08
私こと芹沢依(人間)が、まさかの異世界召喚と地下牢からの脱獄劇なんぞを成し遂げた後に、実は18年前に妖精の取り替え児として魔界で行方不明になった魔王の一人娘・ヨルムンガンド・レイゼルシュバルツ(魔族)であると発覚した事件から、一週間が経った。そしてその間、18年間人間として暮らしてきた私が魔界に慣れるためとか、城での暮らしに慣れるためとか、そういった理由で、私は殆どの時間をほぼ両親だけと自室で過ごした。
娘の身に起きた突然の大き過ぎる変化を気遣い、空白の時間を埋めようとしている両親、と言えば一見聞こえは良い。そして間違っているわけでもない。だが、ぶっちゃけるとそこまで綺麗ごとな感じの理由ではなく、あの二人が私に構いたくて構いたくて仕方が無く、そのために自室に軟禁状態だったというのが実際のところ真実だと思う。
何せ私の両親……魔王夫妻は、とんでもない親馬鹿の構いたがりだったのだ。
具体的に何をされたと言うと、ちょっと人様には言えないような羞恥プレイを多数、としか言えない。それでもあえてその例を挙げるなら、食事は毎食魔王か王妃の膝の上で「あーん」だとか(ちなみに、魔族の食生活は、基本的に人間と同じだそうな)、どんなに些細な移動でも絶対に抱っこだとか(まさにプリンセスホールドでした)、寝る時は必ず同衾で子守唄付きだとか(王妃様美声過ぎてびっくりした)、そういうのだ。
これらの行為に対して、全ては愛情表現だと魔王夫妻は言う。……うん、愛情表現。確かにそうだ。でもさ、これ、絶対赤ん坊に対する愛情表現だと思うの。私18歳なんですけど。あの人達の中で、娘は18年間全く成長していないんだろうか。いや……嬉しいと言えば嬉しいけどね、うん。愛されてるのが嫌と言う程感じられるからね。
ただ、私にとって魔王夫妻はまだ両親だという実感が薄く、初めて会った親戚くらいにしか思えないので、この過剰な接触は……正直、ちょっと引く。ていうか、魔王夫妻の適応力と、私を構いたいっていうオーラが尋常じゃないのが怖い。特に魔王からのオーラがマジでヤバい。構われ過ぎて主人に懐かない猫って、もしかしたら私のような気分なのかもしれないなと思う。
とまあ、私の一週間はその時間に見合わぬ濃い時間だったわけだが、昨日でそんな日々も終わりだ。何故かと言うと、この一週間娘の帰還に浮かれて放り出していたらしい政務をいい加減に再開して欲しいと、昨日臣下の皆さんが揃ってガチ泣きで縋ってきたためである。どうやら魔王夫妻が仕事を放棄していた一週間、魔界は18年ぶりに魔界の姫が戻ったとか何とかでお祭り騒ぎだったらく、いつもより仕事が山積みだったそうだ。
魔界がどういうシステムで成り立っているのかは知らないが、魔王と王妃様が揃って仕事を放棄してしまっては、そりゃ臣下も泣きたくなるに違いない。私は渋りに渋りまくった両親を臣下と共に何とか説得して自室に戻し、今日から政務に戻ってもらうことになったのだった。
「誰も居ないな……良し」
そんなわけで、私は一週間ぶりに朝を一人で迎えた。実は昨日のことは全て夢なんじゃないかと思って、両親がこっそり寝ていないか入念にベッドをチェックしたのだ、間違いない。この部屋には私しか居ない。
「………」
私は親子三人が川の字になっても全く狭くない、恐ろしくデカい天蓋付きのベッドから、そっと足を下ろす。ロクに使用していない靴を履いてその場に立つと、何故か妙に感動を覚えた。何せ一週間も自力での歩行を禁止されていたのだ、それくらいは覚えるか。
何となく高揚した足取りで、バルコニーに繋がる大きな窓(というか硝子戸)のカーテンを開ける。相変わらず魔界の青空は青紫の暗い色だが、それでも控えめな太陽が振りまく光は、しっかりと今が朝だと告げていた。
「……ヤバい、感動して泣けてきた」
たかがカーテンを開けるだけの動作にさえ、目頭が熱くなる。我ながらよくあんな羞恥プレイ……いや、ドM調教に耐えたものだ。ベッドからカーテンまでのほんの数歩分の距離を自分で立って歩いて、一人でカーテンを開け、朝日を拝むのが、これほど素晴らしいことだったなんて……! 私は自分の精神力を褒め称えるのと同時に、一人の時間というものの大切さを噛みしめた。
