1-2.『天使は嘘をつかない』
腐敗臭が黴と埃、魔力の香りと混ざり合って胃がひっくり返りそうになる。目から涙が勝手に溢れそうだ。
目の前に、屍人が6体立っている。
屍人たちは足を引きずるようにこちらへ向かってきた。その足元にできた、体液の水たまりで蛆が跳ねている。破れた皮膚の隙間から見える骨が擦れ合う音が鳴る。溶けかけた目玉や虚ろな眼窩がこちらを見ている。
思わず一歩足を引く。
アランとカルロスは同時に動いた。後衛の2人を、レオを守るように前に出る。カルロスが顎を蹴り上げ、アランが斬り付けた。屍人が倒れる。ガタガタと身体を揺らして起き上がろうとする、その頭をカルロスが踏み潰した。脳漿が弾ける。前衛で出遅れたのはレオだけだ。でも、何ができるだろう。狭い廊下で、味方も側にいて、槍を振り回すのは現実的ではない。
ならば、使うべきは槍ではない。
「これ、持っていてくれるか」
エマに槍を預け、腰に差していた短剣を取り出す。
肩に刃先を埋めれば、骨の砕ける感触が手に伝わる。平衡感覚を失った屍人の体が倒れる。体液が床に染みを作った。目を、奥に立つ屍人に移す。こちらはあまり腐敗が進んでいない。屍人の腹に蹴りを入れる。臓物のたわむ感触を、頭から追い出す。とはいえ屍人は意味のない呻き声を上げるだけで、ふらついた脚でこちらに向かってくる。まだ、決定打が足りない。
進もうとして、つんのめる。屍人につまずいたのだろうか。しかし、つまずいたというより引かれた感覚だ。足元を見れば、肉の溶けた手が服の裾を掴んでいる。関節が歪んでいる。服の裾を掴む手は、先ほど砕いた肩に繋がっていた。それなのに、掴まれている。その事実に胃の底が冷え、短剣を持つ手が強張る。声が出ない。こちらを睨む眼窩を見つめ返す。
関節が軋む音に目線を戻せば、目の前には蹴りを入れた屍人。腹にレオの足跡がくっきりと残っている。屍人がぎこちなく腕を振り上げるのが、やけに遅く見えた。肉が骨から剥がれてぶら下がっているのが目につく。避けなければ。しかし服を掴む力は存外強い。短剣では手まで届かない。
「砕けよ」
短い詠唱が響き渡り、服が軽くなった。服の裾を掴んだ屍人の手が光って砕け、肉と骨と血が飛び散り服と靴につく。それと同時に、レオの頭の横を小刀が飛んでいき、屍人の目に命中した。目玉が弾けて、一瞬頭がぐらつく。もう1つ、小刀が飛んで胸元に命中する。折れた肋骨の、開いた隙間を通って丸見えの心臓に突き刺さった。屍人が動きを止め、仰向けに倒れる。レオの肩から力が抜ける。
「ありがとう」
振り向いて礼を言う。エマが笑みを浮かべ、手を振った。悪魔はただ、顔をアランとカルロスに向ける。
レオも2人に目を向け、一歩踏み出す。その瞬間、耳が近くで何かが擦れる音を捉えた。指先で何かを引っ掻くような音。胸がざわつく。足元を見れば、砕けた手の破片が蠢いていた。骨が繋がり、指が生える。罅の入った骨格を肉が、皮膚が覆う。
手だけではない。レオが砕いた肩も、穴が埋まりかけた骨を肉が、肉を皮膚が覆う。鼻が、甘ったるい匂いを捉える。空気のうねり。皮膚の上で蛆が這うような感覚。瞼と胃が痙攣し、喉の奥が酸っぱくなる。
「なんで!?」
悪魔の叫びがやけに遠くから耳に届く。その場から飛びすさる。再びレオを捉えようとした手は空を切り、その場に落ちた。肉が潰れて骨がひしゃげる。それでも辛うじて手の輪郭は残していた。踏み潰すべきか迷う。眼窩がこちらを睨んでいる。空いた口から緑色の体液が垂れている。甘ったるい匂いは薄くなり、代わりに腐敗臭が鼻についた。後ずさる。首だけを回して後ろを向けば、エマの小刀を受けた屍人は倒れたままだ。短剣を支える指がわずかに緩まる。しかし手を砕いたはずの屍人が回復した事実は変わらない。
倒さねば、どうやって、そればかりが頭の中を駆け巡る。
