11話 俺のリベンジマッチ
窓からは明るすぎるほどの日差しが街を照り付けているのが見えた。なのにここは、少しだけ薄暗い。
「ごめんね。なんか、最後までちゃんとした保護者役をできていたら良かったんだけど、あんまりうまくいかなくて」
奈々さんの声が揺れている。別に俺はそんなこと考えたことは一度もない。
ただ、なんとなしに窓の外を見る。別に理由なんて、ないんだけど。
頭の中に焼きついた"あの"表情をどうにか打ち消したくて、そんな顔なんて見たくなくて、どうにか言うべき言葉を選ぶ。
「……母さんが、お手伝いさんをお願いしたって、そう言ってました。俺はもう中学生で、それなりに自分のことは自分でやれますけど、俺にできないことを手伝ってもらうためにです」
実際のところ、俺は洗濯機の使い方を知らないし、掃除だって何がどこにあるか分かっていないから、自分の部屋でいっぱいいっぱいになったと思う。料理だって味噌汁と炊飯器の使い方くらいしか知らない。カップ麺尽くしになってまともな肉体を作るどころではなかったはず。それに勉強だって教えてもらった。根気強く付き合ってくれたし、分かりやすいように視点を変えて理解できるように工夫だってしてくれた。
「どれもこれも、ちゃんとしてない人にはできないことです。奈々さんは俺にとって最高のお手伝いさんです。頼れる保護者であり続けました。今だって、そうです。奈々さんがそれを違うって思うのは勝手ですけど、俺だって勝手にそうだって思います」
奈々さんがこっちを見た、ような気がする。そっぽを向いているせいで分からないけど。
「そんな人が、大学に行くのに足が止まってしまうなら、それは理由があってのことだと思います。つまり、休みが必要だったんです」
「……動くのが怖くなったいだけ、かもしれないのに?」
「なら背中を押してあげます。奈々さんに、俺がしてもらったように。優しく突き飛ばしてあげますよ」
「私、突き飛ばしてた?」
「俺のタイミングを一切無視して押してました」
その言葉を境にして部屋が静かになる。もう夕ご飯前だというのに、外はまだ明るい。影が増えてきて暑さがマシになったせいか、セミが鳴き始めるのが聞こえてきた。
「ね、もうこっち向いていいよ。ありがとうね」
別に外を見たくなっただけで礼を言われるようなことは何にもしてない。けど、念のためにちらりと奈々さんの様子を伺う。とりあえず、大丈夫そうだ。改めて向き直ると、やはり目元が少しだけ赤くなっていた。いや、別に俺は何にも見ていないけどね。
「ね、お願いがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」
「……腕相撲で、俺に勝ったら聞いてあげます」
「えー、そこは普通に聞いてくれるところじゃないの?」
「甘やかすとためにならないって誰かに聞きましたから」
「厳しい人間もいたものだね、全く」
その張本人が憤慨している。これは、本気か冗談かも分からない。本気かな?
「まあいいか。願いは勝ち取るものだよね。さあ、もう一度、勝たせてもらうよ?」
「それは無理です。あれから俺もさらに鍛えましたから」
実際俺はしっかりご飯を食べて筋トレもしてプロテインも飲んでいる。まだまだハードなトレーニングはできないけど、出来る範囲で鍛えているのだ。男子三日を……三日見なければ──よく見よ? まあいいか。大事なのは、初めて組んだ腕相撲の時とは、違うのだ。もうすでに別人のような強さを持っているのだ、俺は。
机に肘をつき、深呼吸をする。奈々さんと手を握り合い、出来る限り力を抜く。開始直後に全力を出すためにだ。こういう時が来るだろうから、友達と腕相撲大会だってやった。力と技は身についている。
カウントが始まる。ならあとは、タイミングだ。
さん,に,いち、ゼロッ!!
