ある人生の終章、あるいは長い歴史の序章
女の知覚の一切は、今まさに喪われようとしていた。
軽い衝撃が腹に加わる。そこに、熱が灯る。見れば、刃物が生えていた。目を見開く。熱が傷口から全身を巡る。刃物が抜かれ、傷口の上を蹴り飛ばされた。
「ぐぅ、」
口から空気ともうめき声ともとれない音が漏れた。先ほどよりも大きな衝撃が体全体に伝わる。バタバタと足音が四人分、遠ざかっていく。
「ま、て」
声を出したものの、届きはしなかった。あるいは、届いたけれども従う気はなかったのか。扉を開け閉てする音がやけに大きく響く。真夜中、家の中で不審な物音がするから見に来ただけなのに。いっそ見に来なければよかった。
喉が震えて、空気が漏れる。2度、3度と試みる。
「助けて」
そうして出た声は、自分のものだと思えないほど弱々しい。
見慣れた床がやけに眼に近い。頬に当たる、冷たく固い感触に、自分が倒れたことを知る。立ち上がろうとするも、脚に力が入らない。脚どころか手を付くことすら叶わなかった。なすすべもなく床に横たわるしかない。
自分の呼吸音が、鼓動の音が耳の奥に響く。埃とわずかな黴の臭いが床に近い鼻をつく。そういった感覚が自身の腹から体液と共にとろとろと流れ出す、その自覚すら冬の寒さに融けていく。
自分は、死ぬのだ。
千々に分散し、ぼやける思考が冷静にくだした結論も例外でなく、次の瞬間には霧散した。
寒い、寒い、さむい、さみしい。
指先を動かすどころか瞬きすらままならない。一度閉じられた目蓋は持ち上がらなかった。
「助けて欲しいか」
唐突に声が響いた。耳にではない。頭の奥を声で撫でられたようだ。ここには誰もいないはずなのに。そうだ、誰もいない。女の親も、友人も、金と命を奪っていった男達さえここには来ない。暗く、孤独な世界への感想も粉々で、感情も徐々に形を失っていく。声は未だに何かを続けているようだが、何を言っているのか理解できない。脳が知らない声だと知らせて緩やかに役目を放棄する。
「まだ、生きることを望むか」
ただ、その言葉のみがやけに鮮明に届いた。
その瞬間、女の身体は知覚を取り戻した。
固い床の感触、空を切って掌に突き刺さる指先、着慣れた服の慣れない重み、血で塞がれた喉の息苦しさ、舌に広がる血の味、肌を刺す寒さと何よりも腹の痛み。その熱さ。
死への圧倒的な恐怖。
痛切に湧き上がる願望に、声を上げたくなる。息を吸おうとした瞬間、噎んで口から血塊が溢れた。
「ならば祈れ。力を欲せ。救済を求めよ。さすれば第二の命がそなたに与えられよう」
耳鳴りを飛び越えて声が命じる。女は従順に従った。掌を握りしめ、救いを求める。
徐々に、感覚に変化が訪れた。息苦しさが減り、呼吸が鎮まり、腹の熱さは引いて悴む寒さもどこかへ退いた。
「目覚めろ」
何かが砕ける、音がした。
重たかった目蓋はすんなりと開いた。そして瞳を刺す、清らかな月光。
そして女は、第二の身体を手に入れた。