「おい、こいつらキリがねえぞ!」
カルロスの怒鳴り声に、再びそちらに視線を向ければ2人が相手取っている屍人が倒れていない。砕かれた頭に穴が開いて、そこから腐りかけた脳みそが垂れている。斬り付けられた腕が中途半端に繋がり、ぶらぶらと揺れている。だけど、2体とも立っている。その後ろでやはり2体の屍人が揺れながら呻いている。1体は脚が折れているのか、身体が傾いていた。脚を引きずり進む度、骨の擦れる音が耳に届く。
「何!?どういうこと!?」
「知るか、対処法を」
エマたちの怒鳴り声が遠く聞こえる。声だけではない。目の前の光景、鼻に残る腐敗臭、全てが遠い。
こんなに速く回復していく魔物なんて、遭遇したことがない。対策が思い浮かばない。
景色がぐらぐらと揺れて、色彩も輪郭も曖昧になる。退避すべきか。屍人に対処しなければ立てこもったところで飢えて死ぬか、その前に発狂するかだ。湿った空気が肌にまとわりついて、肩に重くのしかかる。
瞬間、詠唱が鋭く耳を打った。
「死者は動かない」
一瞬、空気が凪いだ。迷宮の魔力と悪魔の魔力がぶつかり合う音が聞こえる。耳鳴りが脳を揺らす。空気が、景色が歪む。肌が痺れる。
しかし、効果はあったようだ。
屍人の体が光り動きが止まった。まるで自分が死んでいて、もう動けないことを思い出したように。一拍遅れて、崩れ落ちる。一瞬、その場の空気が弛緩する。
アランとカルロスは屍人に歩み寄った。アランが剣で屍人をつつく。カルロスは流石に倒れた死体に触れる気はないらしい。彼の斧槍は2階の廊下で投げられてから拾われていない。
「これ、どうする?」
屍人を見下ろすカルロスとアランの顔はいつも通りだった。アランはやや息が上がっているが、頭を完全に屍人の処理に切り替えたようだ。
理知的に光る目でアランが屍人を眺め、カルロスは周囲の気配を探っている。ただ、戦闘後の荒い息の音が屋敷の廊下に木霊していた。
先ほどはあんなに音が遠かったのに。頭を振る。考え事をしていたせいだろう。あるいは絶望的な状況のせい。
「放っておこう。時間がもったいない」
「いいの?」
エマの確認に、沈黙が落ちる。
「……慎重になりすぎると、機会を失う」
エマはその言葉に何も返さなかった。ただ、屍人の目と心臓から小刀を引き抜いて拭い、装備し直す。装備する一瞬、頬がわずかに緩んだのを見て取り、目を逸らそうとして留まる。
預けたはずの槍を、彼女が持っていないのだ。
「あれ、槍は」
「ああ、悪魔に預けたよ」
エマが視線を悪魔に送る。しかし悪魔も槍を持っているようには見えない。
「虚空にしまいました」
悪魔が平坦な声で言った内容に思わず黙った。虚空。今いる迷宮とはまた違った虚空だろう。とはいえ、今まで虚空には散々な目に遭わされてきた。
「……外で返してくれ」
「わかりました」
どうせ屋内で槍を使いづらいのだから、いっそ短剣を使うことに集中するべきだろう。槍よりも扱いに自信はないが、魔法にあまり頼りたくなかった。
「こいつら、どこから来たんだろうな」
カルロスの疑問に、全員の目が屍人に向けられる。
「2階から来た?」
「じゃあ、2階にもいるかもしれないよね」
エマの推測にアランが耳を立てる。数秒して、頭を振る。
「何も聞こえないが……」
呟きは空気に溶けそうなほど低い。
「レオ、魔力に気を配ってくれ」
「……はい」
自分の役割の重さを再確認される度、目の前が暗くなったような気がする。瞬間、カルロスの軽い声が耳に届いた。
「行方不明になってた奴らのなれの果てだったりしてな」
「おい、不謹慎だぞ」
アランがすかさず鋭い声を出す。カルロスの謝罪は冗談と同じくらい軽い。
