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地獄に夜明けはこない  作者: 五月雨夕霧
1章 屋敷の迷宮
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1-1.『理の外にて』

 この世界は神に創られた。神は天、地、光、闇、昼、夜、夕、朝、天、陸、海、草、木、太陽、月、星、海の獣、水に群がる全ての動く生き物、鳥、家畜、這う者、地の獣、ヒトに至るまで七日間で創り給い、その全てはヒトによって聖典へと記された。天使と人間の争いとともに。

 レオは世界の始まりを、天使と人間の争いを諳んじることができる。それだけ聖典を読んでいる。その度に、世界の理を外れた自分の輪郭がぼやけるように感じる。父はそう感じるのを望んでいなかっただろう。だけど代わりに何を感じれば良いのかわからない。

 この世界は神に創られた。しかし、この世界にも神の創っていない場所がある。どのような因果か、神の定めた法の通じない場所。神の慈悲が届かない場所。ヒトの業が、悲願が作り上げた場所。

 ヒトはそれを迷宮と呼び、畏れている――。

 そのはずだが。


「あ~、靴が汚れる!」

「しょうがないだろ、黙って歩け」

「まだ着かねえのかよ」

「黙れ」


 同行者のやりとりに、レオはため息をついた。暗い森の中、木漏れ日が仲間たちの上に模様を描く。春の初めだというのに、外套の中は酷く蒸れた。整備されていない獣道のせいで、汗が背筋を伝う。何回目か、汗を拭ったあとレオは思い切って頭巾を外した。目を向ければ、アランもとうにそうしていた。狼の毛皮と耳が外気に晒されている。

 レオは同行者たちとともに迷宮探索の経験を積んできた。いつまでも緊張しているのは自分だけなのだろうか。明るいエマとカルロスの声、それに最低限の言葉を返すアランからは緊張など感じない。前を行く3人の背中は、強張っていない。

 上を見上げて木々を、空を見る。どこまでも澄んだ色が、暖かな光とそれによって生まれた影がレオたちの上に広がっている。

 なぜこんな思いをしながら森の中を進んでいるのか。

 レオの頭に、1週間前のやりとりが過ぎる。




「幽霊屋敷の調査をしてほしい」


 組合(ギルド)組合長(マスター)に呼び出されてそう切り出され、その白く細い指が地図の一点を指し示す。その指先に注意を向け、身を乗り出す。街から離れた森の中を示されていた。


「ここらへんにある屋敷で、近頃肝試しと称して不法侵入する者が多い」


 いつもより低く、平坦な声で組合長はそう言う。伏せられた瞼を縁取る睫毛が、頬に影を落とす。それから一息ついて、組合長は続けた。


「ここに『肝試し』に行ったさる豪商の次男が行方不明だそうだ」


 思わず眉をひそめる。こういった前口上から始まる依頼を、いくつか受けたことがある。


「俺が行くということは、迷宮ですか」

「……依頼主は、直接言わなかったがな」


 恐らく自分は苦虫をかみつぶしたような顔をしていることだろう。しかし組合長はそれを指摘できない。自身も似たような顔をしているからだ。

 組合長はレオを迷宮探索に呼ぶ度、こういった顔をする。いや、その度にかみつぶす苦虫の量が増えているような気さえする。


「行ってくれるか?」


 いつもより一段と低い声で投げかけられた質問に沈黙する。過去の迷宮の景色が頭を巡る。景色が変わっているのかいないのかわからない浜辺。いやに湿っていて、脚を滑らせないか肝を冷やした鍾乳洞。組合長の視線は、レオを見ているようで見ていない。恐らく、レオの入ってきた扉を見ているのだろう。古くて、開け閉てする度軋む扉だ。今すぐ扉が軋めばいい。そうすれば、返答を遅れさせることができる。

 組合長はきっと、いいえと言えば眉間の皺を緩めて、ほんの少し柔らかな声で「そうか」と返すだろう。そんなことはわかっている。しかし自分が行かなければ仲間の危険度が跳ね上がる。それもわかっている。用意された答えは実質1つだった。




