9 心を照らす月明かり
あの村を離れてから二日。
私は食事も満足にとれずにいた。肉は見るのも駄目な状態で、皆と一緒には食事せずに、テントの中でクリームを挟んだパンやポタージュを僅かばかり口に入れて飲み下すのがやっとだった。
今日の夕食はようやく皆と席を並べることはできたけれど、相変わらずあまり喉を通らず、ノクスが作ってくれたカナッペのようなものを幾つかつまんだだけで、もう後は野菜ジュースだけを飲んだ。
いつまでもこんなことでは駄目だとどうにか笑みを作って会話をしてみたものの、皆の気遣わしげな視線と相まっていたたまれなくなり、早々に自分のテントに戻った。
前に進まなくてはいけない。瘴気を祓い、魔王を封印しなければ、ああいう目にあう人たちが増え続けていく。
でも、怖い。
手で顔を覆いぎゅっと目を瞑った途端あの光景が瞼の裏に蘇り、慌てて目を開く。
「ミア。まだ起きていますか?」
外から遠慮がちにリエルの声がする。
顔を出すと、暗く冷たい夜気を煌々とたき火が照らしていた。
「みんなは?」
「テントで休んでいますよ。お茶を入れたので、よかったらここで少し暖まりながら話しませんか」
テントの中は、サヴィが魔法で作ってくれたカイロのような石──陽光石で暖められていたから寒くはなかったけれど、こうして出てくるとやはり冬も盛りだと思い出すキンと張り詰めた空気だ。
促されるままたき火の前に置かれた丸太に腰をおろし、爽やかな柑橘の香りのお茶に口をつけると少しは心の中にもやもやと凝った何かが幾分洗われていく心地がした。
ノクスとサヴィはもう寝ているのか、それぞれのテントは立ち動く気配もない。
野営の日は、男性陣は交代で火の番をしながら魔物の襲来に備える。今はリエルがその当番なんだろう。
「申し訳ありません」
斜め向かいに腰を下ろしていたリエルが、カップに視線を落としながらぽつりと口にした。
「え?」
「私自身、魔王討伐については王家に残る書物で知るのみで、あれほど凄惨なものとは……理解が足りませんでした。本来であれば貴女のようなレディをお連れしていいはずもなかった。……申し訳ありませんでした」
「そ、それはしょうがないよ! だってほら、私は聖女なんだし! それよりも私がもっと早く力を使えるようになって、すぐに出発できていたら、そしたら……死ななくていい人たちがたくさん死なないでよかったんじゃ、ないかな、って」
語尾が震える。喉にせり上がってくる重たい気持を飲み込みながらそう言うと、翡翠の瞳がこちらに向いた。
「それはっ、……それはミアの責任ではありません。異世界から招かれた聖女が力を発動できるようになるまでに時間がかかるのは当たり前だとサヴィも言っていたではないですか」
「そうかも、しれないけれど」
「本当は、もういいですよと言って差し上げたいのです。貴女が危険な場に赴かなくても、こんな風に、傷つかなくもいいのだと」
「リエル……」
「けれど、多くの民……この世界の未来のためには、ミア、貴女しかいないのです。私たちが必ず貴女をお守りします。ですからっ、ですから、どうか……この先も、共に進んでいただけないでしょうか」
森の中からはフクロウのような鳴き声が響く。梢の葉ずれの音が聞こえるほどに静かな空気の中で、真摯な眼差しがまっすぐに向けられる。
「そん、なの……そんなの当たり前だよ。だって、私は聖女なんだから」
「ありがとうございます」
「むしろ、私が至らないから……今日のあの話しだって私がこんな風に足手まといでなければ」
「足手まといなどっ」
あの村で瘴気を祓った後、補給のため隣村へと立ち寄った私たちはひとつの噂を耳にした。
近くの岩山の小さな集落に魔物が現れているらしい、と。
ただ、その岩山は険しく、少ない住民は滅多に山を下りてこないことから、正しい
情報は不明なものの、夜、遠目にその集落があやしい紫の光に包まれているのを何人かが目撃しており、瘴気の影響を受けていることに間違いはないのではないか、というのがリエルたちの見解だった。
ただ、その集落まで祓いに行くための道のりと、犠牲になるであろう住民の人数とを秤に掛けて、少しでも早く魔王を祓うために進むことを選択した。
サヴィの魔法でのサポートを考えても、山道を登っていくのは私の足では難しく、日数を要するのでははないかという判断だ。つまりは、その集落は見捨てることにした。
「ううん。あの岩山の集落で、今も酷い目にあっている人がいるかもしれないのに、私がこんなだから……」
「まさかっ、それはミアのせいではありません。この選択をしたのは、私です。私が、そう決断しただけのことです」
そう言って微笑むリエルの目は、とても寂しそうに見えた。
「でも、たとえばリエルたち三人だけだったら、あの岩山にだって上っていけたでしょう?」
「たとえ貴女がいなくても、あそこにたどり着くには丸一日はかかる。村の者たちの話しでは、あの集落にいるのは数十人に満たない。ならば、進んだほうがいいと思いました。……見捨てることを選んだと、軽蔑しますか?」
「そんなことっ、そんなこと、ないよ」
「どれだけ力を尽くそうとも、どうしても手からこぼれ落ちてしまう命がある。……こんな時、王族という身分があったところで、どうにもならない」
「リエル……」
「せめて万が一……万が一にも生き残っている人々がいれば救助できる道筋はたてました。だから、ミア、そんなに悲しそうな顔をしないでください」