足元に崩れ落ちた屍人を観察する。その胸から、薄く魔力が立ち上っている。放っておけば、やがて魔素へと還っていくだろう。ふと顔を上げると、エマが僅かに顔を顰めていた。目が合うと、視線を逸らされた。一歩後ずさり、仲間に視線を配る彼女の雰囲気が重い気がする。
しかしエマに声を掛ける前に、息苦しさに顔が強張るのを感じた。魔力が密度を、空気が重みを増す。空気中の魔力によく溶け込んだ魔力。先ほどの天使たちのそれ。
エマが、レオの顔を見て一歩踏み出す。
「油断するな!」
とっさにそう声を上げた。
アランの瞳が鋭さを帯び、耳が動く。
「行くぞ」
アランが撤退の判断を下す。 彼に続いてカルロスが駆けた。エマと悪魔が続く。その背を追う。足音が空気中に溶け込み消えていく。夢の中にいるようにすべての景色と音がぼやけ、思うように進まない。
玄関広間の両脇にある階段を、警戒しながら登る。最初に階段を登ったときのように、空気が変わることはなかった。その事実に、色彩がやや鮮明になる。
2階に上がった。天使の奇襲を受けた場所だ。しかし今、その場に蜥蜴人の天使の気配はない。最初に現れたときの、魔力の揺れもない。だが、別の者がいた。屍人が7体。
アランの走る勢いが緩む。その背が強張るのが見て取れた。エマとレオも身体を強張らせる。カルロスが斧槍を拾い上げ、アランを追い越しそうになる。
「死者、は動か、ない!」
悪魔の詠唱が再び響く。効果はあったようだ。こちらに気付いた屍人の体が向かってくる前に床に沈む。
骨が床に当たる音を聞き流しながら一番手前の扉を開けて、アランが飛び込んだ。カルロスに、エマに、悪魔に続く。後ろ手で扉を閉めた。
「なんで、こん、なに、急がなきゃ、いけない……」
喘鳴の合間から、悪魔が抗議をする。カルロスとアランの息は上がっていない。エマは軽く息をついている。身体強化にも限度があると以前ぼやいていたのを思い出す。レオは、息苦しさを感じていた。どれだけ息を吸っても肺がもっと空気をよこせと暴れている。
仲間たちの視線が、レオに向けられる。喉が締まり、呼吸音が鳴る。アランの目に、伺うような色が浮かんでいる。幼い頃、稽古を付けてもらう度に見せていた色。エマがほんのりと眉を寄せている。カルロスだけが視線を外し、部屋の中を見渡していた。その事実に、やっと呼吸が楽になった。
「……天使の魔力が集まっていました」
ありのまま報告した声は、掠れていた。アランとエマがため息をつく。
「両方相手取らないといけないのか」
「厄介ね」
意思を疎通し、異なる魔法を使い分けていた天使たちを思い出す。エマの言葉通り、理性のない魔物より厄介に違いなかった。
ようやく立ち直ったらしい悪魔に、カルロスが斧槍を渡した。悪魔は黙って武器を受け取り、外套の中へ仕舞い込む。大きな斧槍が、完全に入り込む。外套から抜かれた悪魔の手は何も持っていない。
思わずカルロスを睨むと、笑いかけられた。
「あっても邪魔なだけだ」
悪魔は、知らん顔で――顔は相変わらず見えないが――壁と扉に守りの魔法をかけている。それに意味があるのだろうか。浮かび上がる疑問を頭から振り払う。アランが何も言っていないのなら、レオが意見するまでもない。屍人をおびき寄せることになったとして、悪魔が魔法を使えば良いだけの話だ。それが、どの程度機能しているのかはともかく。カルロスに何も言えない。ため息をつく。
カルロスに倣って視線を部屋の中へ向ける。
「書斎か」
声を掛けられる。その声にアランとエマも周囲を見渡す。
「そうですね」
部屋の奥には暖炉。右側に本棚。左側に机が置いてある。暖炉の火は消え、本棚には紙の束が無造作に詰め込まれていた。一方で机の上には紙が広げられている。
部屋の中の空気がやや軽いことに気がついた。部屋の中は静かだ。自分の浅い息の音が聞こえる。耳の奥で心臓が早鐘を打っている。墨と紙と羊皮紙の匂いが、甘ったるい香りに混ざる。腐敗臭よりはマシだ。ふと、皮膚に違和感がないことに気がついた。先ほどまで肌に刺すような痛みがあったのだ。緩みかけた気持ちを引き締め直す。こういった一見安全な空間ほど致命的な罠があるのだ。