 そしてレオはここにいる。わずか1週間で移動と下調べを終えて。

 会話以外の音に意識を向ける。森の中は静かだ。葉の擦れる音、踏んだ枝の折れる音。しかし小鳥のさえずりや動物の鳴き声はない。気配すらない。レオたちしかいない。エマとカルロス、アランの声だけが響く。それらが意味するところを考えないために数少ない音に耳を澄ませ、別の感覚にも意識を向ける。踏みしめた地面が柔らかい。


「はい、とうちゃ~く」


 エマの幼い声が高く響く。

 暗さに慣れた目を光が白く焼く。思わず手を目の前にかざした。数秒きつく眼を瞑って、恐る恐る開ける。横を見れば、アランもカルロスも眼をしばたたかせている。

 2階建ての、石造りの屋敷が麗らかな陽光に照らされ、壁が光っている。瀟洒な建物は何の変哲もない。ただ、沈黙の中に建っている。木々が風に揺られる音だけが耳に届く。


「確か、男爵がここを手放したのは8年前だったか」

「うん」


 レオが屋敷を見ている横でアランは眼をしっかりと開き、エマを見ている。アランの声は平坦で、ただの事実確認だ。エマの声も、いつも通りだ。いつも通りに弾んでいて、柔らかで、幼い。


「鍵は?」

「開いてるとは思うよ。まあ、借りてきたけど」

「本当に借りてきたんだろうな」


 その問に、エマはただ笑みを浮かべる。無垢な少女の笑みだ。しかし幾度となく迷宮探索を共に行ってきたから分かる。

 盗ってきたんだろうな。

 アランも同じ考えらしい。ため息を吐く。


「まあ、いい。」


 アランは力なくそう言った。エマはそれに答えない。ただ、笑みを深めるだけだ。彼女から鍵を受け取ると、2人に――迷宮探索の任務を負った組員に一瞥をくれた。


「俺たちの任務は豪商の息子の捜索、可能なら迷宮の攻略だ。ただし人命優先。生きて成果を持ち帰ろう」


 任務と方針の最終確認だ。方針はいつも変わらない。人命優先。それが誰の方針なのか、レオは知らない。それでも迷わず返事をする。


「はい」

「おう」

「了解」


 この場にいる誰もが、帰りたいと考えているはずだった。いや、カルロスはそんなことを考えていないのだろうか。ただ槍斧を逆手に持ち直している。どちらにせよ誰も表情には出さず、強いて腹を括り直す。

 アランは剣を握り、レオに道を譲った。


「頼んだ」

「はい」


 毎回、自分が先頭を任される。その度に心臓が縮こまる。しかしそれが自分の役割なのだ。槍を握り直し、扉に手をかける。まだ、作られて長くは経っていない扉だ。木材なのに、妙に柔く温かい。そして、手に吸い付くような感触。異常。それでも空気は正常だ。先ほど決めたはずの覚悟が一瞬ぐらつく。エマとアランの、あるいはカルロスの覚悟がぐらつく理由を引き受けただけで、先陣を切ってよかったと思う自分と、ぐらついた自分が悲鳴を上げている。この扉を開けて、中が魔力に充ち満ちていたらどうすればいいのだろう。そうなっているかどうかをレオは知ることができない。扉を開けなければ。

 耳の奥に、組合長の声がいくつも響く。一緒に来るか。行ってくれるか。判断はレオに委ねられているようで、答えはいつも1つだと知っている。自分を殴る母の手と、蔑むような目線に学んできた。唯一の、正しい答えを選ばなければ自分は生きていけないのだと。

 沈黙が肩の、頭の上にのしかかる。3人が、レオが扉を開けるのを待っている。急かしもしないで、開けるのが当然のように。一体何秒経ったのだろう。何分、何時間も経った気がする。それでもまだ扉は開かない。レオが開けていないから。覚悟を決める。

 一呼吸して、開ける。埃と黴の臭い、そして何か甘ったるい匂いが微かにした。息が浅くなる。屋敷の壁に阻まれて、森のざわめきは聞こえない。静けさに耳を刺されているように感じる。


