階段の下の目
じわじわと蒸し暑い8月。
智子は自室の部屋で転寝をし、先ほどまで動かしていた体を休めていた。
智子の部屋は、西日を取り込むベランダに続く大きな窓があり、夏に昼寝をするには厳しい場所ではあるが、秋や春の少し寒い時期には、この部屋はもっとも快適に過ごせる空間に変化する。
「かなり暑い。」
全身をじめっとした汗が絡み、とても不快で眉間に皺がよる。
それでもクーラーの効いた一階のリビングまで向かおうという気力もなく、智子はこの不快感に耐えつつ部屋で寝転がっていた。
窓の外からはセミの鳴き声。
太陽が僅かに傾いた午後。これからさらに気温は上昇するだろう…。
暫くむっと熱気のこもった部屋で本格的に寝入る事もできず、何度も寝返りを打っていたところだった。
突然。
体が自分の意思を持ったように、動かなくなった。
――え……?
智子はその予想外の出来事に驚き唇を動かしたつもりだったが、その言葉は唇から洩れることなく、身の内で溶けていった。
――金縛り?
智子は体が動かなくなった理由を探し、そう結論付けふっと強張っていた全身の力を抜いた。
金縛りは全身の疲労により起こることがあると聞いたことがある。
きっと今回の金縛りも寝転がる前に大掃除をしていた事が原因だろう。
気持ちを落ち着かせ、智子は眼球だけは動くことに気が付き、ぐるりと部屋の中を見渡した。
綺麗に整頓された自室。
小さい頃から学生の時を終えた今でも使用している馴染み深い学習机と本棚。
あてがわれた部屋は4畳半と小さいのでベットはなく、また、衣類箪笥も家族供用で別の部屋においているため、家具はこの2点のみだ。
細々としたものは廊下に続く扉の横に並列した押入れの戸の奥に押し込んでいるため、部屋は智子の年頃の女性のものとしてはとてもがらんとしている。
その部屋を包み込むのは白い壁。ところどころ画鋲の後が残っているが変色している部分もなく綺麗に管理されている。
――いつになったら動けるのかしら。
体に太陽の熱が篭りはじめ、そろそろ起きなくては熱中症になりかねない。
智子は瞳以外動かせる場所がないかと、身じろぎをしようと試みるが床に張り付いたようにまったく動く事が出来なかった。
どうにかして動きたい……あきらめずに、何度も体へ動くようにと念じていると、階下からこちらを覗いている目があるのに気が付いた。
――誰かがこの部屋をうかがってる……誰?
自室にいて廊下に続く扉が開いているとしても、階下の様子など普通は分からない。
しかし、智子はなぜか階下から誰かが階段の手すり越しに覗き込んでいる黒い影が見えた気がした。
その黒い影は、じっと階上の智子の部屋だけを見つめていた。
そして、ぎし……と、階段の板を踏む音が智子の耳に届いた。
――くる!!
ぎし……ぎし……と、その音は一定の間隔で聞こえてきて、少しずつ近づいていた。
智子は体が恐怖のため一気に体感温度が下がった気がした。
どくどくと心臓が激しく脈打つ。息も荒くなり、目の端に涙が滲んできた。
何とかして起きないと、アレが来る前に起きなくては。
頭の中でそう危険を知らせてくる。
今まで以上に、体に力を入れて動かそうとする。
早く。早く。早く。
智子がそうしている間にも、ぎしぎしと階段を上ってくる音は近づいてきており、そして……
ぎしり。
最後の階段を上りきろうとしている黒い影。
壁の様に廊下と階段を挟んでいた手すりの端から、ゆっくりと得体のしれないものが覗いた。
――……っ。
喉が張り付き、悲鳴を上げる事さえできない。
見てはいけない。目を合わせてはいけない。
そう思ってはいるのだが、どうしても階段から目を背ける事は出来なかった。
――助けて……助けて。
この影がすべて見えたら、絶対だめだ。
徐々に黒い靄のようなものが、階段から現れようとしていた。
そして黒い影が見えると思ったその瞬間。
勢いよく部屋の扉が勝手に閉まった。
智子は扉が勝手にしまった事に驚いたが、それ以上に黒い物が視界から消えたことに安堵した。
またあの黒い靄の束縛だったのかそらすことが出来なかった瞳も自由になっており、智子はぎゅっと目を瞑る。
どうか、どうか……この目を開けた時には、全てが無くなっていますように。
「智子ー! 部屋の片づけに何時間かけるつもりー!!?」
階下から聞きなじんだ母の声が届く。
はっと目を開けると、体は自由になっており、さっきまでの不穏な影も消えていた。
どくどくと未だに脈打つ心臓と乱れた息に呆然としたが、すぐに辺りを見渡してホッとため息をついた。
「よかった……夢だった」
暑い部屋でいつの間にか熟睡していたらしい……とても、寝ざめの悪い夢だった。
じっとりと体を包んでいた汗はいつの間にか雨の中を走ってきた程ぐっしょりとしていた。
「シャワー浴びてすっきりしよう」
そう気持ちを切り替えて、部屋を出ようと扉に手をかける。
「あれ? ……部屋の扉って、いつ閉めたっけ?」
ふと気が付いていしまった違和感。
過ぎた恐怖がまたも、身の内に湧いてくる。
今、私は家に一人。
母は、昨日から親戚の新盆の手伝いのため家にはいない……。
急いで帰ってきたとしても、1時間2時間で戻ってこられる距離でもないため、転寝している間に母が家に戻っていることはありえないことだった。
廊下へと続く扉に手を当てるが、その先の動作に移ることができない。
どくどくとまた上がっていく心拍数。
本当にこの扉を開けても大丈夫なんだろうか?
まだあの黒い影がこの先にいるのではないか?
智子は張り付いた喉を潤すように、唾をこくりと飲み込んだ。
怖いからといって、このまま部屋にいるのも危険だ……
恐怖を押し殺し、智子は扉にかけていた手をゆっくりと横へと引いた。
「誰も……いない」
見慣れた廊下と階段の手すり。
階段の向こうには、小さな窓があり網戸だけ閉めたその先から、涼しげな風を廊下に送り込んでいた。
ほっと息をついて、智子は階段へ足を向ける。
ふと何気なく廊下にかけられた鏡へと目を向ける。
「ひっ」
鏡の中に夢の中で見たと思っていた黒い靄が映り込んでいた。
智子はひきつった声を上げ、その鏡から慌てて逃げ出し1階のリビングまで走る。
その智子の後ろ姿に、黒い影が何か言ったような気がしたが、智子は聞こえなかったものとして一度も振り返ることをしなかった。
『おしかったなぁ』