鍾乳洞の迷宮の記憶をあえて頭の底から掘り起こした。あの時、わずかに乾いた空気の小部屋で、レオは魔物の粘液に脚をすべらせてたまたま開いていた穴に落ちかけた。アランに腕を掴まれて助かったが、あの時は魔物と闘うときよりもよほど死ぬかと思った。
書斎の空気はその時の小部屋のそれとよく似ていた。他の部屋と比べて乾いて、清潔で、親しみやすく安全そう。気をつけるに越したことはないだろう。もう一度、書斎全体を見渡す。アランとカルロスは既に机に向かっていた。振り向けばエマと悪魔は壁と扉を調べている。レオも加わるべきだろうか。少し考えてレオは本棚を調べてみることにした。
違和感に従って本棚の紙束を1つ1つ調べる。本棚にも紙束にも、埃は積もっていなかった。1階の家具も掃除されていた形跡があったことを思い出す。確か部屋の隅には埃が積もっていたはずだ。だが、書斎の隅に埃は積もっていなかった。目を紙束に向け直す。どの紙にも複雑な紋様が至る所に描かれている。指先で触れると、僅かに刺すような痛みを感じた。拒絶の意思が痛みを通じて脳に伝わる。指を引っ込める。指先を見ても、傷はついていない。
「魔法陣ですね」
いつの間にか隣にいた悪魔にそう声をかけられて飛び上がった。振り返れば悪魔とエマが紙を覗き込んでいる。相変わらず悪魔の顔は見えない。それでも目線がまっすぐレオの持つ紙束に向けられているのはわかる。
どうしてだろう。
一瞬湧き上がった疑問に、遅れて何に対する疑問だろうと考える。何にせよ今重要なのは迷宮の攻略、そのための探索だ。
ふと、悪魔が顔を上げた。目が合う。
「指」
「え?」
「どうかしましたか」
一連の動きを見ていたのだろう。無防備な部分を見られていた。頬が僅かに熱を持つ。
「いや、ちょっと痛んで」
その言葉に、エマと悪魔が指先で魔法陣に触れる。あまりの躊躇のなさに、止める間もなかった。
「何も感じないけど」
「私もです」
エマはともかく悪魔の言葉は意外だった。もう一度魔法陣に触れる。指先が痛む。
どういうことだろう。わからない。ならばわかりそうなところから考えるべきだろう。
「成果は?」
レオの問いにエマも悪魔も何も答えない。目線は完全に紙束に向けられている。思わずため息をつく。魔導師は陣を見るとそれが魔法陣だろうが魔導のそれだろうが飛びつかずにはいられないらしい。悪魔もそうなのだろうか。レオにはいまいちわからない。
「何の魔法陣だ?」
レオの問いかけにエマが唸る。滑らかな眉間に皺が寄っていた。彼女が脳内で膨大な量の陣を思い描いているのが、手に取るように分かる。数秒して、ゆっくりと首を振る。
「う~ん、わかんない。身体強化じゃないと思うけど」
「そうか」
エマの返答に、眉が上がる。彼女の知識は集落でも随一のものだと、彼女の妹から耳にたこができるほど聞かされている。推測できないということは、よほど専門性が高いのだろうか。
悪魔の方を見れば、緩く頭を振っていた。
「再現すれば分かるかもしれませんが」
提案する悪魔に肝を冷やした。思わず紙束を悪魔の目の前から隠す。悪魔は肩をすくめた。別の紙束を取ろうとする悪魔に、再現はやめてくれと釘を刺しておく。悪魔は黙って紙束を手に取り捲った。意識を周囲の空気に向ける。魔力の動きはない。紙束を持つ手が緩む。
「とりあえず、天使がこの部屋を使ってるということですね」
紙束を本棚に戻し、悪魔と同じく別の紙束を手に取る。同じような紋様が並んでいる。せめて規則性がないかとじっくりと見る。視界が明滅する。酸欠になった時みたいだ。拒絶の意思が魂に伝わってくる。とても規則性があるとは思えないし、あったとしても見つけ出すまでに時間がかかるだろう。ならば別の場所の探索に時間を使いたかった。
