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18 泉にいたもの



 林に足を踏み入れた途端、躊躇して固まった。

 まとわりつくような重い空気だ。この感覚を、私はよく知っている。

 周囲を見渡す。外から見た時は、陽光差し込むなんの変哲もない林だったはずだ。それなのに、この薄暗さはまるで深い森にでも迷い込んだようだ。


「もどろうよぉ!」


 エルミアの声が聞こえて我に返り、止めた足を急いで動かした。

 少し進むと茂みの向こうに子どもたちの姿が見えて安堵する。


「こらっ! こっちは来ちゃ駄目って言ったでしょ」


 一刻も早く彼らを連れて、ここを離れるべきだ。逸りそうな心臓を宥めながら、必死で平静を装い早足で彼らの元へ向かう。


「せんせぇっ」


 半泣きで駆けてきたエルミアが足にしがみつく。


「なんだよ、かってについてきたくせに」


 唇を尖らせたヒューヴに反して、オルンはばつが悪そうに上目遣いで「ごめんなさい」と口にした。


「ほら、戻ろう」

「おねがい! さかなだけみたい!」

 

 ヒューヴが背後の泉を指す。『綺麗な泉』とだけ聞いていたそこは、光を呑み込んだように昏く横たわって見えた。


「あのね、こーんなおおきいさかながいたんだって」


 腕を大きく広げて見せたオルンは、「ね?」とヒューヴに視線を投げた。


「おお! こないだとうちゃんといっしょにきて、みずのなかにでっかいくろいのがいたんだ!」


 ぐずぐずと抱きつくエルミアを宥めるように肩を撫でて、そっとしがみつく腕をはずさせる。足に抱きつかれていては、咄嗟に動くことができない。


「それはまた今度にしよう? 今日は野外学習で来ているんだからダメだよ」

「はぁい」


 素直に返事したのはオルンだけで、ヒューヴは泉に向かおうと背を向けた。

 その時、すっと温度が下がった。梢の音すら消えたと思った瞬間、ザバリと水音があがり、泉から何かが姿を現した。


「さかなっ……え?」


 歓声をあげかけてヒューヴが声を呑んだ。

 黒く大きな影だった。淀みながら蠢き、じわじわと空中に広がってこちらに向かってくる。


「いやあぁぁぁっ!」


 悲鳴をあげたエルミアが尻餅をつくのを横目に捉えながら、すぐに駆け出す。

 瘴気だ。あれがもたらす結果を、私は嫌というほど知っている。

 瘴気の跡に残された、もう人の形を留めないものを、私は何度も目にした。この子たちをあんな風にはさせられない。

 駆け寄ってヒューヴとオルンを背に庇う。

 心臓が早鐘を打つ。

 生臭さを漂わせながら蠢くそれを見据える。

 子どもたちが走れば逃げ切れるだろうか。思いかけてすぐに打ち消す。腕を伸ばせば届きそうな距離まで迫っているそれから、今更逃げても間に合わない。

 祓う力はもうない。もう、聖女じゃない。でも守りたい。

 記憶を手繰る。サヴィに習ったあの時。瘴気を祓ったあの時。幾度もやったはずだ。出来たはずだ。

 必死に黒い影に掌をかざす。けれど、あの時のように掌から光は生まれない。

 鎌首をもたげ、こちらを窺うように揺らめいていた瘴気は、私がなにも仕掛けないと覚ったのだろう。ついに、大波のようにこちらに襲いかかってきた。

 咄嗟に振り向いて、子どもたちを腕の中に抱き締める。


──ノクスっ!


 ぎゅっと閉じた瞼の裏が、蒼く閃いた気がした。


「ミワっ!」


 ノクスだ。その手には、淡く蒼く光る剣が握られている。

 もう大丈夫だ。そう感じて、強く抱き締めた腕の力を少しだけ弱める。

 鋭く振るった切っ先が影を捉える。空気ごと裂かれるような音が響いて、本体から切り落とされた影が霧散する。

 彼が剣を振るうたび、蒼い光の軌跡が走り、黒い影を切り裂いていく。

 最後に影と私たちとの間に身を滑り込ませた彼は、たたき落とすように刃を振り下ろし、瘴気は完全に霧散した。

 ノクスの荒い呼吸が響く。

 周囲は雲間が晴れるように明るくなったけれど、恐怖の余韻はまだひかない。

 腕の中の子どもたちも、身を固くして震えるばかりで口を開くこともできない。

 剣を強く一振りして鞘に納めた彼は、振り向きざま声を荒げた。


「馬鹿が! 死ぬつもりか!!」


 見たこともない形相の彼に、声を発することすらできない。

 その声に震えたのは私だけではなかった。腕の中のヒューヴがわっと泣き出す。すぐに釣られたようにオルンとエルミアも声をあげて泣き出した。

 一瞬目を見張った彼は、長く息を吐いた。それは腹に溜まった怒りを逃がしているようにも見えた。


「怪我は?」


 ノクスに問われて、すぐに腕の中の子どもたちを確認する。尻餅をついたまま号泣しているエルミアも、誰も怪我はなさそうだ。


「たぶん、大丈夫」

 

 搾り出した声は、自分でも驚くほど小さく掠れていた。

 ノクスはもう一度溜め息を落とすと「お前もだ」と呆れたように問う。


「怪我はないか?」

「私も、……うん、だ、大丈夫」

 

 もうダメだと思った。

 命のぎりぎりの淵を駆け抜けた余韻に、まだ指先が震えていた。

 不意に草を踏む音がした。ノクスが反射的に振り返る。

 その先に立っていたのは、鋭い眼差しをこちらに向けるガルだった。

 一歩一歩、やけに慎重な仕草で歩み寄ってくる。その間も、こちらの動きを一瞬も見逃すまいとするほどの緊張感を湛えている。


「ガル、さん?」

 

 近くまで来て足を止めた彼は、私とノクスを交互にまじまじと見つめた後に口を開いた。


「……どういうことか、説明してもらおうか」


 低く抑えた硬い声は、普段の軽口をたたく声とは似ても似つかない冷たい響きで、知らず背筋が震えた。

 ガルさんから庇うように私の前に立ったノクスは「それは後だ。まずは子どもたちだろう」そう言って、私の腕から引き取るように、オルンとヒューヴを抱き上げる。


「立てるか?」

「う、うん」


 ノクスに促されてどうにか立ち上がり、そっとガルさんを窺い見れば、「あとで必ず聞かせてもらうぞ」と言ったガルさんは、「もう大丈夫だ」とエルミアに声を掛けた。

 その声音は、私が知るいつものガルさんだった。


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