5 勇者一行の出発
全32話 完結まで毎日更新!
「えっ!? それでは聖女様の国では地面が平らではないのですか!?」
魔法塔の、本棚でいっぱいの壁面に囲まれた漢方薬のような匂いのするそこは、サヴァイゼ──サヴィ個人に与えられた研究室なのだそうだ。八畳ほどの広くはない石造りの部屋の中、黒板の前に立ったまま思わず大きな声をだしたサヴィは、はっとしたように咳払いして、頬を赤らめながら「失礼いたしました」といつもの落ち着き払った態度を呼び戻した。
「聖女様に敬称をつけてお呼びいただくなど畏れ多いので」などと言われ、サヴィと呼ぶことを乞われてそう呼ぶようにはなったけれど、普段は三つも歳下だとは思えない落ち着き払った彼が初めて見せてくれた年相応の表情だった。
この世界に連れてこられてから十日ほど過ぎた。
この世界でも七日が一組で一週間、それを四回繰り返すのが一ヶ月。毎月日数は二十八日で固定されているらしい。十二ヶ月で一年だが、四季はその間に二巡りするそうだ。
幸い一日の長さは二十四時間だったから、睡眠時間や生活リズムは大きく変える必要もなく日々を過ごせている。
魔法塔での聖女レクチャーは、そんなこの世界の常識の説明から始まった。
空には私の世界と同じように昼に太陽、夜には月が浮かぶから、一年で季節が二巡りするということはどういう仕組みなんだろうとなんとはなしに尋ねたら、「神のお取りはからいなので。聖女様の国では違うのですか?」なんて言われたから、つい地球と太陽の話しをしたら、サヴィからは質問の嵐だ。
「月が輝いているのではないのですか?」
「地面が丸かったら、逆さまになっている方々はどうなるのですか?」
などなど。
私が理科教師志望だったら、もっとわかりやすく説明できたかもしれないけれど、あいにく目指すは国語教師。それでも基礎的なことくらいは説明できたから、「この世界とは違うのだろうけれど」と前置きして持てる知識を総動員して教えてあげた。
いまだ自分が聖女というのはまったくもって実感もないし、サヴィが太鼓判をおしたような力の発現は見られない。
それでも、この世界には今どうしても聖女が必要だということは理解できた。
この世界の暦で、前回聖女が召喚されたのは二百年ほど前だそうだ。
聖女のミッションは主に三つ。
魔王出現による各地の瘴気を浄化すること。
魔王を浄化して聖なる蒼綺石にすること。
その石を王城内にある封印の間に納めること。
これらのミッションがすべて完了すると、神様からのご褒美で、聖女はふたつの願いを叶えて貰える。歴代の聖女はこの『願い』を使って元の世界に戻して貰っているとのことだった。
わけもわからずいきなり連れて来られた身としては、帰る手段がきちんと用意されていることは本当に嬉しかったし、そこからは俄然ヤル気を出したのは言うまでもない。
やることを済ませさえすれば帰ることができるとわかったことで、少し心にも余裕が生まれたし、いっそこの状況を今のうちに楽しんでおくべきかもしれないとまで思えた。 もっとも、聖女の身の安全を守る必要があるとのことで、今は王城の中にもらった一室と、王城の敷地内にある歩いて十五分ほどの魔法塔の行き来しかさせてもらえないので、いろんなものを見聞することはできなかったのだけれど、それも『魔王』討伐のための旅が始まればいやというほどいろいろできそうだから、まずは聖女の力を出せるようになるのが目の前のミッションだ。
「それでは、聖女様は教師になりたかったのですね」
「そう。私、言葉が好きで、日本語、あ、私の国の言葉の美しさや面白さを子どもたちに教えてあげられたらなって」
「なるほど……知らないことを知るのはもちろん、知っているはずのことから更なる気づき、発見をするというのは本当に楽しいものですからね」
彼の研究室の本の多さだけでなく、私の世界の話しに身を乗り出すようにして耳を傾ける姿、今、私の言葉に頷くサヴィの言葉に、つくづく彼も学ぶのが好きな人なのだろうと思う。
「本当なら教師になるための実習に行く目前だったの。帰ったらすぐに実習の準備をしなくちゃ」
「それは……」
