幕間 魔王の胸中
「眠ってしまったか……」
「きっと疲れていたのね。ここまで来るのにとても大変だったでしょうから……」
もう月がすっかり消えてしまった頃、ようやく緊張の糸が切れたのか、娘はソファで眠ってしまった。18年ぶりに見る愛娘はすっかり記憶の中のそれと変わっていたが、寝顔はそう変わらない。そんな些細な発見に妻と顔を見合わせて笑う。
ああ、やっと欠けていたものが戻ったのだ。これを幸せと呼ばずして何というのだろう。
「あなた、顔がだらしないことになっていますわ」
「む……」
妻に指摘されて鏡を見れば、なるほど、確かにだらしがない。魔王としての威厳も、どうやら娘の前では霧散してしまうらしい。
だがかく言うアイリーンとて、その顔は笑顔が絶えない。視線は常にヨルムンガンドに注がれ、一秒でも長く眺めていたいというのがよく分かった。
魔界の民は好戦的だが、それ以上に愛情深い民だ。愛情が一度芽生えれば決して絶えることは無いし、特に血縁や男女間の愛はより深く、時間や空間の隔たりをも凌駕する。
だがその代わり、嫌った相手は必ず殺すという側面も持っている。嫌いな相手は要らない。何故なら愛せないからだ。魔界の民は好いた相手に全てを捧げ、嫌いな相手は存在から否定する、1か0の種族なのだ。
そう考えると、異界とはいえ、人間に育てられた娘が、私は不憫でならなかった。
人間の愛は、我々魔界の民の愛と違って、薄っぺらな都合の良い物だ。政略結婚などと言うくだらない思想で子供の伴侶を決め、愛し合って結婚したと言う癖に離婚する。同時に何人もの恋人を持って睦み、時には家族ですら傷つける。特に決まった伴侶以外とも閨を共にするというのは、淫魔のような性交渉によってエネルギーを得る特例の種族を除き、貞操観念が固い我々からすれば、それは信じられないことだった。
それに、人間と我々では道徳観念も異なる。ある程度までは通じる部分は見受けられても、その本質が異なるのだ。人間はその弱さを重視するが、我々は強さを重視する。それなりにルールはあるが、基本的に強い者が弱い者を支配するのが魔界の民だ。殺し殺されることも、奪い奪われることも、強ければ何ら問題は無いのに、人間は等しく弱いために、それを抑圧する。我々にはそれが理解できないのだ。
ヨルムンガンドは、妖精の呪いで名前を奪われて人間の姿になっても、魔族の本質までは歪められなかったはず。そんな娘が人間社会の中で溶け込めていたとは到底思えない。こちらの同年代の子供より、ずっと窮屈に育ったのだろう。可哀想に。向こうの世界の人間の家族にさしたる執着が無かったのも、我々にとっては普通の、しかし人間にとっては依存と呼べる程の愛情を貰えなかったからだろう。魔界の民は自分が愛されただけ愛するのだから、やはり、人間と我々は違う生き物なのだ。
「ああ……重くなったな」
「女の子に失礼ですよ、あなた。……でも、18年だものね」
18年。人間の優に3倍以上の寿命を持つ我ら魔界の民にしてみれば、それはさして長い時間ではない。だが、たった一人の娘を失った私と妻にとっては、酷く長い虚無の時間で、赤ん坊だった子供が成長するのにも、十分な時間だった。
今こうして眠る我が子を抱き上げても、向かう先は揺り籠ではなく、ベッドである。部屋の持ち主は変わらないのに、持ち主の時間は確実に流れていた。
「ドレスでは窮屈ではないか?」
「でも、よく眠っていますわ。着替えるのに起こすのも可哀想よ」
「ふむ……そうだな」
ヨルムンガンドをベッドに横たえて、顔にかかる妻と同じ黒髪を払う。穏やかに眠っている娘を見て、また顔が弛むのを感じた。妻も同様である。サタン665世の名を継ぎ、魔界で唯一皇帝の階級を持つ最強のドラゴンである魔王も、フールフール一族で初めて君主の階級まで上り詰めたその王妃も、娘の前ではただの親である。
「共に在れなかった18年の歳月の分、たっぷりとこれからは愛してやろう」
「そうですわね。本当は1分1秒ですら一緒に居たかったのに、それが18年も引き離されてしまったんですもの、当然だわ」
「とりあえず、明日から暫くはこの子の傍にいるとして、まずは城の警備体制を引き上げるか。また羽虫が入り込むようなことがあってはことだ」
「ええ。それと、この子を召喚したエウラタの人間共はどうします?」
「我が娘に枷を付け、地下牢に入れるなど、そのようなことをしておいてただでは済まさん。だが、ヨルムンガンドを召喚したということに関しては、王家の一人くらい瀕死で留めるくらいの酌量の余地があるか?だがアモンの息子から根こそぎエウラタを滅ぼしたいと申し出があるが、さてどうするか……」
「アモンの息子から?あらまあ……」
「何だ、アイリーン」
「婚約者の心配は不要かしら」
「何……?」
妻の聞き逃せない言葉に、ぴくりと顔の筋肉が引き攣る。確かにヨルムンガンドを魔界に連れ帰ったのはアモンの子供達だが……まさか……
「謁見の間を出る時、あの子ったらアモンの息子達の方を見つめていたのよ。恩人だからと言っていたけれど、あの子も満更ではないのかもしれませんわ」
「早い……そんなこと、私は許可せんぞ!」
「でも、あの子も18歳なんですよ?思春期ですし、それくらいは仕方がないですわ」
「認めん、早過ぎる。18などまだ子供だ。角とて生えていないのだぞ!?」
「それはそうですけど、今まで肉体だけは人間にされていたことを考えれば、角はきっとすぐに生えますわ。角が生えれば一人前、そうでしょうあなた?」
「だが……!」
「今はまだ侯爵ですけど、アモンは大侯爵ですし、きっとまだ伸びるんじゃないかしら?顔も良くて人気もあるし、夫としては悪くないと思いますわよ?」
「……嫌だ!」
何故帰って来たばかりの娘を、突然余所の男に奪われねばならんのだ! 絶対にまだそんなことは許可しない! してやるものか!!
私は微笑む妻を尻目に、ヨルムンガンドを見やる。……我が娘ながら、大層愛らしく育ったものだ。外見は私に似なかったが、その分妻に似て美しく育ったのなら、それはそれでいいだろう。
だが、それがもう私の手から離れ行くなど……断じて許せることではない!!
「絶対に誰にも渡さん。二度と手放しなどせん」
「……そうですわね。この子が誰を愛するのか、将来誰と結ばれるのか、それを咎めだてるようなことはしないけど、今すぐにというのはちょっと無理ね」
妻と二人、18年前と同様に眠る我が子を見つめ、その手を握る。それでやっと、私は娘の存在を実感した。




