15 "カミナリ"で"イカヅチ"で"イナヅマ"
本日最初の更新。
夜にもう1話更新予定です。
全32話なので、次でちょうど半分になります!
「いらっしゃいませ」
知らない女の人が出迎えてくれた。
たしかに食堂の扉をくぐったはずなのに。
店を間違えた?
そんなはずはない。あるはずがない。
──ここは、どこ?
足下の地面が消えたように、視界がくらりと揺れた気がした。
「おひとりですか?」
無意識に後退ったのと、カランコロンと来客を告げる鐘が響いたのは同時にことだった。
「おっと」
入ってきた誰かとぶつかってしまい、肩越しに振り返ればガルさんだった。
「すまん、大丈夫だったか?」
ガルさん、と呼びかけたけれど音にするのを躊躇う。知らない人を見る目で、誰?と問われそうで怖くて堪らない。心臓の音が体中に警鐘を響かせている心地だ。
けれど。
「どうした、ミア。真っ青じゃないか」
ガルさんから、自分の名前が紡がれて、おずおずと「ガルさん?」と呼びかけたけれど、唇が震えてうまく音にならない。
「ちょっと座ろうか」
腕をとられて導かれるようにして歩き、カウンター席に座らされた。
「お水どうぞ。大丈夫?」
先ほどの女の人がお水を持ってきてくれる。
カフェオレ色の緩やかなウェーブの髪を後ろでひとつにまとめた彼女は、心配そうな表情でコップを前に置いてくれた。
「見ない顔だね。新しい店員さんかな?」
「いえいえ、ちょっとお手伝いに入っただけで」
「もしかして、きみがリリカさん?」
「ええ。……あれ? どこかでお会いしましたっけ?」
「いいや、今日こっちに帰ってくる子がいるって聞いてたから、もしかして、ってね」
「ああ、そうなんですね」
ガルさんと女の人との会話を聞いて、ようやく状況を把握する。そこにリゼさんが「おかえり、ミア。どうしたんだい? 大丈夫かい?」とやって来た。
大丈夫、と私が答えるより早く、「リゼママ! 大丈夫じゃないよ。真っ青……ん? この子が"ミア"さん?」とダークブラウンの瞳がこちらに向いた
「そうよ。うちの次の看板娘候補」
「次の? じゃあ今は誰だい」
「決まってるじゃないか。あたしだよ」
豪快に笑ったリゼさんの後ろから、ノクスが足早に近づいてくる。
「ミワ、大丈夫か」
「もう、ノクも! 大丈夫には見えないでしょ」
「あ、ああ。ミワ、どうした?」
「……うん。だ、だいじょぶ。ちょっと、た、そう、立ちくらみ?」
どうにか答えると、ノクスは眉根を寄せた。
「しばらく座っておけ」
「あ、ノクス、クロカゲ、外に……」
「わかった。リリカ、こっちは任せていいか?」
断るはずもないと思っているように背を向けたノクスは、彼女の肩をひとつ叩いて外に出て行った。
「リゼママ、私このまま手伝うよ。ノク戻るまで困るでしょ?」
「そう? じゃあもう少しだけお願いするよ。ミアは……見ててもらえるかい?」
「可愛いお嬢さんとの時間ならいつでも大歓迎さ」
「なら頼んだよ。……ああ、今日の日替わりは鶏肉の香味揚げだよ」
食堂はちょうど忙しい時間帯に差し掛かる。せっかくそれに間に合うように配達に行ってきたのに、と悔しい気持ちになるけれど、まだ先ほどの衝撃の余韻が残っている。
扉をくぐっただけで違う世界になんて行くはずがない。でも、この世界に連れて来られた時だって、私は近所のコンビニに出掛けただけだった。
動揺の余韻はなかなかひかない。こんな私が無理に働きだしても邪魔にしかならなそうなほど、リリカさんの動きはスムーズだ。
「配達、大変だったかい?」
隣で頬杖をついたガルさんが、気遣わしげに尋ねてくる。給食の試験導入初日に私がこんな状態なのだから、気になるのは当然のことだ。
「あ……いえ、私はクロカゲ、馬を連れて行っただけで、着いてからもトルテさんが全部運んでくれたから、大丈夫、です」
「そう? まあ本当に"給食"を導入するなら配達と後の回収の態勢も組み立てがいるよな」
ひとりごちるようなガルさんの隣で、店内で動くリリカさんを目で追う。
常連さんの軽口をいなして、手際よくホールの中を動く。リゼさんをリゼママと呼ぶその姿は、本当にこの店の娘のように見えた。
「ライバルが気になるかい?」
「ライバルなんて」
誰が見たってリリカさんのほうが立派に仕事をこなしている。なにより、彼女がそこにいるのはとても自然に見えた。
「私なんてとても……あの人、接客、とても上手」
「ああ、そっちか」
「そっち?」
「いいや、ノクスも大変だなと思ってさ」
「なにが……」
「お待たせしました~。はい、日替わりね。ミアさんはこれ、花蜜茶だよ。熱いから気をつけてね」
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。あ、はーい、今いきます」
お客さんに呼ばれて背を向けたリリカさんに、私はもう一度ひっそりと溜め息を落とした。
◇ ◇ ◇
今日はやめておけ、というノクスを押し切っていつものように勉強会をしたのは、昼間の衝撃が大きかったからだ。
リリカさんはお店の忙しい時間が終わる頃、「また来るね」とひらりと手を振って帰っていったので、私は挨拶ひとつできなかった。同時に、その気安さが余計に、彼女がこの店でリゼさんやノクスと積み重ねた時間を感じさせた。
「雷が"カミナリ"で"イカヅチ"で"イナヅマ"、……なんでそんなに多いんだ」
げんなりとした顔をしたノクスが呟く。