……まあ、この一週間毎日聞いていた「おはよう」が当然無かったので、ちょっとだけ寂しさも覚えたが。
「(……子供じゃあるまいし)」
だがそう感じるということは、それが習慣として身に付き始めていたからだろう。魔界の暮らしに慣れるという点では、その辺しっかり功を成しているようだ。
そんなことを考えていると、ドアの方から控えめなノックの音が響く。次いで「姫様、お目覚めでいらっしゃいますか?」という女性の声がした。王妃以外の女性が突然私の部屋にやって来るとは思えないから、きっとメイドさんだろう。
「はい、起きてます」
「では、失礼いたします」
無駄に凝った装飾のドアが開き、メイドさんと執事が一礼して部屋に入った。喋っていたのが一人だったからメイドさん一人だと思っていたのだが、どうやら黙っていただけでメイドさんと執事の二人だったらしい。
「魔王陛下、並びに王妃殿下の命により、本日よりヨルムンガンド様付きの侍女、兼護衛となりました、ヴェロニカと申します」
「同じく、本日よりヨルムンガンド様付きの執事、兼護衛となりました、ヴォルクスと申します」
そう言ってきっちり90度の礼をする二人は性別こそ異なるが、蝙蝠のような翼も、艶めかしい肌も、さらさらと零れる紫がかった黒い髪も、そこから覗く茶色い羊の角も、全てほぼ同じもので出来ていた。それに男女で色が全く異なってはいるものの、共通して異様なまでの色香を放っているのも特徴だ。もしかしてこの色っぽい二人、双子か何かだろうか。双子の側近……着実に逆ハーとかハーレムとか築いていってるな。このラノベ的展開、どこまで続くの?
そんなことを考えながら二人を見ていると、ふと、ヴェロニカさんが誰かに非常に似ている気がした。一体誰だ? エロいメイドさんに似てる人……うーん。
「王女様?」
「――あ、はい。えっと、よろしくお願いします。……あの、兄弟ですか?」
「はい。三つ子の姉弟で、私が姉、ヴォルクスが弟、それに私の上に姉がおりますが、姉は城勤めではありません」
「(まさかの三つ子)………あ、もしかしてお姉さんって、ヨセフさんの屋敷の女淫魔(仮)のメイドさんですか?」
私はヨセフさんの屋敷でお世話になった肉感的な美女、ヴィヴィアンさんを思い出した。そうだ、この二人ヴィヴィアンさんによく似てるんだ。顔立ちとかパーツとか、エロいとことか。特に三つ子で同性なだけあってか、ヴェロニカさんはヴィヴィアンさんにそっくりだ。
「ああ、王女様はアモン様の御子に保護されたのでしたね。姉をご存知でしたか。しかし、まだこちらにお戻りになられて日が浅くていらっしゃる筈ですが、よく私共の種族がお分かりになられましたね」
「え? 本当に淫魔なんですか?」
「ええ、私と姉は女ですので女淫魔、ヴォルクスは男ですので男淫魔です。姫様、何故お分かりに?」
「あー……皆さん、異様に色っぽいので」
「左様でございますか」
私の返答に、二人はクスリと納得したような笑みを零した。多分、もっと別に特徴があるんだろうけど、ストレートに1番目立つ特徴を言ったせいなんだろう。何か恥ずかしくなって笑って誤魔化したのだが、二人はむしろそれにはっとしたらしく、すぐに真面目な「お仕事モード」といった顔になった。
そうだ、本来彼らには仕事があった。私は特に時間に追われることは無いと思うが、彼らはいつもスケジュールに追われて仕事をしている。それを邪魔してはいけなかった。
「これより、朝のお支度をさせていただきます。朝食はこちらにお持ちいたします」
「分かりました」
「ではただ今お持ちいたします、王女様」
二人は再び一礼し、ヴォルクスさんは朝食を運ぶために部屋の外へ行き、ヴェロニカさんは一緒に持ってきていたカートから水を張った桶を持って、洗顔やら何やらの支度をし始めた。同じことを昨日まで(どんなに断っても)王妃様がしてくれていたのだが、やっぱりこういうのはメイドさんなんかがやる仕事らしい。
うん……何か、あれかな。私、マジでお姫様(笑)なんだなと思う。ちょっと居心地が悪い、こそばゆい。
***
一週間ぶりに自力での食事を終え(この時も目頭が熱くなった)、私はヴォルクスさんが淹れてくれた食後のお茶を飲んだ。