「さて、どうだ」


 アランに促されて意識を集中する。何の変哲もない――レオが知っている屋敷は数少ないが――玄関広間だ。肌を撫でる空気は冷たい。あちこちに目を向ける。隅に埃が溜まっている。だけど、飾り棚には積もっていない気がする。また、沈黙。3人が待っている。レオが判断するのを。喉が締め付けられるようだ。鼓動が跳ねる。浅くなった呼吸を深めようとして、やはり匂いが鼻に、脳に、肺にまとわりつく。白い敷布が、頭の奥にちらつく。冷たく乾いた手が、レオの手を包む。幻覚だ。そんなことはわかっている。今気にすべきは現実の異変だ。あるかもわからない異変。首を振る。


「今のところ、目立つ異常はありません」

「でも、中はきれいだよねぇ」


 エマが玄関に視線を走らせる。2つに結われた桃色の髪が揺れる。異常があるのに、異常と言い切れないこの状況に、眼を細める。アランも顔をしかめている。もしかしたらそれは、アランにとって埃と黴の臭いは耐えがたいからなのかもしれないが。組合長が煙草を吸おうと火を付けて、下がったアランの耳を思い出す。それを見て組合長が一瞬で煙草をもみ消したことを。だけど埃と黴をもみ消すわけにはいかない。レオたちは掃除夫じゃないのだ。

 カルロスだけが平然としている。何かを確かめるように腕を伸ばしている。

 エマの言葉にうなずく。


「なりかけているのかもしれないな」

「じゃあ、尚更気をつけないと」


 迷宮は、できる最中に一番ヒトを喰う。安定のために魔力が必要となるからだ。

 研究ではなく、先人たちの経験則によってわかったこと。それがわかるまでに一体何人が死んだのだろう。何人が、取り返しようのない傷を負っただろう。だから、アランたちの言葉は重い。その重みが胃の腑にのしかかる。空気中の魔力が、重みを増した気がする。粘度も湿度もあるのに、重みまで加わってどうしろと言うのだ。3人の表情は変わらない。変わらず異常に眼を細め、埃と黴の臭いに顔を顰めて、何かを確かめている。レオだけが表情を変えているようだ。アランはただこう言った。


「ともかく、異常がないか片っ端から見ていこう」


 屋敷は森の中ある。とはいえ療養用に建てられた建物だから、医師を呼ぶためそこそこの大きさではある。1階中の部屋をくまなく開けて魔力の異常がないかを調べ、豪商の息子を探す。カルロスとエマ、アランが交わす会話にたまに混ざりながら。外向きに解放された空間だからなのか、ひどく整頓されている。――異常、なし。目標もなし。

 いや、あるにはあった。


「なんだこの絵は」


 アランの鼻に皺が寄る。

 屋敷の至る所に、絵が飾られていた。全ての絵に赤毛で緑の眼をした娘が描かれている。幼い姿が、あるいは年頃の姿が応接間に、厨房に、使用人室に、倉庫に、用途の分からない小部屋に――エマは、医師を呼ぶための部屋じゃないかと予測を口にした――飾られていた。赤ん坊の姿が描かれている物もあった。たまに4、50代の男女が少女に寄り添っている。


「もとの持ち主の絵じゃない?」


 白い指を頬にあてたエマの指摘に眼を瞬かせる。


「噂だけど、男爵夫婦は長く子供に恵まれなかったんだって。」

「……でも、男爵夫婦はこの屋敷を手放したんだよな」

「そう」


 言いざま、エマは食堂を見渡す。大きな食卓と、それを囲む椅子。扉のわきには食器棚が飾られている。どれにも埃よけの布は被せられていない。そして当然のように壁には絵画が。

 いずれ戻ってくるつもりだったのだろうか。しかし、掃除する人物がいないにしては手入れされ続けている。まるで、誰かが今もこの屋敷を使っているような。


「今の持ち主は?」

「一応、男爵の遠縁のヒト。あまり関心がないって言われてたんだけど」


 ならば、やはりこんなに整理されているのは妙ではないか。3人とも同じことに思い至っただろう。それでも、その理由の説明も思いつかない。黙り込んだレオたちに、緑色の視線がいくつも向けられる。ただの絵が向ける視線から重みが伝わる。