今は前半の私の勉強時間を終えて、ノクスの日本語学習タイムだ。
ノクスが日本語を勉強したいと言ってくれたから、少しずつ日常会話を教えているのだけれど、先ほどまで昨日もやった雷の神様の物語を題材に文字を教えて貰っていた流れで雷の話しになった。
「日本語はね、雨の呼び方も何百種類もあるんだよ。季節とか、降る時間とかによって違う名前があるの」
「難解すぎだろ」
呻くような声音のノクスに、思わず笑いが漏れる。
「大丈夫。"雨"だけ知っていれば困らないよ。でも、私はそういう日本語の季節に寄り添う繊細さがとても……とても好きだった」
「好きだった、は違う。好きだ、が正しい」
もう日常使いすることはない言葉だ。だから過去形で言ったのは間違いではない。ただ、それを言うのもなんとなく気持ちが萎れていきそうで、曖昧に笑って頷くにとどめた。
ふいに閉店の札がでているはずの扉が開き、鐘が軽やかに音を立てた。
「ノク~? いる?」
そう言いながらリリカさんがやってきた。昼間と違い結われていない髪は、歩調に合わせてふわふわと背中で揺れている。
「家に行ったらリゼママがまだこっちだって」
「忘れ物でもしたか?」
「違うよ。はい、これ。ママがスパイスクッキー焼いたからお裾分け。ノク好きでしょ?」
「ああ、悪いな」
差し出された袋を受け取るノクスは、心なしか嬉しそうだ。甘いお菓子類はそれほど好まないのは知っていたけれど、スパイスクッキーというくらいだから甘くないお菓子なのかもしれない。
そういえば、私はノクスの食べ物の好き嫌いなどはあまり知らないな、と思いながらその様子を見つめていると、「ミアさんにも」と声がかかった。
「こちらをどうぞ。さっきシリッドさんに会ったからミアさんのこと話したの。そしたら薬草茶をくれたから持ってきたよ」
「ありがとう、ございます」
「ノク、煎れてあげなよ」
そう言ってノクスに小瓶を渡したリリカさんは、立ち上がったノクスと入れ替わるように彼の隣の椅子をひいて腰をおろした。
「さっきは慌ただしくてごめんね。改めて、リリカ、リリカ・テミーニャって言います。よろしくね」
「あ、ミワ……ミワ・ソラカドです。よろしくお願いします」
「み、ぅあ、さん?」
「ミア、です」
「ミワ、だ。自分の名前を間違えるな」
戻ってきたノクスにコツリと優しく頭を叩かれる。
「でも、もういいかなって。きっと発音しにくいんだと思うし」
「……。じゃあ、ミアさんって呼ばせてもらってもいい?」
「はい、大丈夫です」
物言いたげなノクスの眼差しを気付かないふりで、愛想笑いを浮かべる。
「こんなにいっぱい広げて何やってたの? って、あ! これ一年生の教科書だね」
一年生、というワードがずきりと心に刺さったのを感じる。でも仕方ない。それは事実だ。
「あ、今はニホ……」
「言葉の勉強だ。ミワはこの国の生まれじゃないからな」
日本語の勉強をしていたと言おうと思ったけれど、ノクスの説明も間違いではない。なのに、なんとなく説明を遮られたことにモヤモヤしてしまう。
今日はいろいろあって、ナーバスになってるのかもしれないな、とばれないように小さく息を吐いた。
「ちょっとだけリゼママから聞いたよ。でもすごいね! もうだいぶ話せてるもの。ノクが教えたの?」
「他にいないからな」
「ふーん……ノクも先生やれば?」
「ガラじゃない」
「またそんなこと言って……、あ、お茶もういいんじゃない?」
ふたりの気安い会話が、なんとなく居心地悪くなり始めた頃、厨房の中は体に良さそうな、薬草を煮詰めた独特の匂いが充満してきていた。先週喉にいいという薬草を貰った時にはハッカに似た爽やかな香りだったけれど、これはなんというか飲むのに苦戦しそうな予感しかない。
「ノク、子どもの時この匂い苦手だったよねぇ。シリッドさんちの前通る時とか鼻つまんだりしてさ」
クスクスと笑うリリカさんを嫌そうに見たノクスは、小さなコップに作ったお茶を入れてきてくれた。
「ありがとう」
「花蜜を多めに入れてはきたが、冷ましてから息をとめて一気に飲む方がいい」
「そ、そんなに? ……わかった」
コップはなんというか藻がいっぱいの池の水のような色をしている。匂いと相まって、口にいれるのはなかなかにハードルが高そうだ。
「リリカさんはずっとノルテリアに住んでいるんですか?」
「そう。生まれも育ちもここ。だからノクスとは幼なじみなの」
幼なじみ。その言葉に、うまく息が吸えない心地になる。
こんななんてことない言葉だけで、すぐにあの日に気持ちごと戻されてしまう。胸の奥まで冷えていく気がして、どうしようもなく息苦しい。
「そう、なんですか」
「この一年は首都で教員研修を受けてたんだけど、やっと終わって帰ってきたとこ」
「先生、なんですね」
「うん。よかったらミアさんの勉強も手伝うよ? これでも一応プロの先生だからね」
冗談めかして言っているのはわかっている。けれど、素直にありがとうと言えないのは、自分がその"プロ"になれなかったからだろう。
「いいのか?」
そんな私を置いてけぼりにしてノクスが問うと、「もちろん。ノクだって毎日じゃ大変でしょ?」とリリカさんは請け負った。
こうなると私が断るのも変な話だし、そもそもノクスは負担に感じていたのかもしれない。
「よかったな、ミワ。俺に習うよりずっといい」
ノクスの言葉に、私はただ笑顔を作って頷くしかなかった。