6 落ちてきた聖女と面倒な運命 side-Noxion
全32話 完結まで毎日更新します!
面倒なことになった、と思った。
だがそれすらも、その後の出来事に比べれば、ほんの始まりに過ぎなかった。
その日は七月最後の木曜日だった。
一年で最も長い夜、その夜明けから始まる市は新年を祝う市と同じくらいの賑わいとなる。隣国のヤフェエールで、明日からの六日間はとある言い伝えに伴う祭りが開催されるため、それに参加する商人たちがヤフェエールで稼ぐ前に、ここフェルディリアでもひと稼ぎしていくためだ。
食堂は定休日だし、少し朝寝を楽しんでから市に行こうと思っていたはずが、いつも通りの時刻に目が覚めてしまい、ならば早めに出掛けるかと考えてベッドを抜けだした。
窓の外はまだ明るくなりだしたばかりで蒼暗い。母もいつも通りに起きたようで、階下からは朝食の支度をしているであろう物音がしている。
身仕度を終えて自室を出ようとドアノブに手を伸ばした瞬間、僅かな浮遊感と共に目の前の景色が変わった。
咄嗟に身構えながら降り立った周囲を見回すと、青灰色の祭司服で床に跪く者たちが十五人あまり。帯剣している者はいなそうだと思った瞬間、頭上の空気が震え、それが落ちてくる人間だと認知して抱き留める。
身構えたよりも軽い衝撃で腕の中に落ちてきたのは、女だった。
「な、え、ちょっと、な、なんなんですか!?」
ひどく動揺した様子で身をよじる。このままでは取り落として怪我をさせかねない。
舌を打ちながら下ろしてやり、改めて周囲を窺うも、祭司服の者たちは変わらずこちらを害そうとする様子もない。
肩で切り揃えられた黒髪の少女──それが彼女との最初の出会いだった。
「これはどういうことだ?」
問いを口にのせはしたが、歩み寄ってくる白の祭司服を身に纏う男の襟元を覆う刺繍、ヤフェエールの王族にのみ許された蒼い炎が渦巻いた図案に、事態のおおよそのあたりをつけられた。
「ようこそ、聖女殿。お待ち申し上げておりました」
聖女。
どうやら間違いなさそうだ。
「……ここはヤフェエールか?」
なかば確信しながら低く問えば、「ええ。貴殿は今回の討伐の戦士に選ばれたようだ。光栄に思うといい」などと頷く。
──勘弁してくれ
呻くような呟きは、少女の耳に届いたらしい。黒目を見開いてこちらを一瞥した彼女は「ソラカド ミワ」と名乗った。
この世界ではどの国に生まれ落ちても魔王が世界を滅ぼさんとするとき、ヤフェエールに聖女が現れ世界を救うというお伽噺を寝物語に親から聞かされる。
その話がただのお伽噺でないことは、その一員に選ばれた時、魔王討伐まではいかなる義務をも免除され、家族がある者はその間の収入が補償されること、事を成し遂げた後にはヤフェエールと居住国との両方から報償が与えられ、途中で命を落とすようなことがあれば、その家族が恩賞を受け取れるということがどの国の法にも明記されていることにより証明されている。
そして、報償だけでなく、選ばれた者に拒否権がないこと、それらを周囲に吹聴するのを禁じることもまた記されていた。
しかし、数百年おきに起きるらしい、などと言われるそれは、誰もが「今となってはお伽話と変わらない話」だとも思っていた。
前兆がなかったわけではない。
食堂を訪れる商人たちは、遠方の品だけでなく情報をも運んでくる。
始めは「漁で魚一匹獲れなくなった」とか「今年は異様な不作で、あの国は国庫の備蓄を放出するそうだ」とか、常でも時折起こるような話しだった。
やがて、「森が一夜にして枯れ果てたそうだ」とか「湖が干上がり、黒い砂で埋め尽くされたらしいぞ」という噂が囁かれるようになり、客たちは皆一様にそれを口にするようになっていた。
「これは、魔王復活を顕す凶兆なのではないか」と。
同時にこうも囁き笑い合っていた。家族や自分が聖女か討伐メンバーの一員にでも選ばれれば、むこう十年は遊んで暮らせるな、と。
だが、いくら報酬がよくとも、こちらの都合もお構いなしに拒否権もないものに選ばれ、強制的に命を賭けさせられるなどたまったものではない。
今回のこれは、どうやらその面倒くさいとしか言えないシロモノに選ばれたということらしい。
「私にはこれと言ってその、聖女? そういう力に覚えもないですし、伝説の剣を持っているわけでもなくてですね」
「おお、聖剣フィリカエルスについてはご存じでしたか。さすがですね」
困惑を露わにする『聖女』に、世継ぎの男が両手を己の顔の前に捧げ、何かを呟く。その背後で、魔法師もまた何かを唱えだした。