「なんにせよ、迷宮になるだけのきな臭さはあるってことか」


 アランの呟きに、エマが肩をすくめる。レオは、そして恐らくはアランもカルロスも彼女の沈黙の重みを知っている。公平な視点を持っていたことで命が何度か助かっているのだ。


「ともかく、2階も調べよう」


 その言葉に緊張が走る。アランもエマも気が進まないようだ。

 2階には、持ち主の私的な部屋があるはずだ。 迷宮が何でできているにせよ、個人の感情が1階よりも色濃く残っている場は危険度が跳ね上がる。

 地下室があるなら、そちらから見たかった。しかし見つからないものは仕方ない。隠し階段があるかもしれないと言いかけたが、「あるかもしれない」ものを優先して探索を遅らせるのは気が引けた。

 屋敷の中はやはり静かだ。話し声と足音がやけに大きく響く。


「気を引き締めよう」


 あえてわかりきったことを口にして、アランが警告する。その言葉を、脳に刻み込む。

 玄関に戻り、階段を、その奥を見つめる。胸がざわつき、足を踏み出す前に立ち止まる。

 一歩、踏みだし――全てが変わった。深海に放り込まれたようだ。なのに鼻は先ほどよりも強い、甘い香りを嗅ぎ分けている。匂いに粘度や湿度があるのなら、それが強まった気がした。


「魔力が、」


 密度を増している。思わず立ち止まり、振り返る。その一言で、微かに歪んで見える2人の顔が強張った。心が沈む。自分と、他のヒトたちの感覚の違いを突きつけられる。

 カルロスの表情は変わらない。経験値の違いだろうか。


「気をつけろ」

「もちろん」


 一拍遅れて、アランとカルロスがレオに並び立つ。その手に片手剣と槍斧を構えるのを見て、気を引き締める。引き返そうと言いたい。口を開きかけ、組合長の言葉を思い出す。

 ――行ってくれるか?

 はいと答えたのは自分だ。過去の迷宮探索も、今の迷宮探索も。あのヒトはただ依頼をこちらに投げるだけ。それ以降のことは、探索者が判断しなければならない。自分の目で見て、鼻で嗅いで、肌で触れて、耳で聞いて――魔力を、感じて。アランはその判断を負っている。そのアランが「気をつけて進め」と言っている。だからレオはそうしなければならない。判断材料を、魔力の異常を伝えながら。深呼吸をして先ほどまでよりゆっくりと、進む。階段が長く、急に感じる。足音が大きく響く。同行者たちの気配が、やけに濃い。

 そして2階に踏み出そうとした途端に、魔力が迸る。


「伏せて!」


 反射的に叫び、身を伏せる。先ほどまで頭のあった場所に何かが飛んできた。空気が裂ける。肌が粟立つ。


「外したか」


 冷たく、ざらついた声。見遣れば蜥蜴人が1人、無機質な眼でこちらを見て、


「何、仕留め損ねたの」

「ふん、逃げ場はない。ゆっくり追い詰めれば良い」


 何もない空間から更に2人、現れた。魔力で空気が軋み、肺を圧迫する。明らかな敵意の混ざった気配。時間が、引き延ばされた気がする。

 遠ざかる足音が耳に届き、意識が引き戻される。エマが、退路の確保に向かったのだろう。考える前に階段から飛び出す。即座に空気がうねる。レオに、危害を加えようとする意識が空気から伝わる。体を捻って飛んできた氷を躱す。

 その後も飛んできた氷を、水を、炎を躱して、躱して、躱して蜥蜴人に接近、槍を突き出す。肩に穂先が触れる直前、見えない壁に阻まれる。石のように固い。空気が実体化しているようだ。