「あいつらが住み着いたことで迷宮になった?」
エマが紫の目を細める。問う声は僅かに揺れていた。思わず首を捻る。
「天使が住むだけで迷宮化するんですか?」
悪魔の問いに沈黙する。その理屈だと世界はあちこち迷宮だらけになっていることだろう。レオの住んでいた小屋も。目の前の光景に、敷布が重なる。甘ったるい――もはや黴や埃の臭いを感じなくなったほどだ――空気の臭い、墨と紙と羊皮紙の匂いに、雨の香りが入り交じる。まただ。目をきつく閉じ、幻覚を振り払う。見慣れた瞼の裏にほっとする。3秒数えて目を開ければ、澄んだ紫とかち合った。
「大丈夫」
何かを聞かれる前にそう言えば、エマはそれ以上こちらを見なかった。視線を今持っている羊皮紙に戻す。その指が掛かっている箇所に、皺が寄っている。思考を他に割かせた事実に、胸が苦しくなる。その一方で、迷宮攻略に集中して欲しいとも思う。
「だとすると、他にも大勢天使がいるかもね」
「……この屋敷に?」
悪魔が書斎を見渡す。
「外にも?」
その言葉に、悪魔が他の迷宮から逃げ込んできたことを思い出す。
「……迷宮化しているところに住み着いた、の方が自然かもね」
エマの言葉の方が腑に落ちる。
この屋敷に大勢の天使が住んでいるとは考えづらいし、周りの森にも生き物の気配はなかった。迷宮化する前だったから感じなかっただけで、今外に出れば大勢の天使が待ち受けているのだろうか。仮にそうだとして、迷宮化するほど魔力が歪むのなら、天使が対策を打たないとは思えない。
なぜこの迷宮を選んだのだろう。魔力の歪んだこの迷宮に。
紙束を本棚に戻す。レオは、これ以上見ても無駄だろう。魔法も魔導も使えないのだから。思い至った事実に胃が縮む。
自分の血筋を、無駄にしているのだろう。自分が魔法を使えたら、もっと楽に迷宮を攻略できるのだろう。できたのだろう。鍾乳洞の湿った匂い、べたついた潮風が肌を撫でる感触。攻略した迷宮に囚われていてはいけないのに。教訓と経験だけを持ち帰って、余計な記憶は忘れないと。意識を書斎に――今いる迷宮に戻す。
暖炉に歩み寄り、覗き込む。何かが燃えた後がある。紙束だろう。燃え残った破片を手に取る。未だに少し温かい。死体の処理方法。それだけが読める。残りは燃えてしまったらしい。
死体の処理方法。その文字を何度も視線でなぞる。紙の温かさに反して無機質な冷たさが立ち上っている。
廊下で見た屍人が脳裏に過ぎる。彼らも即座に回復する魔物に苦戦していたのだろうか。なのにこの迷宮に住み続けるのは、何か理由があるのか。
他にも燃え残ったものがないか探す。屋敷と辛うじて読める紙片と、微かに残る熱しか見つからなかった。
つい先ほど燃やしたのだろうか。読まれて不都合な物でもあったのだろうか。なぜ本棚の紙束は燃やさなかったのだろうか。その違いは何だろう。文字か魔法陣かの違いだろうか。でも、彼らはレオが天使の血を引くことに気付いていた。
悪魔に頼めば、燃えてしまった紙束も復元できるだろうか。肌を撫でる空気はやはり、他の部屋より魔力の密度が薄い気がする。使い道のわかりきった魔法なら、比較的安全かもしれない。
顔を、悪魔に向ける。まだ本棚の前にいた。1箇所の探索に時間を掛けすぎではないか。
「なあ、」
言いかけて、言葉に詰まる。一瞬、頭が真っ白になる。悪魔はこちらを振り向かない。自分が呼ばれていることに気がついていないのか。呼びかける言葉を探す。
自分は、何を迷っているのだろう。
「見取り図はどうする」
「意味ないだろう。見るだけ見て置いておけ」
