翡翠の兆し-龍を孕む都市- 2
「おぉ、佐久間じゃん」
不意に、背後から軽い声が飛んできた。
「なんか、魂、抜けてない?」
振り返ると、通路のあいだからひょいと覗き込んでいたのは、サングラスを額にずらし、スマホをくるくる指で回している男だった。
「ケイ……さん?」
佐久間は、驚き半分、安堵半分で名前を呼ぶ。
「こんな早朝にお疲れ。てっきり幽霊でも見たのかと」
「いえ……その、どちらかというと龍を……」
「は? そっち系? ……あー、やっぱ出たか。まぁ、こんだけ風水グチャグチャにいじくってれば、そりゃ怒るやつもいるよね」
ケイは構造体の柱を指でとん、と叩きながら、鼻歌まじりに歩いてくる。
その軽薄な動きに、佐久間の眉が自然とひそめられる。
「ケイさんは、どうしてここに……」
「呼ばれたんだよ。建設会社の誰かが霊障っぽいかもって騒いだらしくさ、建設会社の社長から俺のとこに……で、来てみたら佐久間がいたわ」
ケイは、にやにやしながら佐久間の肩を軽く叩いた。
「で? 見たんでしょ、透明なやつ。……龍。たぶん気の塊だね。ここの地下、昔、港と寺が繋がってた。龍脈と宗教施設が重なってたのよ。そこ掘り崩してタワー建てたら——まあ、そりゃ怒るよね、あっち側」
佐久間は言葉を失い、思わずスマホの画面に視線を落とした。
ティエンロンと名乗った男の横顔が、一瞬だけ思い浮かぶ。
「……さっき、ここで変な人に会いました。白い髪の、琥珀色の目をした男で……ティエンロンと名乗ってました。何か知ってますか」
ケイの指が、スマホを回す動きをぴたりと止めた。
「……へぇ。天龍、ね」
一拍の沈黙。
「——そいつ、なに言ってた?」
佐久間はケイの沈黙を見計らって、ぽつりと口を開いた。
「人工の龍……この都市が、何かを生み出すつもりかもしれない、と」
ケイは、まるで聞き流すように「ふーん」と言った。
だが、佐久間の目にはわかった。
その軽い相槌の裏に、一瞬だけ影が走ったのを。
「——面白いこと、言うね」
ケイはサングラスを指先でくいと持ち上げ、片目で窓の外を見やった。
朝の光の中で、ビル群の隙間を風が走っていく。
「龍ってさ、気の流れそのものが形を取ったものなんだよ。気が集中して、ひとつの道筋を通る——それが龍脈。でも、人工的にそれを作ろうとするってのは……神経回路を逆流させるようなもん。うまくいけば奇跡。でも、下手すりゃ都市全体が壊れる」
「……それは、現実に起こり得るんですか?」
ケイは答えず、足元に転がっていた破片を拾い上げた。
「さぁね。理屈の上じゃ可能ってことになってるけど……そんなもん、まともな奴は試そうともしないって」
そう言ってケイはスマホを操作し、ARモードに切り替えた。
画面に表示されたのは、都市全体の気の流れを図案化した独自の風水アプリ。
羅盤が回転し、現在地に合わせて自動調整される。
次の瞬間、画面に浮かび上がる霧状のレイヤー。
青と金を基調にした龍脈の線が、ビルの中心軸に沿って走っていた。
——だが、その背骨にあたるラインが、ある一点でぷつりと切れている。
切断箇所は、赤い点線で囲まれ「警告:流路断裂」と小さく表示されていた。
「……おいおいおい」
ケイが眉を上げ、鼻で笑った。
「やってんな、これ。完全に龍の背骨をへし折ってる」
「……このビルが、ですか?」
「たぶんね。ここ、もともと龍の通り道だったのを知らずに上からぶっ建てたか、あるいは——知ってて、あえて逆流させようとしてる」
佐久間は喉が詰まるような感覚を覚えた。
昨夜、破砕が起きたフロアがまさにその断裂点だったのだ。
「このライン……切れてるの、どこですか? 上? それとも……」
ケイがAR画面を拡大し、指で屋上方向をスライドして確認する。
「——上だな。屋上。こっから直上、最終階あたり」
ぽん、と画面を閉じると、ケイはさっさと歩き出す。
「行こうか。そっちが龍の首だ」
エレベーターが上昇するたび、空気がわずかに重くなる。
佐久間は天井の表示板を見つめながら、耳の奥にじわじわと違和感を覚え始めていた。
気圧のせいか、それとも——気のせいか。
「感じるだろ? ここ、登るほどに押し返されてる」
ケイの声はいつになく真面目だった。
最上階に到達すると、彼はエレベーターの鍵を器用にひねり、
屋上へ続く非常ドアを開ける。ギィ、と金属音が高く鳴いた。
開け放たれた空間には、朝の空が広がっていた。
しかし、ビルのてっぺんに吹くはずの風は、どこか淀んでいた。
湿って重く、肌を這うような“気”がまとわりついてくる。
「……ここが、首か」
ケイはゆっくりと屋上を一周しながら、スマホをかざす。
再びARモードを起動すると、羅盤の中心に赤い渦が現れた。
「……やっぱりだ。龍脈の流れ、ここで完全に滞ってる。背骨どころか、神経まで断ち切られてる感じ。この地点、もともと気の出入口だったはずなんだよ」
その言葉を裏付けるように、AR画面の空中に、光の点線が走る。