「ちっ!」


 思わず舌打ちをする。


「空気は重みを持っている」


 降ってきた声に飛びすさる。頭上から別の魔力が降ってきて、立っていた場所がレオの爪先の前でえぐれる。


「伏せろ!」


 叫びに従い、身を低くする。瞬間、頭上を何かが通過する。蜥蜴人の悲鳴が上がる。

 前を見れば、蜥蜴人が傷を負い、ふらついている。その足もとに、槍斧が落ちている。

 カルロスがレオの脇をすり抜けて傷を負った天使の前に立つ。その蜥蜴人の相手をカルロスに任せて、地面を抉った蜥蜴人に向き直る。


「お前、魔力の感知をしているのか」


 答えない。ここで本当のことを言っては手札が1つ減ってしまう。レオをまじまじと見ていた蜥蜴人の1人が、何かに気付いたように眼を開き叫ぶ。


「兄様、こいつ『悪魔の遺児』じゃない!?」

「じゃあこいつらは『灰の子』と『群れ喰い』か!」


 他の蜥蜴人の声にもう一度舌打ちをしたくなる。自分達の悪名は天使たちにも届いていたらしい。その異名そのものにも、天使に届いていた事実にも胸がささくれ立つ。

 ちらりと横を見ると、アランも見えない壁に阻まれて苦戦している。ついでに、予測不能の攻撃にも手を焼いているようだ。

 せめてアランにも魔力を感知する術があれば。奥歯を噛みしめる。

 カルロスには、まだ余裕がありそうだ。

 その瞬間、一階で扉の開く音がした。エマが退路を確保したのだろう。

 安堵した瞬間、エマの悲鳴が聞こえる。


「何者!?」

「そっちこそ!」


 そして空気のうねり。気を取られた瞬間、詠唱が聞こえる。


「空気よ、押し出せ」


 瞬間、見えない壁に押し出される。

 階段を転がり落ちる、落ちる、落ちる。一階の床に叩きつけられ、息が詰まる。階段が、やけに遠い。眼が眩む。

 退路を確保すべきか。しかし放っておけばアランとカルロスが数で遅れをとってしまう。2人が自分よりも強いことは確かだ。でもそれはあくまで魔法を使わない相手との戦闘の話で、天使相手なら恐らく自分の方が上手く立ち回れるだろう。多対1なら自分もじり貧になるけれど。今は、退路を確保するのが先決だ。腸がねじ切れる思い。

 立ち上がり、見回せばエマと見知らぬ人物が対峙していた。真っ黒な外套、頭巾によって顔は分からない。敵意はない。気配すらも。ただ、そこに立っている。

 その人物は、手に持つ杖をレオに向けた。


「何で……」


 聞き覚えのない声がつぶやいた。しかし、その人物は頭を振る。


「ねじ伏せろ」


 杖の先端に紋様が浮かび上がり魔力の流れが生まれる。恐らくは空気を媒介にして。それを踏み込んで回避、槍を横凪ぎにする。


「防げ」


 瞬間、再び紋様が現れ、空気の塊に防がれる。


「レオ!」


 2階から飛び降りたアランが、後ずさったレオに駆け寄る。


「分が悪い、出直すぞ」

「出直すって、」


 扉は外套の天使の背後だ。振り返れば、階段は蜥蜴人に塞がれている。カルロスが相手取っているものの、さすがに横を通り抜けることはできないだろう。

 どこへ行くべきだ?

 屋敷の中、1階のどこかの部屋。廊下に行く前に、蜥蜴人に襲われるだろう。カルロスが多対1を得意としていると言っても、それは人間相手の話だ。それが天使相手にどれくらい通用するのかわからない。扉を開けるには外套の天使をどうにかしなければならない。蜥蜴人を気にしながら。しかも相手は空気を媒介にした攻撃を放ってきた。いや、恐らく他の眼にも明らかな前兆はあった。あの光る紋様だ。もしあれがアランやエマにも見えているなら、その向きに気をつけて何とか避けることができるかもしれない。しかし、確実とは言えない対策を試す時間と価値があるのかわからない。