遠慮がちの伸ばされた手が、私の頬をそっと撫でる。温かな掌に少しホッとしながら「私、がんばるね」と小さく呟く。
「貴女は充分頑張ってくださっていますよ。こんなに細い手で……」
頬に添えられた手が離れ、私の指先を捉えた。その指先を小さく握り返す。
「この手が、貴女こそが私たちの希望です。けれど、貴女にだけその重責を背負わせたいわけでもありません。貴女は既に充分すぎるほど力を尽くしてくださっているのだから」
世界を救う。その重さを、彼は、彼だけは同じくらいの比重で理解してくれていると感じて、胸がぎゅっと苦しくなった。
「実は、聖女召喚の儀で貴女が現れた時、間違いではないのかと思ったのです」
「えっ……」
「聖女は神々しく、高潔で、たとえ王族と言えども触れることなど許さない女神のような方だという伝承もあったので」
期待を裏切ってすみませんでしたと謝るべきなのか、呼び出しておいてと怒るべきなのか、言葉に迷っていると、リエルは口の端を引き上げて、悪戯げに目を細める。
「あまりに可愛らしい方が現れて、本当に戸惑いました。同時に、そんな貴女を危険な場へとお連れしなくてはいけないことに胸が痛みました」
リップサービスだよね、と冷静に考えている自分がいる。けれども、トクントクンと胸は高鳴った。
「ミア、始め貴女は守らねばならない聖女でした。けれど今は、他の誰でもなく私が貴女を守りたいと……」
「……ッくしゅっ」
雰囲気ぶち壊した、とつい真っ先にそんなことを考えながら上目遣いにリエルを見ると、クスりと笑った彼は「申し訳ありません」とあまり申し訳なさそうに見えない顔で言う。
「寒空の下、レディに長話に付き合わせるとは……テントに戻るよう言うべきなのかもしれませんが、よろしければこちらに座りませんか?」と自身の丸太、傍らをトントンと叩いて示した。
促されるまま拳ふたつ分は離れた場所に腰をおろすと、「失礼します」と腕がふれる距離へと座り直した彼は、自分のマントで私を包む。
ひとつの毛布を分け合うように、彼のマントの中に包まれると、そこは確かに暖かく、同時にひどく落ち着かない気持になる。
「寒くありませんか?」
「う、はいっ」」
「ふふ、……ミア、ありがとうございます。この世界に、私のもとに来てくださって」
「……」
「前代の聖女を召喚した王太子の気持ちが今ならよくわかります」
「どういうこと?」
「封印の儀を終えたあと、当時の王太子は聖女にこの世界に残ってほしいと懇願したとか。けれど高潔な聖女は、迷いなく元の世界に戻ってしまったそうです。貴女も……いつか帰ってしまうのですね……」
「それは……」
帰る。帰りたい。当然のことだ。この世界にあるものよりも多くのものが、あちらにはある。家も、家族も、友達も。思い出のすべてがあるのは、自分が生まれた世界なのだから。
「申し訳ありません。貴女を困らせたいわけでもないのです。本来交わるはずもなかった世界の隔たりを越え、今こうして傍らにあれる、それがどれほどの僥倖か」
「リエル」
「どうぞ貴女がこの世界にある最後の日まで、誰よりも近くで貴女を守る栄誉を、それだけを認めてくだされば、私は……」
異性と付き合ったことがないわけではないけれど、こんな風に特別丁寧に扱われたことはない。もっとも聖女というのは特別なんだろうけれど。
でも今この瞬間、彼の目にうつるのは聖女ではなく、たしかに『私』のように感じてしまう。
それからは、お互いが子どもだった頃の話しや、私の家族の話し、彼の妹同然の幼なじみのことなどを話し続けた。
「それじゃあ魔王を封印したら、その人は目を覚ますの?」
「どうでしょう。元々体が弱く、ほとんどを寝台で過ごし続けた子ですから、それだけで元気になるともいえないでしょうね」
「そうなんだ……よくなるといいね」
「ええ。でも今は誰より貴女のことが心配です。私の立場で言えた話しでもないですが、どうぞ無理をなさらず、辛い時にはそうおっしゃってくださいね」
「……ありがとう。私はほら、健康優良児だから」
「貴女が? もう少し太ったほうがいいくらいですよ。今のままでは魔物どころか風にも飛ばされかねない」
「さすがにそれはないよ」と苦笑すると、笑みを深めたリエルは頷きながら、「どうかどこにも飛んではいかないでください」と微笑んだ。
ほんの少し落ちた沈黙の隙間に、風が吹き抜け、梢が揺れるサワサワとした音とともに、周囲が蒼く照らし出される。導かれるように見上げた夜空には、雲が流れ、蒼銀色の月が輝いていた。
「ああ、今夜は月が綺麗ですね」
「ホント。綺麗だね」
「ええ」
この世界でも月は満ち欠けを繰り返す。
少しの間、ふたり黙って月に見入っていたけれど、流れてきた雲が黒く覆い、月は再び隠れてしまった。
たき火の赤だけが闇を照らし、炎の中で薪がはぜる音が響く。
目を閉じても、心に焼き付いた残酷な光景はなくならない。胸苦しさも、足をすくませるような恐れも。
明かりの届かない先、闇の深さに膨らみそうになる不安感を、ゆるく息を吐いてやり過ごす。
少なくとも、私はひとりではない。そう思えるのが救いだった。
「……リエル、ありがとう」
リエルは何も答えなかったけれど、私の肩を抱く手に少しだけ力がこもったような気がした。
魔王を討伐したのは、この夜からおよそ四ヶ月後のことだった。
読んで下さってありがとうございます!
次回はようやく封印の部屋へ──