表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

とある夏の呪いについて

作者: 凪渚

【実話】とある夏の呪いについて


1:以下、名無しにかわりまして語り部がお送りします [投稿日: 2025/08/01(金) 02:23:10]


誰かに聞いてほしくて、ここに書き込む。

俺には、ガキの頃に植え付けられた、あるトラウマがある。

自分でも馬鹿げているとは思ってる。

それでもいいってヤツは、どうか目を通してほしい。

俺のとある夏から続く、呪いとも言える過去の話を。


2:以下、名無しにかわりまして~ [2025/08/01(金) 02:24:43 ID:Abc/deF1]


釣り乙


3:以下、名無しにかわりまして~ [2025/08/01(金) 02:25:12 ID:Ghi/jkL2]


はいはい、チラ裏チラ裏

とりあえずkwsk


4:以下、名無しにかわりまして~ [2025/08/01(金) 02:25:44 ID:Miz/um@1]


私は海、好きだよ。

それで?聞かせておくれよ、キミの呪いってヤツの話を。


5:以下、名無しにかわりまして~ [2025/08/01(金) 02:26:35 ID:mno/pQr4]


> > 4

> > なんかこいつだけ馴れ馴れしくて草

> >

>


6:語り部 [2025/08/01(土) 02:27:01]


> > 4

> > …なんだよ、あんた。

> >

>

 

 突然だが、海は好きだろうか。


 きらめく太陽、どこまでも続く青い水平線、白い砂浜にはしゃぐ声。多くの人にとって、海はきっと楽しい思い出が詰まった場所だろう。俺もかつてはそうだった。


 では、夜の海ならどうか。

 街の明かりも届かない漆黒の浜辺で、ただ寄せては返す波の音を聞いたことは?全てを飲み込むように黒くうねる水面を見つめていると、まるで底なしの闇がこちらをじっと見つめ返しているような、そんな肌寒い感覚を覚えたことはないだろうか。


 あの得体の知れない巨大な塊が、意思を持って呼吸しているような錯覚。

 水面の下、光の届かない深淵に、一体何が潜んでいるのか。


 俺にとって、海とはそういう存在だ。

 美しい風景でも、命を育む母なる存在でもない。ただただ畏怖すべき、巨大で、冷徹な何か。俺たち人間ごとき、取るに足らないちっぽけな存在だとその静けさをもって知らしめてくるもの。


 なぜ、俺がこんなにも海を意識し、その深淵にこだわるのか。

 もし、あんたたちがその理由に少しでも興味があるのなら、俺の昔話に付き合ってほしい。これは、俺が実際に体験したある夏の記憶にまつわる話だ。

 信じるか信じないかは、あんたたちに任せる。

 ただ、この話を聞き終えた後、あんたたちが海を見る目は今とは少しだけ変わってしまうかもしれない。


 始まりは、俺がまだ五歳だったある夏の日だ。


 物心ついて初めての海は、父の古いRV車に乗って行った。

 磯釣りが趣味の父に、珍しく俺が「連れてって」とせがんだのだ。母は「まだ危ないから」と渋っていたが、最後には折れてくれた。その代わりというわけではないだろうが、車中でも、そして砂浜に着いてからも、母は何度も同じ言葉を繰り返した。

「涼介、危ないから、絶対に海の中には入っちゃダメよ」

「うん」と頷く俺の目に映ったのは、絵本で見たどんな景色よりも広大で、キラキラと光る青い世界だった。


 ザアァ…、ザザァ…。

 規則的で、けれど単調ではない波の音が耳に心地いい。むわりと肌を撫でる潮風の匂い。父はさっさと釣り道具を抱えて岩場の方へ消えていき、母はパラソルの下で本を広げている。


 母の言いつけは、もちろん守るつもりだった。でも、足元の砂を攫っていく波の誘惑には勝てなかった。まるで生き物のように寄せては返す白い泡が、「こっちへおいで」と手招きしているように見えた。


 一歩、また一歩と、俺は水際に吸い寄せられていく。

 ちゃぷり、と足首まで浸かった水は、太陽に温められて心地よかった。

 その時だった。さっきまでの波とは明らかに違う、大きなうねりが俺の小さな体を攫ったのは。


 一瞬で世界がひっくり返り、空と海が入れ替わる。わけがわからないまま息を吸おうとした口に、大量のしょっぱい水が流れ込んできた。苦しい。手足をばたつかせても、体はまったく言うことを聞かない。助けて、と叫びたいのに「ごぼり」と泡が出るだけだった。さっきまで温かいと思っていた水が、心臓を直接握り潰すように体温と体力を奪っていく。