剣を振るったことがどれほどあるのか。王子の白い掌が淡く光を放ち、金色の大剣があらわれて、その手におさまった。
魔王を封印するには、聖剣の使い手と聖女とが力を合わせて行う必要があるという。ならば、この聖剣に選ばれたのは、王太子なのか、それとも詠唱していた魔法師のほうなのか。いずれにしろ、強制的に同行させられるからには、相応の使い手であってくれと願うしかない。
聖女と呼ばれた女は、動揺がおさまらないままに聖女の役目を果たすことに同意をさせられ、自室となる部屋へと案内されて行った。
あの様子では己が何に同意したのか、正しくは把握していないに違いない。
「さて、君についてだが、まずは名を聞こうか。どこの国の民かな」
リュミリエルが目の前に置かれたティーカップに手を伸ばし、ゆったりと茶を含んで尋ねた。
本来ならば身分ある相手を前に礼をとるべきではある。しかし、急にこんな場所まで連れてこられて、詫びのひとつもなく暢気に名を尋ねてくる相手に、そんなものは不要に思えた。
「ノクシオンだ。ノクシオン・シエル。ノルテリアからだ」
「なるほど。ならばフェルディリアの王に使いを出しておこう。出発は……どう思うサヴィ?」
「そうですね。異国の聖女様が召喚された場合、その力が発現するのに二ヶ月、ないしは三ヶ月ほどのお時間が必要かと思われます」
白髪の魔法師は、台本を読み上げるような流暢さで、およその見立てを述べた。
「だそうだ。ノルテリアならば馬を走らせて五日といったところか……。悪いが君の都合は考慮できない。その代わり、こちらで相応の支度金も用意するし旅の支度も調えておくよ。出発が決まり次第召集をかける。質問があれば、このサヴィに訊くといい。サヴィ、あとは頼んだよ」
「仰せのままに」
頭を下げた魔法師に片手をあげて応えた王子は、「聖女殿の様子を見に行ってくるよ」と部屋を出て行った。
「急なことで大変申し訳ございません、ノクシオン様。念のためお尋ねしますが、
聖女と魔王の討伐についてある程度ご存じでしょうか?」
「……拒否権がないことくらいは知っている。『聖女と聖剣の使い手が、魔王を討つ』だったか」
昔、母が語ってくれた絵本を思い起こして答えると、魔法師は少しホッとしたように顎をひいた。
「それで? 次の召集とやらも今日のように呼びつけるつもりか」
「本日の召喚の儀は、我らの神のご意志によるものです。次にこの城へ起こしいただく際には私がノクシオン様のもとへとお迎えに上がります。そこで転移魔法にて、この国の魔法塔までお連れいたしますのでご安心ください。聖女様のご様子次第にはなりますが、二ヶ月を超えたらもういつ召集がかかってもご対応いただけますよう、ご準備願います」
「わかった」
軽く頷いて応えた魔法師──サヴァイゼは、「それから、こちらを」と再び何か詠唱する。
まだ少年の域を出ない指先に光が灯り、先ほどとは違う簡素な大剣が現れる。
銀色の鞘は少し古びて見えるが、重厚な存在感のある剣だ。
「剣士として召喚されたノクシオン様には、こちらの剣を支給いたします。どうぞ」
恭しく捧げ持った剣を差し出してくる。受け取ると、見た目よりは軽く、そのグリップを強く握ればピリと緊張感が走る気がしたが、手にはよく馴染んだ。
魔王討伐のためか、質のいい武器を用意したらしい。
「……抜いても?」
王城の中で無闇に剣を抜いていいはずもない。駄目で元々と尋ねると、「どうぞ。お確かめください」と促される。
鞘を右手に、慎重に引き抜く。
「──っ」
魔法師が小さく息を呑んだ。目の前で剣を抜かれることには、やはり多少緊張感が走るらしい。戦乱の時代ならばいざ知らず、王城や魔法塔に籠もりがちな魔法師ならば当然ともいえる反応だ。
刀身はややくたびれた印象の鞘とは違い、鈍く光る刃は少なくともナマクラではなさそうだった。
ざっと眺めて鞘に納めると、切っ先が視界から消えたためかサヴァイゼは安堵したように細く息を吐き出した。
「いかがでしょうか?」
「問題ない」
「では、次に支度金を。旅に必要なものはこちらでご用意いたしますが、愛用のものがあればお持ちいただいてかまいません」
どうぞよろしくお願いいたします、と頭を下げたこの男と次に顔を合わせたのは、それから二ヶ月半を過ぎた頃のことだった。
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