基本的にこの世界でお茶と言えば紅茶オンリーらしく、この一週間色々な茶葉で飲んだのだが、私はこのローミスという、全体的に薄い味のお茶が好きだ。どうやらその薄さ故に人気の無い茶葉らしいが、一週間の間に飲んだ他のお茶は、正直言ってちょっと癖が強過ぎたので、以来茶葉だけはこれがいいと魔王夫妻に頼んだのである。どうやら、彼はそのことを二人から聞いているらしかった。
「(さて……どうするかね)」
私はソーサーにカップを置き、今後のことを考えた。親馬鹿な魔王夫妻のことだから、私に何もしなくていいとすら言いそうな雰囲気ではあるが、さすがにそれは私自身が許せない。ニートは嫌だ。私は今後自分が何をするべきかを定めるため、ゆっくりと頭の中を整理した。
まず、はっきり分かっていることは、私が無知だということだ。
この一週間、実は私は魔王夫妻からこの世界のことについて、殆ど何も教えてもらっていない。それというのも、そんな話以上に二人が私のことを知りたがり、殆どの時間を私の身の上話などに費やしたためだ。私の知識量は、恐らく子供のマリアより少ないだろう。
だが、それで良い筈はあるまい。両親である魔王夫妻の治める国について、娘の私が無知では、両親に恥をかかせることになる。引きはしても、私を絶対的に愛してくれている人達に対して、そんな真似はしたくない。なら、そのためにはどうするか。
「(……もっと本格的に、この世界のことと魔界のことを勉強しよう。常識とか習慣とか、色々)」
よし、勉強だ。勉強しよう。内容によるが、勉強自体はさほど苦ではない。むしろ異世界の勉強なんて面白そうだ、やる気が出る。
……いや待て。勉強するのには何が必要だ? 本だ。教科書があればそれでいい。筆記用具はあった方が良いが、無くても問題無いと言えば無い。口頭で教わってもいいかもしれないが、本は繰り返し確認できる。勉強に本は必須だ。
だが、私はこの世界の文字が読めない。言葉は何故か通じているようだが、多分それは召喚の時の勇者的チートかなにかの恩恵だと思う。かといって、それが文字の方にまで及んでいるかと言えば、答えは否だ。立証済みである。私はお茶の茶葉が入った缶のラベルを読むことができなかったのだ。これはこの先生きていく上でも、一国の姫としても、非常に問題だろう。むしろ問題しかない。読み書きや常識などの基本的な技術に関しても、早急に何とかしなくてはならないのは明白だ。
「(じゃあ異世界史の勉強の前に、基本的な国語から始めないと。後は……)」
他に何か知っておかなきゃいけないこと……そうだ、魔法。魔法があった。こちらは知っておかなければいけないというよりは、私自身の興味関心による所が大きいのだが、魔法の勉強もしたい。
やっぱり異世界ファンタジーとくれば、魔法は付き物。あんなのが自分も使えるなんて、考えただけでわくわくするではないか。魔力もチート仕様でバカみたいにあるようだし、これは魔法無双するしかない。ていうかしたい。やりたい。そんでもって私を召喚したあのデブ共をぶち殺す。結果的に良い方向に転がったと言えばそうだが、私はあの時の理不尽な仕打ちを忘れてはいないのだ。
「(よし、魔法の方も習おう。多分魔王様か王妃様に頼めばOKくれると思うし)」
現在、私の中で国語=異世界史>魔法という優先順位ができたわけだが、他に何か、何かないだろうか……。
「姫様、お茶のおかわりはいかがでしょう?」
「あ、ありがとうございます。いただきます。………ん? 姫様?」
「どうされました?」
「いかがなさいました?」
さすが姉弟、揃って同時に色っぽく首を傾げるとは。私が乙女ゲーとラノベと漫画大好きなオタクじゃなくて普通の18歳男女なら一発で落ちてる――って、いやいや、それはいい、どうでもいい。今はエロい執事と侍女さんについてはいいんだ。
そうだよ、私姫じゃん。魔王と王妃様の、しかも一人娘……魔王位が世襲制だったら、私今の所王位継承権第1位だよ。立派な王族じゃん。
相当ヤバい事実に思い当たり、私は少し青くなった。そうだ、私王族だ。今まで何だかんだで「魔王」が称号でも悪役でもなくて、本物の王様だったの、忘れかけてたよ。昨日臣下押しかけて来たのにね! めっちゃ恩恵受けてんのにね!