 意識が遠のき、沈んでいく中で、走馬灯のような景色が目に映った。

 水面は、太陽の光を乱反射させて、銀色の膜のように揺らめいていた。それは恐ろしいほど静かで、不気味なほど綺麗だった。この世のものとは思えない美しさで、沈んでいく俺を静かに見下ろしている。

 ああ、死ぬんだな、と五歳ながらに思った。


 体が強く引き上げられる感覚と、遠くで聞こえる父の絶叫に近い声を最後に、俺のその日の記憶は途切れている。

 あの銀色の水面の光景が、今でも夢に現れる。

 俺の人生に、最初の楔を打ち込んだ呪いとして。


 その夏の呪いは、俺の日常を静かに、だが確実に蝕んでいった。

 その最たる例が、学校の水泳の授業だ。

 それは毎年、俺にとって公開処刑のようなものだった。


 鼻を突く独特の塩素の匂い。タイルに反射する太陽の光。そして何より、あの日の記憶を呼び覚ます、青く揺らめく水面。

 他の奴らがはしゃぎながら水しぶきを上げる中、俺は水に顔をつけることすらできなかった。心臓が、見えない手に鷲掴みにされたように硬く、冷たくなる。

「涼介、またか」「気合が足りないんだよ」

 教師の呆れた声と、クラスメイトの嘲笑が水音に混じって俺の耳に届く。違う。気合の問題じゃない。死ぬんだ。あれは、本当に俺を殺そうとしたんだ。

 その恐怖を、誰にも理解されることはなかった。


 小学校も高学年となったある時、確か、梅雨の蒸し暑い日だった。

 彼女が、俺のクラスに転校してきたのは。

 窓の外でしとしとと降り続く雨の音が、やけに大きく聞こえる日。


 教師に紹介され教壇に立った彼女は、静かに、ただ俺たちのことを見ていた。

水嶋汐音(みずしましおん)、です。よろしくお願いします」

 抑揚のない、冷たさを感じる声だった。

 光を吸い込むような艶のある黒髪。日に当たったことのないような青白い肌。そして、何を考えているのか全く読めない群青の瞳。

 クラスの誰もが、そのどこか人間離れした雰囲気に戸惑っていたのを覚えている。


 しかし俺の予想に反して、彼女は驚くほどあっさりとクラスに溶け込んだ。

 男子が話しかければ当たり障りのない返事を返す。女子が宿題のことで質問すれば、まるで教科書の解答を丸暗記しているかのように淀みなく教える。彼女は誰とも深くは関わらないが、誰からも拒絶されることはなかった。

 その絶妙な距離感はどこか大人びていて、俺たち子供の社会ではかえって「クール」なものとして受け入れられていたように思う。


 そして運命のいたずらか、席替えで俺の席はその水嶋汐音の隣になった。

 最初のうちは、気まずい沈黙が続くだけだった。俺は彼女のミステリアスというか不思議な雰囲気が苦手だった。

 だが、ある日のことだ。俺が不意に机から落とした鉛筆を、彼女が拾ってくれた。

「…はい」

 差し出された鉛筆と、彼女の冷たい指先。俺は、ただ「あ、ああ…」と受け取ることしかできなかった。

 それが、俺たちの最初の会話だったと思う。

 その日から、俺たちの間には奇妙な空気が流れ始めた。

 きっかけは些細なことだった。俺が忘れた教科書を、黙って机の真ん中に寄せてくれたり。俺が授業中にぼんやりと窓の外を眺めていると、「空は好き?」と不意に話しかけてきたり。

 そしていつからだったか、俺たちは名前で呼び合い、一緒に下校するようになっていた。


 中学に上がると、水嶋汐音の「完璧さ」はさらに磨きがかかった。

 勉強は常に学年トップ。運動神経も抜群で、どんなスポーツでもまるで初めてやる競技とは思えないほど軽々とこなしてしまう。整った顔立ちとモデルのようなスタイルも相まって、彼女はいつしか誰もが憧れる高嶺の花のような存在になっていた。