ふと何か言いかけて口を噤むサヴィに、「どうしたの?」と首を傾げる。なにか変なことを言っただろうかと発言を思い返そうとした途端、「そういえばお尋ねしたいことがあったのを思い出しました」と一足先に彼が口を開いた。
「先日お伺いした、夜空の星まで飛ぶ乗り物があるというお話しについてなのですが……聖女様の国は神の国なのでしょうか?」
「まさか。それなら魔法があったり、世界を滅ぼす魔王がいるこの世界のほうがよっぽど神様の国みたいだよ」
「みたいではなく、神の国で……」
「やあ、楽しそうな話しをしているね」
「っ、神の国を照らす若き太陽にご挨拶申し上げます」
現れたのはリュミリエルさんだった。彼は魔法塔にいる時や、私が自室で退屈している時など日に何度か様子を見に来てくれていた。
すかさず床に膝をついたサヴィに、「ああ、挨拶はいいと言っただろう。これから一緒に旅をする仲間なのだから、そう畏まらないでくれ。人前では身分を隠すことになる。君も慣れておいてくれないと」と笑いながら、空いていた椅子を引き寄せて腰をかけた。
「申し訳ございません。講義は進めておりますが、少々聖女様の世界のお話しを……」
叱られるのがわかっている子犬のような目で、リュミリエルさんにしおしおと頭を下げるサヴィに「君がちゃんとやってくれていることはわかっているよ。それよりも、私はミア殿が楽しそうにしていたのが嬉しいんだ」と微笑むと「菓子を持ってきたから、少し休憩にしないかい? 私にも貴女の生まれ育った世界の話しを聞かせてほしい」と私に向き直った。
清き光を発現できないことで、やはり人違いだったのではないか? そうすると、私は元の世界に帰る手立てがないのではないか? と不安で落ち込んでしまう日にも、気に掛けて傍にいてくれたリュミリエルさんに淡く想いを向けてしまったのは当然と言えば当然だったかもしれない。
それから二ヶ月あまり。
最初は半信半疑だった──ううん、九割九分信じていなかった聖女の力も、サヴィを始めとする魔法師さんたちに教えてもらった通りにイメージすることで徐々に発現し、実際に瘴気の浄化もできるようになった。
初めて掌から淡い光が発現するようになった時には、サヴィとハイタッチをして喜んだし、報告を聞き、息を上げて駆けつけたリュミリエルさんも「やはり貴女は間違いなく神の選びたもうた方だ」と思わずとでも言うように私を抱き締め、「失礼しましたっ、レディになんてことを……」と申し訳なさそうに眉を下げる彼を前に、ドキドキしつつ、やはり聖女の力の発現をそれほどまでに待ちわびていたのだということを目の当たりにした気がした。
ただ、これでめでたしめでたし、さあ討伐の旅へ出発だ! とはならなくて、その後はまた数日力が出なくなって焦ったりもした。
「この力は心の強さにも左右されます。それを知っている魔王や魔物たちは、必ず聖女様の不安をつき、揺さぶりをかけてくるでしょう。いかなる時も仲間や自分を疑わず、まっすぐな願いで臨めば必ず神は応えてくださいます」
そう言って励ましてくれたのは、サヴィだった。居合わせたリュミリエルさんも、「まぐれでできるものではないのです。一度できたのですから、どうか自信を持ってください」とまっすぐな眼差しで励ましてくれた。
「すみません、リュミリエルさん。頑張りますね」
「何をおっしゃいます。貴女は充分力を尽くしてくださっているではないですか。……ところで、その、ひとつよろしいでしょうか」
「はい? サヴァイゼは随分早くからサヴィと気安く呼んでいらっしゃいますが、そろそろ私のこともリエルとお呼びいただけませんか?」
「は、あ……リエル、さん」
「どうぞリエルと」
「リエル」
「はい。私も貴女をミアとお呼びしても?」
ミワです、とはもう訂正しなかった。これまで何度かそれを試みてはみたものの、どうしたってこの世界の人には発音しにくいのかもしれないと諦めたから。だから私はただ、はい、と頷いた。
討伐の旅へと出発したのは、そこから一ヶ月も経たないうち、私がこの世界に呼ばれてから三ヶ月目の夏の朝のことだった。
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