アランとカルロスのやりとりに、視線を机に向けた。その上に飾られた肖像画と眼が合う。濃い緑色の視線。ここにもあるのか。2階の廊下にもあっただろうか。仲間の背を追うのに夢中で記憶にない。一度絵画を意識すると、妙な圧を感じた。視線をアランとカルロスに逸らす。
アランが、視線を部屋に散らばる仲間に配る。
「お前らも、一応見ておいてくれ」
促されて見取り図を見る。1階は記憶にある配置と同じだった。応接間、使用人室、倉庫、食堂、厨房――。羊皮紙に書かれた文字が持つ意味が、実体として頭の中に蘇る。
だが、1つだけ記憶にないことがあった。
「厨房から地下に行けることになってるけど、階段見当たらなかったよね」
エマの黒く丸っこい指が、地下という単語をなぞる。
「空間が歪んでいるのか?」
「でも、まだ迷宮と呼べるほど魔力は濃くなかったですけど」
その言葉に、沈黙が訪れる。彼らは魔力に関するレオの判断に口を出さない。その信頼が、ひどく重い。深呼吸をする。甘ったるい魔力が空気と共に鼻を通って肺を満たす。アランがちらとレオを見た。その目はどこまでも理知的に見える。
「そもそもこの見取り図がこの屋敷のものとは違うとか」
「ううん、でも名前がこの屋敷のものだよ」
エマが見取り図の右下を指さす。そこには確かにアブラームと書かれていた。
「アブラーム?」
「確か、元の持ち主だった男爵か」
アランの言葉にエマが頷く。再び沈黙が落ちる。耳鳴りがする。
「……一足先に虚空に呑まれた、とか」
「じゃあ今行ったら見つけられるのか」
カルロスの言葉に、アランが静かに返す。
「厨房の地下なら貯蔵室だろう。大したものがあるとは思えないが」
「なら、後回しでいいんじゃないか」
カルロスの言葉に、アランが黙り込んだ。
「見に行った方がいいと思うけどね」
エマの言うことにも一理ある。貯蔵室が虚空に呑まれたなら、そこに迷宮化の原因があると見て取るのは探索者として自然なことだ。
悪魔に視線を移して、一瞬息を忘れた。いや、自分が忘れたのは息ではない、と思う。他の何か重要なこと。額に手を当てる。何かを思い出せそうで思い出せない。
悪魔は何も言わない。見取り図を眺めているだけだ。指先が厨房の字をなぞる。厨房の様子を思い出す。普通の厨房だった。使おうと思えば使えそうな。
いや、そこにもやはり異変があった。絵画を睨む。どうしてこの少女の肖像画があったのだろう。確か、1階の全ての部屋にあった気がする。
アランの咳払いで、物思いから覚めた。琥珀色の双眸が、こちらを見ている。視線を見取り図に戻す。
「まあ、手がかりはあるかもしれませんね」
レオが言い添えると、アランは決めたらしい。
「本当に貯蔵室があるか見てみよう」
その言葉に陣形を組む。レオは前衛だが、廊下に天使がいなかったら後ろに下がって欲しいと言われた。奇襲に備えるためだ。頭が鈍く痛む。アランとカルロス、エマの話し声が遠くに聞こえる。その遠さは、感覚の違いだ。この違いに関して考えすぎないようにする。まだ廊下に出ていないのに息苦しさが増した気がした。それでも了承する。アランが判断したなら、それがこの場の最善なのだ。仮に違ったとしても最善にしなければならない。肝に銘じ直す。
悪魔が詠唱する。鍵が開く音が鳴る。壁と扉が薄く、頼りなくなった気がした。
その時、壁の向こうで音が鳴った。天使がいるのか。しかし、どれだけ意識しても魔力の動きは感じられない。扉に隔たれているから。ただ、生温かく生き物めいた扉が手に吸い付いている。胃を圧迫される感覚。
「レオ?」
呼びかけたアランを振り仰ぐ。耳が扉に向いている。
「……聞こえました?」
「俺もだ」
問いかけに答えたのはカルロスだ。ということは、アランにも聞こえたのだろう。魔力の音ではない。天使にしては不用心だ。胃が重い。アランが剣の柄を握る。カルロスから痺れるような殺気を感じる。後ろからも、金属が擦れる音がした。悪魔からは何の気配も感じない。扉に当てた手だけが湿っている。思い切って、扉を開ける。