 男子生徒からの告白も後を絶たなかったらしい。だが彼女は、その全てに「ごめんなさい。私、そういうの、よくわからないから」と同じ言葉で、同じ表情で断り続けていた。

 誰もが、水嶋汐音を羨望の眼差しで見ていたと思う。


 それから月日が流れ、中学三年の受験を目前に控えた冬の始まり。

 俺と彼女は、いつものように二人で夕暮れの帰り道を歩いていた。吐く息が白く染まる。

 高校は別々になることが決まっていた。この奇妙で、どこか心地よかった日常も、もうすぐ終わる。そんな感傷が、俺の胸をよぎる。


「ぐわー、さみぃ。手が冷てぇ」

「手でも握ろうか?」

「嫌だよ。お前の手、馬鹿みたいに冷たいし...」

「失礼だね。手が冷たい人は心が温かいって、知らないのかい?」

「へいへい、そういうことにしときましょ」

 いつも通りの何気ない会話。


「そういえば、涼介は高校では何部に入るんだい?」

 汐音が珍しく、そんな普通の話を振ってきた。

「さあな。...まあ、水泳部じゃないことだけは確かだな」

 自嘲気味に俺は笑う。すると彼女は、いつものあの深海のような瞳で俺をじっと見つめた。

「…ふうん。まだ怖いのか。ならいっそ思い切って飛び込んでみたらどうかな?」

「ふざけるなよ。お前には何度も話しただろ。海を見るだけで息が詰まる。沈んでいく中で見たあの景色は、今でも夢で見るくらいだ。…本当に、助かったのは奇跡だよ」

「死に損なった…って説は?」

 彼女は、こともなげに言った。

「…怖いこと言うなよ。冗談でも」

「いやなに、考え方の話だよ」

 彼女は、空に浮かぶ一番星を指差した。


「涼介は、死について考えたことはあるかい?」

「…その話、長くなるやつ?」

「まぁ、聞きたまえよ。人の死は決まっている。生まれた瞬間に、日付から死因に至るまであらかじめ決められている…物語のようなものさ」

「…おう」

 またいつもの小難しい話が始まった。俺は半ば呆れながら相槌を打つ。


「涼介はあの日、海で死ぬはずだった。それが、涼介という物語の正しい結末だった。でも、キミはその筋書きから逸脱してしまった。本来ありえないはずの、イレギュラー」

 彼女の言葉は、ただの空想のはずなのに妙な説得力があった。まるで、この世の真理を語っているかのように。

「だから、海がキミを呼んでいるのかもね。自分の物語に、キミを連れ戻そうと。いつか、必ず、正しい結末を迎えさせるために」

 彼女は俺の顔を覗き込むようにして、悪戯っぽく少しだけ笑った。

「......なんてね。そもそもーー」


 彼女は何事もなかったかのように、また前を向いて歩き始めた。

 俺はその後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。

 彼女の言葉が、俺の心の、一番深い場所に、冷たい雫のように、ぽつりと落ちた。

 ...海が、俺を呼んでいる。

 彼女の言葉はただの冗談のはずだ。だが、俺の心の奥底にあった海への漠然とした恐怖の正体を、完璧に言い当てられたような妙な納得があった。


 水嶋汐音の言葉は、まるで深海に沈んだ錨のように、俺の心の底にあり続けた。

 彼女という存在の輪郭が、中学卒業と共に記憶の海に溶けていくのと反比例するように、その言葉だけは時折ふとした瞬間に浮上し、俺の心を冷たく締め付けた。


 しかし高校に入学してすぐ、俺の前に太陽が現れた。それが、芹沢茜だった。

 出会いは、赤点まみれの答案用紙を握りしめた彼女が、クラス順位が上の方だった俺に「お願い!勉強教えて!」と頭を下げに来たことだった。運動神経抜群で、いつも輪の中心で笑っている茜。片や、教室の隅で本を読んでいるのが好きな俺。住む世界が違う、と誰もが思っていたはずだ。


 だが、茜はそんな境界線をいとも簡単に飛び越えてきた。

「涼介って意外と面白いよね! もっと静かな奴かと思ってた!」

 屈託なく笑う彼女の隣は、汐音の隣とはまったく違う、温かくて眩しい心地よさがあった。茜と一緒にいる時間は、俺の心の影を確かに薄れさせてくれていた。


 高校一年の夏、あの公開処刑の時間が再びやってきた。水泳の授業だ。

 小学生の頃と何も変わらない。塩素の匂い、揺らめく水面、そして見えない手に心臓を鷲掴みにされるような恐怖。俺はプールサイドで膝を抱えることしかできなかった。

 だが今回は少し違った。俺を嘲笑う声はどこからも聞こえなかった。そして、授業が終わった後、茜がタオルを首にかけたまま俺の隣に座った。

「ねえ、涼介。そんなに水、怖いの?」

「…まあな」

「そっか。…じゃあさ、私たちがコーチしてあげる!一人じゃ無理でも、みんなでやればきっと大丈夫だって!」

 太陽みたいな笑顔だった。茜の周りにいた友人たちも「いいじゃん!」「手伝うよ!」と笑っている。断る理由なんて、見つからなかった。


 その日から、俺たちの長い特訓が始まった。水泳の授業がある日はいつも、茜たちは俺に付き合ってくれた。最初は水に顔をつけるだけ。次はバタ足。どんな小さな進歩も、彼女たちは自分のことのように喜んでくれた。