腕相撲で一番大事なのはいかに開始直後に力を叩き込めるかだ。人間の腕は一度抑え込まれたらひっくり返すためには相当な力がいる。奈々さんに俺が負けた時のように。今、開始一秒にすべてをかけた俺の戦略が当たり、奈々さんの腕を抑えて優位に立っている。もちろん油断はできない。でも、培われた筋肉が奈々さんの反撃を抑え込んでいる。
俺は成長している。今この瞬間だって! 全力を振り絞り、腕に力を込める。じりじりと俺の腕が、奈々さんの手の甲が、テーブルに近づいていく。そしてぴとりと触れた。
「俺の、勝ちです」
「……驚いた。あの時と全然違ってた。本当に強くなったんだねぇ……」
「ええ。俺は成長期ですから」
めっちゃうれしくて、跳ねまわりたい気分はある。リベンジ達成と吠えたい気もしている。でも、先にやるべきことがある。
「俺が勝ったので、まずは俺のお願いを聞いてもらうことになります。奈々さんのお願いを聞くのはその後です」
「うう、悔しいけど仕方ないなぁ……。あまり無理なお願いでなければいいんだけど」
「大丈夫です。簡単なことなので」
これを言うのは少し恥ずかしい。わざとらしいし、押し付けがましい。木崎にはとても見せられない、そんな俺の一世一代のカッコつけだ。
「俺は将来逞しいインテリマッチョになります。だから当然進学だってするつもりです。なので、参考のために奈々さんの大学を案内してください。このお願いは、叶えられそうですか?」
ぱちぱちと、奈々さんがその大きな目を瞬かせている。そして、ふふふとお腹の底から響くような笑いがたちまち奈々さんを大笑いさせる。先ほどまでのじめっとした俺の見たくない笑顔ではない。秋の晴れた日のような、からっからの気持ちいい風のような清々しい笑顔だ。流石に手を叩いたり机に突っ伏するまで笑われるとは思わなかったけど。
「あー、ああもうおっかしい! キミ! いつからそんなこと覚えたのさ?」
俺はちょっとむくれている。そうなるとは思ってたけど、そこまで笑われると流石に傷つく。
「奈々さんには借りがありますから、そう言ったのに……」
「ごめんごめんて! ほら、機嫌なおして? ね、行くよ。行くから。案内するし、私の友達も紹介してあげる! 私からもお願いするからさ、一緒に行こ?」
***
次の日。朝の9時だ。この間お邪魔した奈々さんのマンション、その入り口にいる。スマホを見ながら時間を確認し、9時ちょうどに奈々さんの部屋番号を入力する。ぴんぽーんとハイテクなマンションらしからぬチープな音が鳴って、すぐに奈々さんの声が聞こえてくる。
「おはよう。悪いんだけど、部屋まで上がってきてもらっていい?」
多分そうなる気はしていた。だから特に何も言わずにマンションへ入り、奈々さんの部屋に向かう。1人きりのエレベーターで少しだけ考える。
学校に行けなくなってしまったという奈々さん。行かないとならないと、行くべきだと思っている。なのに足が動かない。それを嘘だと思わない。心と体は時々別の動きをするって、それは俺にとって当たり前のことだ。朝起きなきゃならないのに、もう少しだけ寝ていたい。結局二度寝して遅刻。よくあることだ。宿題しないといけないのに、ついテレビを見てしまう。普通のことだ。問題は、奈々さんがそれを許していないことなのかなと思う。
ドアのインターホンを鳴らせばすぐに奈々さんが俺を迎え入れてくれる。すでに外着に着替えているし、いつでも出かけられそうな状態だ。
「ええと、お茶、お茶飲む? 淹れようか?」
これはダメかもしれない。今、奈々さんは全力で出発を遅らせようとしている。自分でも自覚があるんだろうな、目線があちこちに動いている。顔色も少し青い。きっとよくないと思いつつ、どうしても動き出せないのだ。
パタパタとスリッパを鳴らして動き回る奈々さん。普段俺の家で段取りよく進めるそれとは違って、まるで別人のようにモタモタとお湯を沸かしたりカップを出してはしまったりしている。
***
実は昨日、木崎とこのことについて話した。俺の感覚はあまり頼りにならないと思ったからだ。心と体がチグハグになっている人を、どう助けてあげればいいのかって。そう聴いてみた。その時のやり取りを俺は思い出す。
「学校に行かないといけなくて、行けない理由はいじめとか、そういう深刻なものじゃないんだよね?」
「うん。行けば楽しいんだけど、足が動かないんだってそう聞いてる」
「じゃあ、壁になったらいいんじゃないかな? ずっと後ろにいるの。下がれないように」
「無理矢理引っ張っていくのと何が違うの?」
「力ずくになっちゃうでしょ、それじゃ。そうじゃなくて、後ろに下がるのだけ禁止すれば前に進むしかないでしょ? その場にいるか、前に進むか、本人が選ぶことができるっていうのが大事なの。ずっと引っ張っては行けないんだから」
「やれることを思い出させる、みたいなこと?」
「うん。私はそれがいいと思う。陽真くん、得意でしょ?」
「……やってみるよ。ありがとう」
電話口に聞こえる声は少しいつもと違うように聞こえていた。でもスマホに映る木崎の顔はいつも通りだった。それがとても頼もしくて、俺は自分がどれだけうろたえていたかを知った。俺にとって尊敬する人である、立派な大人の奈々さんが見せた弱さに、心底動揺していたのだ。
でも木崎の声を聞いて、それをようやく自覚して、落ち着いた。やっぱり、電話をしてよかったと、そう思った。その話をしている間、木崎は何故かちょっと口をとがらせていたけど、俺が気持ちを素直に伝えたら得意げな顔にすぐ変わった。
木崎との電話で出た結論は一つ。俺は奈々さんにとっての壁になるのだ。
***
奈々さんは出来る人だ。それは勉強や家事に限らない。俺のつたない励ましであろうと、その真意だって読み取れる人だ。だから俺は心配しない。木崎のお墨付きのある俺と、俺のお墨付きのある奈々さん。二人そろえば動かない足だって慌てて走り出すに違いないのだから。
だから、俺は身じろぎ一つしない壁になる。奈々さんが寄りかかってもびくともしない、そんな優しい壁になる。一歩も後戻りは許さない厳しい壁になる。いつまでだって踏み出すのを待てるくらい丈夫な壁になる。
大丈夫、だってそのために俺は鍛えてきたんだからね。
次話、最終回です。




