及ばない。よし、逃げるのに問題は無いだろう。本当は殴り込みとかしたい気分ではあるが、私自身は一介の女子高生だ。武術の達人でも何でもない私が特攻したところで、きっと無駄死にに終わるだろう。だからとにかく、今は逃げた方が良い。臥薪嘗胆とも言うし。
では、早速逃亡計画を練ろう。まずはこの枷だ。魔力を封じるだか何だかと言っていたが、そんなものに覚えが無いのでそれをどうこうという以前に、手足が拘束されているのは不便だ。逃げるにしても、奴らをフルボッコするにしても、手足が不自由じゃお話にならない。
とは言え、拘束具は全て金属製。枷は鎖と輪っかで出来ているのではなく、四角い板の形状の物に穴が開いているタイプで、二枚の金属板を鍵か何かで留めているのだろう。鍵、と断言できないのは、枷が黒い上に、暗くて鍵穴が視認できないからだ。ちなみに、猿轡は円柱状の棒を横にして口に無理矢理押し込んでいる奴で、後頭部に回されたベルトのようなものでがっちり拘束してある。こっちはまだ外せなくてもいいんだけども。
何とか目を凝らし、手や顔で触って確認してみるが、手枷も足枷も、どういうわけか継ぎ目のようなものは見当たらなかった。継ぎ目があればそこに何か捻じ込んで、てこの原理で壊せたかもしれないのに……。黒魔力とか言ってたし、何より私をここに召喚したのもあるから、多分この世界には魔法かそれに準じるものがあって、そういうのがかけられているのかもしれない。(持ってないと思うけど)確か私の魔力とやらを封じる目的があるって言ってたから、何としてでも自力で外せないようにしてあるんだろう。くそ、どうでもいい猿轡の方がまだ外せそうでも意味無いのに。
私は早々に拘束具を壊すのを諦めて、暗闇の中、手探りで牢屋を調べた。先人のプリズンブレイクの努力の跡があれば儲けものだし、何か使えそうなものがあれば隠し持って、処刑の時にそれを使って逃走できるかもしれないからだ。
「(……ん?)」
牢屋の床の上を滑るように探索していた私の手に、ぽこりとイレギュラーな障害物がぶつかった。ぺたぺたとその周囲を確認すると、牢屋の隅の床一帯がでこぼこと盛り上がっていたのである。
この牢には窓が無い。だから多分地下牢なのだと思うが、地面を掘って脱獄されるのを防止するために、壁も床も全て石造りになっている。石造りなのだから当然石一つ一つに大きさの違いがあってもいいのだが、恐らくは引き剥がされるのを防止するために高さが揃えられていて、まっ平らなのだ。そんな所にイレギュラーなでっぱり……怪しい。怪し過ぎる。
「(せいやっ)」
私は試しに床に敷かれた石を何とか一つ掴み、引っ張ってみた。すると石はほんの少しだけ抵抗して、しかしあっさりと地面から引き抜かれる。ちなみに平らな床の石を同じように引っ張ったが、こちらはびくともしない。
これは確実に怪しい! 私は一心不乱に石を引っぺがした。すると、この牢屋の床大体一メートルくらいの穴が開いていることが判明した。まさに先人の努力の跡である。是非先人には素晴らしい脱獄生活を送っていてほしいと思った。まさか石を引っぺがして穴まで掘っているとは!
私はさっそくその穴に突入した。一瞬だけ、今まで頭からすっぽ抜けていた見張りの心配をしたが、私を捕まえて牢にぶち込んでくれた連中は、どうやら魔族、つまりこの場合は私を怖がっているようだった。きっと誰も好き好んで見張りなんてしたくないのだろうし、ここが地下牢であるなら、出入り口はあのメタボ野郎が出て行った扉一つきり。ならばそこだけを見張っていればいいのだろうから、きっとこのまま誰も来ないだろう。杞憂だった。
そしてここの連中が馬鹿だというのも分かった。私が言うのもなんだけど、見張りに手を抜くなよ。こりゃあ先人のプリズンブレイクは楽勝だったろうな。
ああそうだ、さっさとおさらばしたいのは山々だけど、後の人のためにここは塞いでいかないといけない。こんなとこに入れられるのは悪人だと思うけど、もしかしたら私のように冤罪とか言いがかりとかでぶち込まれる人、居るかもしれないし。それにここから出て行ったことがばれれば、追手がすぐにかかる筈だ。私は退かした石を適当に敷き詰め直してから、できるだけ足早に穴を進んだ。
「(やっぱり、動きづらいな……っ)」
制服が泥まみれになるのも厭わず、私は芋虫のように穴の中を這って進んだ。穴がほぼ垂直になっていたら、手足が不自由な私は文字通り手も足も出なかったが、幸いにしてこの穴は緩やかな傾斜で地上に伸びているらしい。脱出を急いでいるのもあり、本来なら多少なりとも感じていたであろう苦痛や疲労は、全くと言っていいほどに感じなかった。
とにかく一心不乱に穴を進んでいると、やがて地下特有のひんやりとした空気が薄れてきた。出口は近いのだろう。私は空腹の獣が肉にかぶりつくように、新鮮な空気が流れる方へと歩を進めた。
「(あと少し、もうちょっと……!)」
うっすらと穴の終わりが見える。あの神殿も蒸していたし、こちらは夏なのだろうか、空気はしっとりと湿気を含み、熱を帯びている。汗と土による不快感に、熱気が追加されて全身を襲うけど、それに構っているような余裕はない。私はただただ先を目指し、必死に手足を動かし続ける。
あと三歩、二歩、一歩――