 季節が巡り、高校二年の夏が来た。

 一年間の練習の末、俺はついに25メートルを泳ぎ切れるようになっていた。

「やった…! 泳げた…!」

 息を切らす俺に、茜は満面の笑みでハイタッチを求めてきた。この時、俺は本気で思ったんだ。もう大丈夫だ、と。この呪いも、いつか解ける日が来るのかもしれない、と。


 そんなある日、水泳の授業中の出来事だった。

 少し調子に乗って、友人たちよりも先にコースで泳いでいた時だ。不意に、左のふくらはぎに激痛が走った。足がつったのだ。

「――ッ!?」

 一瞬のパニックが、五歳のあの日の記憶を呼び覚ます。手足をばたつかせても、体は沈んでいく。しょっぱい水の記憶と、プールの塩素の匂いが混ざり合う。苦しい。死ぬ。まただ。

 笛の音が鋭く響き、水しぶきが上がる。プールサイドから飛び込んだ先生が、沈みかけた俺の体を力強く抱え上げ、引き上げてくれた。

「大丈夫か、東雲!」

 激しく咳き込む俺の周りに、心配そうな顔をした茜たちが駆け寄ってくる。

「涼介! 大丈夫!?」

 背中をさすってくれる茜の手の温かさを感じながら、俺はぼんやりと思っていた。助かった。先生と、そして茜たちがいてくれたから。過去のトラウマがちらつきはしたものの、その日は何事もなく終わった。


 そして一学期の終わり、茜は言った。

「去年は補習で行けなかったし、今年はみんなで海行こうよ! 涼介も泳げるようになったしさ!」

 俺は迷わず頷いた。「うん、行こう」と。みんなが一緒なら、もう何も怖くない。そう思っていた。


 だが、海へ行く約束を来週に控えた週末、俺は顧問から急遽、来週の練習試合の日程変更を告げられた。相手の高校との兼ね合いらしい。仕方なく、俺は茜に謝りの電話を入れた。

「ごめん、急に試合で行けなくなった」

「えー、そっかー! 残念! じゃあ、来年、来年は絶対行こうね!」

 電話の向こうの明るい声に、俺は少しだけ、本当に少しだけ、安堵している自分に気づいた。


 試合当日。部活は無事に終わった。心地よい疲労感と共に帰路につく。ふと母からの着信に気づき、何気なく折り返した。

「亡くなったって…茜ちゃんが、海でーー」

 その後の言葉は、もう聞こえなかった。


 世界から音が消えた。

 頭の中で、何かがガラスのように砕け散る音がした。


 蘇るのは、赤点まみれの答案用紙を握りしめて、「お願い!」と俺に頭を下げた、出会いの日。

「涼介って意外と面白いよね!」と、教室の隅にいた俺を輪の中心へと引っ張り出した、太陽みたいな笑顔。

 プールサイドで膝を抱える俺の隣に、タオルを首にかけたまま座り込み、「大丈夫!」と屈託なく笑って見せた日の塩素の匂い。

「やった!」と、たった25メートルを泳ぎ切った俺の手をまるで自分のことのように力強く叩いた、濡れた手のひらの、あの温かい感触。

「来年は、絶対行こうね!」と電話の向こうで弾んでいた、何の疑いもない未来を約束する声。


 声、声、声。笑顔、笑顔、笑顔。

 …茜。


 俺の止まっていた時間を無理やり動かそうとしてくれた、光のような彼女の断片。

 それらがもう、二度と未来に繋がることのない、ただの過去の記憶になったのだと、理解してしまった。


 なぜ? どうして茜が?

 ……事故?そうだ、ただの不運な事故だったんだ。

 そうだ、きっとそうだ。海ではそういうことが時々起こる。誰のせいでもない。運が悪かった。それだけのことだ。そうに決まってる。


 ーーなのに、どうして。

 頭の奥で、あの冷たい声が囁くんだ。

『本来、ありえないはずの、イレギュラー』


 ……やめろ。

 あいつはただの冗談を言っていただけだ。あいつの悪趣味な冗談なんて本気にする方が馬鹿げてる。

 ……冗談? 本当に?