地面に埋め込まれた旧式の結界符跡をなぞるように、何本もの細い線が浮かび上がっていく。
「うわ……見事に潰してるな、これ。残ってた結界ライン、全部上から鉄骨で押しつぶしてる」
ケイはしゃがみこみ、コンクリートの継ぎ目に手を添えた。
「多分、下層……いや地下かな。どこかに封印があったはずだ、かなり昔の。それが龍の通り道を鎮めてたやつ」
「つまり、それを壊したことで……?」
「誰かが意図的に壊したのか、それともただ知らずに封じを踏み抜いたのか……どっちにしても、結果は変わらない。流れが乱れて、龍脈が目を覚ましはじめてる」
風が、不自然な旋回を描いて吹き抜ける。
コンクリートの隙間にたまっていた埃が巻き上がり、空気がひときわ重たくなる。
スマホの画面に、赤い警告が再び浮かぶ。
《異常流動:気の乱反射が検出されました》
その表示が、ピコンと鳴って点滅する。
その瞬間、佐久間の首筋に冷たいものが走った。
「あの……ケイさん。これって、放っておいたらどうなるんですか?」
ケイは、空を見上げたまま、静かに答えた。
「わからない。けど——」
風が、不自然な旋回を描いて吹き抜ける。
「もし、誰かが人工的に龍を作ろうとしてるんなら……これはまだ産声ってやつだ」
屋上の風は、相変わらず重く濁っていた。
空気の流れが、どこかひどく不自然だ。まるでこのビルそのものが、何か巨大な呼吸をしているかのような——そんな圧が、微かに空をゆがませている。
ケイはゆっくりと、羅盤アプリのARレイヤーを再起動した。
気の流れを示す光の点線が、床面をなぞるように浮かび上がる。
「……あった。流れの偏り。おかしいな」
彼の指が、ある一点で止まった。
そこは屋上の角、排気ダクトの陰に隠れるように設置された小さなボックス。
見た目はよくある温度・湿度センサーのように見える。
だが、ケイは近づくとしゃがみこみ、手で触れた。
「これ、佐久間の会社の機材?」
佐久間も後ろから覗き込んでくる。
「いえ、聞いてません。……保守業者がつけた可能性もありますけど」
ケイは無言で首を振る。
蓋の縁に、極小の刻印があった。
それは一見、メーカーのロゴのように見えるが、ケイの目には別の記号に読めた。
「……これ、風水用の観測装置だよ。商業用じゃない。研究者が使うやつ。しかも、かなりマニアックな」
ボックスの側面には、むき出しの金属フレームと、細い配線。
その一部が、屋上のコンクリートに沿って奇妙な図形を描いている。
「これって……」
佐久間が言いかけた言葉を、ケイは手で制した。
「黙って。今、まだ動いてる。——気を測ってるだけ、かもしれないけど」
風が一瞬だけ止む。
その沈黙の中、ケイはまるで聞こえないはずの音を聴くように目を細めた。
「……これ、完全に仕掛けてる。流れの読み取りじゃない。……成長を記録してるパターンだ」
「成長、って……何の?」
ケイは、ゆっくりと立ち上がりながら答えた。
「——龍だよ」
佐久間は観測装置の光を見つめたまま、唇を噛んだ。
(……このことを、会社に報告すべきなんだろうか)
ふと頭をよぎったのは、あの会議室の光景だった。
「霊障? 都市伝説だろう」
「まずは耐風圧の再計算だ」
理屈と手順で固められた世界に、透明な龍の存在が入り込む余地はない。
(どうせ、また一笑に付される)
佐久間は静かに息を吐いた。
報告するには、あまりにも証拠が足りない。
あれを見たのはカメラの向こう。ティエンロンも、ケイも——公式には存在しない声だった。
(……なら、俺が見届けるしかないのか)
ケイはスマホをしまい、視線をビルの影へと向けた。
すでに陽は高く、コンクリートの上に落ちる影も徐々に濃くなり始めている。
「……夜、もう一回来るよ。この手のやつは、大体、夜に動く。光の量が減ると、霊的な流れが表に出やすくなるからな」
「ひとりで、ですか?」
「そ、こっそりだな。あんまり目立つと、逃げるやつもいるから」
佐久間はケイの言葉を聞きながら、屋上の床に目を落とした。
翡翠色の破片。観測装置。歪んだ気の流れ。
そして、映像越しに見たあの龍。
「俺も、来ます」
「お、マジ? 佐久間って、意外と無茶するタイプだったっけ」
ケイが軽く笑いながら振り返る。
「どうせ、証拠もないのに上に掛け合っても、信じてもらえません。それに……」
佐久間は一拍置き、静かに言った。
「……見えちゃったんで」
一瞬、ケイの動きが止まった。
その顔から、いつもの軽口がほんのわずか、抜け落ちる。
「そういうの、無茶って言うんだよ。霊とは違うんだぞ、龍は。怪我する可能性だってある」
「でも、多分、俺が居た方が役に立ちます。忍び込まなくて済むし、ビルの中、俺の方が詳しいですから」
「……なんかもう、俺の代わりに依頼受けそうな勢いだな」
ケイはしばらく佐久間の顔を見つめ、そしてふっと口元を緩めた。
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