王というのは、適当に税金で城で生活してりゃいいってもんじゃない。国を文字通り支えて、臣下や民を纏める存在である。当然王の妻や子供達、つまり王族にだって、相応の振る舞いやなんやは求められてくるのだ。それをいくら一般庶民だったからとはいえ、一週間も本来の意味を失念していたなんて……不覚!
「(っ……王族教育! これ金と時間めっちゃかかるって言うけど、私一人娘だから受けなきゃ駄目じゃね!? せめて振る舞いとかマナーとか身に付けないと、異世界史でミスるより、魔王様達によっぽど恥ずかしい思いさせるよね!?)」
ああああああ気付いて良かった! 本当良かった! こういうのって気付かないままズルズル適当にやってると、大体後で大恥かくことになるって相場決まってるもん! 危ねええええ!!
私は大火傷する前に自分で気づけたことに冷や汗をかき、同時に安堵する。よし、これで勉強内容が決まったぞ。国語、異世界史、魔法、王族教育、この4つだ。優先順位は国語=異世界史≧王族教育>魔法だ。王族教育は特に絶対必要だと思うが、その前に常識などを叩き込んだ方が良いかもしれないという判断だ。あれだけ焦ってから言うのもなんだが、もし私が思うような王権体制でなかった場合、最悪無駄に終わる可能性もあるからだ。
さて、後はこの旨を魔王夫妻に話して……あ、いや待てよ。今あの人達仕事中だ、邪魔しちゃいけない。それと、もし魔王夫妻から今日の指示があるなら、それを聞いておかないと。
「ヴェロニカさん、ヴォルクスさん、今日って何かしなきゃいけないこととかあります?」
「いいえ、特には」
「陛下と殿下より、王女様のお好きにさせるようにと仰せつかっております。ただし、まだお部屋からは出ないようにとのことです」
成程……ヴォルクスさんの言葉で、どうやら私の両親は放任主義らしいことが分かった。ただ、放任主義と聞けばほったらかしと思うかもしれないが、あの親馬鹿の両親からこんな放任主義の指示が出ているということは、甘やかしてる響きを含んでいると見て間違いないだろう。好きなことを好きなだけしろと、そういう意味合いだ。
……忘れてた私が言うのもアレだけど、もうちょっと娘の、一国の姫のこと、考えた方が良いんじゃないだろうか。いや、自分のペースで色々出来るから、都合良いけど。
しかし、両親不在でもこの軟禁生活が続くのはいただけない。何で部屋の外に出してもらえないのかは訊いたけど、まだ心配だからって言われたっけ。
あの時なら外出するとしたら魔王夫妻が絶対貼り付いてきただろうし、危険なんて皆無だったと思うんだけど。従者兼護衛付きでも駄目って、一体何が心配なんだろうか。分からない。城の中を探検とか、追々したいんだけどな……。
「何で出たら駄目かって、聞いてます?」
「いえ、ただ出すなとだけ」
「そうですか……今度また訊いてみよう」
ここでごねても、この二人を困らせるだけだろう。聞き分けのない子供じゃあるまいし、我が儘を言って困らせるのはよくない。部屋の中でも勉強はできるのだ。外に出るのはそれらが一区切りついてからだって構わないし、今どうしても、ってわけでもない。元々引きこもること自体、苦に感じない方だしね。
「それで姫様、何かなさりたいことでもおありですか?」
「あ、はい。私、勉強したいんですが」
「勉強、ですか? 具体的にどのような内容でしょう?」
「まず、基本的な文字の読み書きを。私、言葉は何故か分かるんですが、文字はさっぱりで……」
「分かりました、筆記用具と教材をご用意いたします。他には何かございますか?」
「この世界とか、魔界についてとかも知りたいです。できれば一般常識から全部。他にも知りたいことはあるけど、まずはそれを勉強したいです」
「かしこまりました。では、僭越ながら教師役は私共が務めさせていただきたいと思うのですが、いかがでしょう?」
「お願いします」
さて、一週間ぶりに学生しますか。