 あの、全てを見透かすような深海の瞳で、彼女は言ったじゃないか。

『海が、キミを呼んでいるのかもね。自分の物語に、キミを連れ戻そうと』


 ……違う、俺は呼ばれてなんかいない。

 俺はあの呪いからやっと抜け出せそうだったんだ。茜が、あいつが、俺を光の方へ引っ張り上げてくれて…。


 ……引っ張り上げて?


 その言葉が、まるで錆びついた錠前にぴたりと合う鍵のように、俺の思考の中で嫌な音を立てた。


 見せしめ?

 身代わり?

 代償?


 パズルのピースがはまっていく。

 ピースのひとつひとつが、必死に目を背けてきた最悪の絵柄を完成させていく。


 あの海は、俺を連れ戻しに来たんだ。

 今日、あの場所で、俺を殺すために。

 だが、そこにいるはずの俺がいなかった。


 だから代わりに……

 俺の世界で一番大切だった人間を……

 連れていった。


「俺の、せい……?」

 俺の、せいだ。

 違う。せい、なんかじゃない。

 もっと、直接的で、取り返しのつかない、残酷な現実。


 ーー俺が、茜を殺したんだ。


 ……これが、俺が語れる全てだ。

 あんたたちがどう思ったか、俺にはわからない。ただの感傷的な妄想だって笑うかい? それとも、少しは信じてくれただろうか。


 だから、俺は最初に聞いたんだ。

 海は好きだろうか、と。

 一面に広がる青、心地いい波音や楽しい思い出だけが海の全てじゃない。あの黒くうねる水面の下には、俺たちの常識なんて通用しない冷徹な理が存在している。俺はそれを知ってしまった。


 茜を失ったあの日から、俺の日常で「水」は恐怖の対象になった。

 風呂の栓は抜いたままシャワーで済ませている。湯が完全に排水溝の闇へ消えるのを見届けるまで、浴室から出られない。雨の日は、窓のカーテンさえ開けられない始末。友人たちはそんな俺を「いつまでも引きずりすぎだ」と呆れ顔で言う。彼らは知らない。俺が恐れているのが、茜を失った悲しみだけではないことを。


 あいつの言った通りだった。

 海は、俺を連れ戻しに来た。

 そして、俺が逃げた代償に、俺の世界で一番大切なひとを連れて行った。

 俺は運命から逸脱した、物語の誤植なんだ。

 そして、物語はいつか必ず正しいページへと修正される。


 今も、聞こえてくる。

 蛇口を捻る音、排水溝に水が流れる音、窓を叩く雨音。その全てが、ふとした瞬間にあの日の潮騒へと変わる。そして、ささやく声がするんだ。

『次は、お前の番だ』と。


 海は、まだ俺を待っている。

 俺という物語の本当の結末を、ただ静かに、根気強く、待ち続けている。


 ◇


 ーー送信。


 キーボードを打つ手を止め、マウスをクリックする。

 深夜三時。静まり返った部屋で、俺はディスプレイに表示された「投稿が完了しました」の文字をただぼんやりと眺めていた。


 これで、終わった。

 何かが変わるわけではない。それでも、心の奥底に沈殿し続けていた鉛の塊を、少しだけ外に出せたような、そんな気がした。

 安堵か、諦念か、自分でもわからない感情に包まれた、その時だった。


 ピンポーン。


 静寂を切り裂いて、アパートのインターホンが鳴った。

 心臓が喉の奥で跳ね上がる。こんな時間に? 宅配便でも、友人の来訪でもありえない。


 俺は息を殺し、モニターのスイッチを入れた。そこに映っていたのは、ざらついた夜の闇だけ。人影はない。


 だが、インターホンはもう一度鳴った。


 ピンポーン。


 間違いなく、誰かがドアの向こうにいる。

 俺は足音を忍ばせて玄関へ向かい、ドアスコープにそっと目を当てた。

 歪んだレンズの向こうに見えるのは、薄暗い共用廊下だけ。やはり、誰もいない。


 いたずらか、何かの間違いか。

 俺は深くため息をつき、諦めて帰ったのだろうと安堵してドアに背を向けた。

 リビングに戻ろうと一歩足を踏み出した、その瞬間。


 すぐ背後で、まるで耳元で直接ささやかれたかのように声が響いた。




「涼介、海に行かないかい?」




この物語の終着点までたどり着いてくださり、誠にありがとうございました。

処女作ということもあり、拙い筆運びや未熟な点が多々あったことと存じます。

それでも、この静かな恐怖と夏の記憶があなた様の心の片隅に、ほんの少しでも何かを残すことができたなら作者として望外の喜びです。

またいつか、どこか違う物語で、あなた様と再会できる日を心より願っております。

それでは。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