 時間が重く、長く感じる。この迷宮に入る前、扉を開ける瞬間を思い出す。また、判断をしなければいけないのだろうか。あの時と同じように、実は選ぶべき答えは1つしかないのだろう。しかしあの時との違いもある。レオがどの答えを選べばいいのかわからないことだ。

 迷う中、アランが一声吠える。撤退の合図だ。もうどうするのか決めたのだろうか。いずれにせよカルロスを置いていく選択肢はない。

 カルロスがアラン同様、1階に飛び降りてくる。蜥蜴人が続く。


「まだ仲間がいたのか」


 続く蜥蜴人の天使の声に困惑する。


「何のことだ」

「とぼけるな」


 短い応酬、にらみ合い……背後には正体不明の敵。動けない。どちらの敵を優先して倒すべきか?静けさが訪れ、誰かの呼吸の音が耳に届く。

 歯噛みするレオの隣で、エマが一歩前に踏み出す。


「眼、閉じて!」


 反射的に従う。瞼の裏が一瞬、白く染まる。


「今のうち、こっちよ!」


 眼を開ければ、蜥蜴人の天使たちが眼を覆い、あるいは膝をついている。だが、それで十分だ。

 エマはなぜか外套の天使の腕を掴んで――他の天使と同じように顔を覆っている――廊下に走り出していた。アランとカルロスもその後を追う。彼女の判断力の高さを買っているのだ。レオも遅れて走り出した。

 手近な扉を開け、飛び込む。食堂だ。後ろ手に閉める。


「あなたたちは、一体……」

「だから、そっちこそ何なのよ」


 目くらましの効果が切れた天使に、エマがそう返す。どうやら完全に不信感や敵意を忘れたわけではないらしい。その間にアランとカルロスと協力して食器棚を倒し、扉を塞ぐ。これで多少時間が稼げるはずだ。飾られていた食器が、棚が倒れた衝撃で割れる。その音が耳につく。たぶん、蜥蜴人の天使たちの耳にも届いているだろう。

 どうせ逃げ込める部屋は限られているのだ。彼らがここに来るのも時間の問題である以上、扉を開けるための時間を稼いだ方がいいはずだ。


「何って、」


 瞬間、天使の輪郭がぶれる。どこからか、青白く光る蝶が現れエマの周りを漂う。精霊だ。わずかに目を見開き手で振り払おうとするエマに、天使は言った。


「私は悪魔。あなたたちの敵ではありません」


 言いざま、天使が、否悪魔が杖を振り上げる。攻撃の媒介になりそうなものはこの部屋のあちこちにある。身構えた3人に、エマと悪魔の間に割って入ったアランとエマを引き寄せるカルロスに、しかし悪魔は言葉をかけなかった。


「扉は閉ざされている。鍵はそこにある。壁は我等を守っている」


 瞬間、カチリと音が鳴った。心なしか、扉と壁が厚く頼もしくなる。

 悪魔は杖を下ろしつつ続ける。


「あなたは魔導師ですね」


 その言葉に、エマの頬が強張る。


「なぜわかったの」

「この子はあなたの中の精霊に惹かれたのかと」


 そう言って天使が指を差し出すと、蝶が指先にとまる。数度羽を開いては閉じて、やがて解けるように消えた。精霊は精霊に惹かれる。聞いたことがある気がする。

 ――エマが、魔導を使ったからじゃないのか。

 浮かんだ思考を遮るように頭巾が傾く。


「そちらの方は、天使の血を引いていますね」


 そちらの方、が自分を指していることはすぐにわかった。今度は誰も、なぜわかったのかを聞かない。圧のある魔力に囲まれて、息が苦しい。でも、この沈黙こそが答えのようなものだ。それはレオもわかっているし、悪魔だってわかっているはずだった。天使にとって、あるいは悪魔にとって沈黙は重みを持つものだから。


「俺たちはギルドのメンバーだ」

「ちょっと、アラン」

「この屋敷で行方不明の人物を探しに来た。お前は何しに来た」


 鋭い声を出すエマは黙殺される。カルロスは静観している。レオは、そのやりとりを聞き流しながら壁に手を当てる。ひんやりとした手触りに、反射的に手を引いた。屋敷の扉とは違った、磨き込まれた氷のような手触り。