「………っ!!」
この穴を隠していたのであろう枯葉の山を押し退けて、生温い空気が漂う地上に飛び出す。猿轡のせいで存分にとはいかないが、できる限り深く呼吸を繰り返しながら、私はその場に倒れ込んだ。
「(出られ、た……!)」
私は肩で息をしながら、ごろりとその場で仰向けになった。剥き出しの地面だが、既に土だらけなのだ。気にすることは無い。というか、気にしてられない。足早な躍動が止まない心臓を宥めつつ、私は周囲を見回した。
まず、正確な時刻は不明だが、周囲は暗い。夜だ。真上に広がる夜空の星は、プラネタリウムばりに散りばめられている。環境汚染とは無縁なのだろう、とても綺麗だ。あと月が七つあることに驚いた。おかげで夜だというのに、月明かりだけでも十分に周りの景色が見える。
横目に確認すると、どうやらここは森の中か何かのようだ。周囲には木々が生い茂り、その奥に僅かに石の壁と、城らしき尖塔が見え隠れしている。やっぱりあそこは城の地下牢だったのか。そういえば王の命とか言ってたな、あのメタボ。成程。
「(……あんまり長居すると、まずいよな)」
息が整ってきたところで、私は上体を起こす。いくら慣れないことをした後で疲れているとは言え、このままここに居ても何も良いことは無いだろう。何せここは城の目と鼻の先で、こちらは脱獄囚。捜索が始まったら即行捕縛されるのは目に見えている。
それに、この森に他に生き物が居るのか今は分からないが、肉食獣が居たらそれでもアウトだ。いや、ファンタジー的に考えて、モンスターの類を警戒した方が良いのか?とにかく、喰い殺されるのは御免だ。自分じゃなきゃ別にいいけどさ。
まあどの道、手枷足枷猿轡付きの私が無力なことは変わらないわけだけど、だからこそそれらに立ち向かうことよりも、それから逃げることを考えないといけない。少なくとも今は。
「(とはいえ、これじゃろくに動けないな……くそ)」
私は忌々しい拘束具を睨み、胸の内で舌打ちする。地上に出たことで先程よりもその姿をはっきりと確認するが、やはり思っていた通りの構造だ。黒々とした重厚な枷には、捕らえたものを決して逃がさないという不可視の意思すら宿っているように見える。しかも怒りと興奮が脱出の成功で一度冷めたため、その重さが今更ながらに圧し掛かってきた。よくこんな物をぶらさげてここまで逃げられたものだ。
つい自分の火事場の馬鹿力に感心するが、そんなことをしている場合ではない。逃げなくては。枷で思うように動けなくても、とにかく少しでも遠くに逃げて、何としてでも身の安全を確保しなければならないのだ。
何せここは私の世界ではない。先程まで晒されていた処刑の危機のように、何が起きるか分かったものではないのである。だから逃げて、息を潜めて耐え忍び、いつか私を理不尽に殺そうとした奴らを再起不能にするための力を、知恵を付けなくては。そのためにはまず、安全を第一に確保しなくてはお話にならない。全ては安全を確保してからだ。
「(そうだ、絶対にあいつらタダじゃおかない)」
本当なら今頃、自宅で風呂で汗を流した後に夕飯を食べていただろう。まさか自分の読んでいるラノベでもあるまいし、こんな脱獄劇も命の危機も訪れていた筈が無いのだ。しかも自分達が呼び出しておいて、理不尽な理由で殺すなんて最悪だ。何が公開処刑だ、無実の罪で民の娯楽に付き合わされるなんて冗談じゃない。
私は再び怒りが頭を沸かし始めたのを感じながら、不恰好に立ち上がって歩を進めた。走れなくても歩けるなら、それで行くしかない。歩けなくなったら這って行けばいい。
ただ、立ち止まってはいけない。止まれば死にかねないのだから。
――だが、そうやって自分を奮い立たせ、怒りを動力源に森を進んでいた私の耳に、不意にがさがさと木の葉が擦れる音が届いた。
「(誰か、いや、何か居る!?)」
まさかもう追手が? いや、危惧していたモンスターとかの肉食獣か?
考えられる可能性に、暑さも忘れて背筋が冷える。こんなザマでどう対処できるのかという恐怖と不安が胸の内に生まれるが、私は同時に、奇妙な感覚も覚えていた。
「(何で……安心してる?)」
背筋を走る悪寒は、確実に恐怖と不安だ。間違いない。
だというのに、何故なのだろうか。私は近くに潜んでいるであろう何かに、同じくらいの安心感を覚えてしまっていた。
それはまるで信頼する友であるような。
それはまるで愛する恋人であるような。
それはまるで良き隣人であるような。
それはまるで慈しむ家族であるような。
そんな――一生の内に今まで一度も感じたことも無い、「親近感」だった。
「(何だ――何なんだ、何が居るっていうんだよ。何が起きてるんだよ……!)」
意味が分からなかった。どうして私は命がかかった状況下で、安心してしまっている? 自分を殺すであろう存在に、何故親近感なんてものを生まれて初めて抱いている?
全くもって意味が分からない。理解不能だった。
元々ロクに動くこともできないというのに、頭の中がこの上なく混乱してしまったため、足を動かすこともままならない。
もはやこれまでということなのだろうか。ギリッと歯を食いしばったその時だった。
「……お姉ちゃん、誰?」
茂みの向こうから、小さな少女が顔を覗かせたのは。