瞬間、腐敗臭が鼻をつく。骨の擦れる音と肉を引きずる音が鈍く鳴る。目の前に、腐りかけた顔面があった。先ほどの屍人が襲いかかってくる。
「な、」
悪魔が息を呑む。腐りかけた指を躱して、その顔面に短剣の切っ先を叩き込む。肉の溶けた顔面がひしゃげた。
その奥で骨の軋む音がして、先ほど無力化された屍人が立ち上がろうとしていた。まだきれいな目が、腐って溶けかけた目が、虚ろな眼窩がこちらを捉える。鳥肌が立った。短剣をきちんと握っているかわからなくなる。屍人が脚を踏み出す音で感覚が戻ってきた。逃げ出しそうになる脚を踏ん張る。
アランは階段に向かわず、書斎の隣の扉を開いた。何の部屋か確認する前になだれ込む。再び、空気が軽くなる。
扉を閉めれば、向こう側から肉がぶつかる音が響いた。その音に、硬い物がぶつかる音と水っぽい音も混じっている。腐りかけた肉や骨の見える皮膚が思い出される。
さっと視線を部屋中に向ける。魔力の流れは、ない。目につくところに罠がある様子もない。
「なんで、呪文は……」
悪魔が呟く。大した距離を走っていないのに、その場にへたりこんでいる。
先ほども1人ひどく息切れをしていたことを考えると、レオと同じく魔力の影響を受けやすいのか。それとも呪文の効果が薄いことに衝撃を受けているのか。
だけど、なぜ呪文の効果が薄いことにそこまで衝撃を受けるのだろうか。
「迷宮だからじゃないのか」
その言葉に、悪魔が顔を上げる。
「迷宮だから?」
「お前の魔力は迷宮の魔力になじんでないだろ」
その言葉に悪魔は何も言い返さない。曖昧な沈黙が落ちる。その沈黙に、なぜか胃の底をあぶられているような感覚を覚える。誰も探索をしない。ただ、悪魔が答えるのを待っている。空気が重みを増した気がする。
「……すみません」
沈黙を破る声はあまりにも小さい。ともすれば扉を叩く音にかき消されそうだった。
「何がだ」
「もっと早くに伝えるべきでした」
その言葉に、沈黙が再び落ちる。先ほどよりも重い沈黙だ。耳鳴りがする。悪魔が息を吸う音が聞こえる。時間にしてほんの数秒。しかしその何倍にも長く感じた。
「私、魔力感知ができないんです」
その言葉に、頬を張られた気がした。思わず天を仰ぐ。染みだらけの天井しか見えない。迷宮に入ってからそう時間は経っていないはずなのに、もう空が恋しい。
ふと、天井の隅に光る物があることに気付いた。何だろう。目を細め、よく見ようとする。暗くてよく分からない。
「できない? でもあなたは天使、悪魔? どっちでもいいや。魔法が使えるんでしょ?」
鋭いエマの声に、視線を戻す。声だけでなく、視線が鋭さを帯びている。
「生まれつきの不具合で」
対する悪魔の声は弱々しい。顔も、心なしか俯いている。
不具合。無機質な響きだ。先ほどの紙を、そこに書かれた言葉を思い出す。死体の処理方法。やはり悪魔と天使は根が同じなのだろうか。どこまでも、冷たいのだろうか。ならば、レオは。
「隠すつもりは、なかったんですけど」
その言葉に、意識が他に流れそうになっていたのを自覚する。エマがため息を吐いた。アランの鼻にも皺が寄っている。カルロスもまた、黙っていた。視線はアランに注がれている。
天使や悪魔は魔力感知ができるのが普通だろう。天使と関わったことが少なくともわかる。レオですらできるのだから。それができないのならば、早めに申告しないのは仲間を害する行為と見られても仕方ない。
「もしかして、迷宮に慣れてないのか」
レオの問いに、悪魔が控えめに頷く。エマが眼を閉じる。アランが、その肩に手を置く。小さな肩がすっぽり隠れた。カルロスはただそれを見ている。再び天を仰ぎたくなる。
重くなった空気を深く吸う。魔力が、心なしか濃くなった