「他の迷宮から逃げてきました」


 他の迷宮から。その言葉の意味を考える前に、幼い声が落ちる。


「この迷宮は……」


 呆然と、エマが呟き口をつぐむ。異空間型の迷宮どうしはまれに繋がることがある。あり得ない話ではない。悪魔が肩をすくめる。

 しかし沈黙は落ちない。そんな暇はない。2人の脳が回転しているのが目に見えるようだ。


「つまり、脱出は望めないわけだ」

「攻略しかないってことね」


 同時に同じ結論に達したエマとアランに、悪魔は言葉を返さなかった。繋がった迷宮から下手に脱出しようとして別の迷宮へ迷い込むというのは下手な悪夢より恐ろしい。だから偶然異空間型迷宮に迷い込んだ者は覚悟を決める。死ぬか、死ぬ気で攻略するか、迷宮が繋がっていない可能性に賭けて一か八か脱出するか。目標を達成していない以上、そして迷宮化の可能性を考えて装備を整えてきた以上、迷宮攻略が最善の道のはずだった。だけど、そう思わない人物が1人いたらしい。


「あなたは?」

「え、」

「あなたは、どうしたい?」


 視界いっぱいに悪魔が入り込む。その面布の向こう側、表情どころか顔立ちすらもわからない。だけどまっすぐこちらを見つめているのだと確信できる、そんな声だった。声が高いのか低いのか、男なのか女なのかもわからないのに、どうしてそのことがわかるのだろう。思考がどうでもいいことに割かれる。

 どうしてレオに聞くのだ、カルロスに聞いてくれと喚きたくなる。だってそれはレオの大切なことだから。レオは大切なことに対して嘘をつけないから。

 だから目を逸らす。問いからも、目の前の悪魔からも。たった1つの答えに飛びつく。


「エマとアランの言うとおりだろう。攻略すべきだ」


 その言葉に、悪魔がため息を漏らす。


「じゃあ、そうしましょう」

「あんたは、それでいいわけ?」


 エマがそう問う。悪魔は友好的だが、根は天使と同じだ。全てを語らず、あるいは印象を歪めるのではないか。レオはその問いにぶつかる度、目の前が僅かに暗くなる。でもレオは何も言えない。そうするよう教わっているのは事実だから。それが、自分にとって有用だから。


「言ったでしょう。あなたたちの敵ではないと」

「でも、味方とも言ってない」


 アランは何も言わず、ただ剣帯を締め直す。カルロスは眼を閉じている。精神を統一しているのだろう。


「ま、あなたたちのこともよく知りませんから。でも、ここから出るという利害は一致している」


 その言葉にエマが黙り込む。アランが割って入る。


「何にせよ、ここに閉じこもっていても仕方がない。一度出るぞ。レオとカルロスと俺で前衛、エマとお前が後衛だ」


 言われた通りに陣形を組む。


「防壁を張りましょうか」

「いや、必要だと思ったときに張ってくれ。何が起こるかわからないから」

「承知しました」


 何が起こるかわからない。その言葉に手が震える。心臓がうるさい。耳に直接音を叩き込まれているようだ。吸いたくもない、甘ったるい魔力の充満した空気を深く吸って、手の震えを落ち着けようとする。ちらりとアランを見上げれば、表情が硬い。それでも視線は揺らいでいなかった。あえて後ろを振り返るようなことはしない。自分の迷いを、表に出さないだけの分別はあるつもりだ。


「道を開け」


 短い詠唱で、食器棚が元の位置に戻る。扉の奥には、気配が複数。だけど音は聞こえない。静まりかえっている。


「さあ、行くぞ」


 アランのかけ声で、悪魔が詠唱する。


「扉は開かれる。鍵はそこにない。壁の守りは解かれる」


 瞬間、扉と壁に浮かんだ紋様が解けて消える。そこから感じた魔力が消える。それでレオは慎重に扉を開け、絶句した。

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