翡翠の兆し-龍を孕む都市- 1
ネオンが海霧に滲む頃、そのビルの骨格は静けさを抱いていた。
警備員は定時巡回の途中で、妙な胸騒ぎに足を止めた——足元から伝わるひそかな振動。
蛍光灯が一瞬だけ脈打ち、冷えた空気が肺に張りつく。
次の瞬間、ひび割れが走った。
外壁の強化ガラス——上質な盾のはずの一枚が爆ぜるように砕け散り、透明の刃が逆巻く雨となって床に降り注ぐ。
視界は銀の奔流。
舞い上がった破片が非常灯の緑を受け、翡翠色の光の束を描く。
——そこに彼は何かを見た。
歪む空気。細長い胴体、鱗のきらめき。
透明な龍。
ガラス片の乱流とともに、廊下を貫き、再び窓外へ——まるで夜空へ跳ね上がる光の残像。
鼓動の音しかしない。
砕けた破片が静かに床を滑り、冷えた大気にきらめきを残した。
無線機から、遠い階で同じ破砕アラームが立て続けに鳴る。
「42Fだけじゃない……!」
彼は溶けた声で管制に叫んだ——。
龍の影が、ビル全体を駆け回っているかのように見えた。
※
窓の外を、濁った朝の陽光が流れていく。
交差点に群がる人の波、無遠慮に鳴るクラクション、再開発地区を囲う鉄板の仮囲い。
そのすべてが、遠く感じられた。
佐久間の勤める総合商社トライネクストは、今まさに九龍半島の一角で進められている大規模な再開発プロジェクトの主幹企業だった。
地元デベロッパーや海外の投資ファンドとの連携を軸に、老朽化した市街地をオフィスと高層住宅を複合した「スマート都市」へと塗り替える計画。
佐久間は、その中でも旗艦案件とされた新築高層ビルのプロジェクトチームに配属されていた。
——そのビルで事故が起きたのは、昨夜のことだった。
複数階で外壁の強化ガラスが破砕し、警備員が軽傷。
ただし、人的被害以上に問題視されたのは、工事完了目前だった完成済み区画のガラスが、理由もなく連鎖的に破壊されたという異常性だった。
早朝に開かれた緊急会議では、現場の工事関係者から「工事期間中から不審な現象が続いていた」という報告が上がり、一部では霊の仕業ではないかという噂まで囁かれていた。
「——霊?」
本部長の声が、脳裏に残響のようにこだまする。
あの冷ややかな一蹴。
都市伝説、迷信。
そう言われれば、確かに根拠は曖昧だった。
けれど破砕パターンは異常だった。
手元のタブレットに保存された写真。
破片の形状、放射状に広がる応力線——通常の風圧であんな割れ方はしない。
内側からの膨張もない。
まるで何かが、ガラスの内側に現れて、それを押し破ったように——。
(でも、俺には——見えてしまった)
昨夜の現場フロアに設置された監視カメラ。
破砕の瞬間、画面がノイズに覆われ、数フレームだけ妙な歪みが映っていた。
そして、その直後。
フレームの端を、何かが横切った。
蛍光灯の光を散らすように、銀の破片が舞い、その背後を、細長く、透明な影が貫いていく。
映像越しでもわかった。
あれは、ただの風じゃない。
龍——
鱗のような煌めきが、画面のノイズに混じって、確かに蠢いていた。
佐久間は小さく吐息をついた。
だが胸の奥の不安は、車体の揺れとともに消えてはくれなかった。
とはいえ、現場の状況を確認し、報告書をまとめなければならない。
原因不明の破砕事故とはいえ、あれはプロジェクト中枢の施設で起きた出来事だ。
誰かが、冷静に記録を残す必要があった。
そう考えることで、なんとか自分を納得させるしかなかった。
「目的地、着きましたよ」
運転手の声に肩をすくめ、佐久間はタクシーを降りた。
見上げる高層ビルのガラスは、朝の光を受けて冷たく光っている。
だが、その輝きは、どこか濁って見えた。
まるで、何かを取り込んで、まだ吐き出していないもののように——。
通用口で身分証を提示し、警備会社の担当と軽く挨拶を交わす。
昨夜、破砕が起きた42階付近は現在立ち入り規制がかけられているとのことだったが、「トライネクストの人間なら」と鍵を渡され、ひとりエレベーターに乗り込んだ。
加速とともに、地上の音は遠のき、静かになっていく。
鼓膜に張りつくような圧を感じ、蛍光灯の明かりがわずかに点滅した気がして佐久間は眉をひそめた。
チン、と控えめな音とともに扉が開く。
そこは昨夜、異常が報告されたフロアだった。
廊下の空気は冷えきっており、まだ冷房が動いていないはずなのに肌に張りつく。
足元には、ガラスの破片が散らばったままだった。
細かく、鋭く、翡翠色にかすかに光る。
踏むと音を立てそうで、佐久間は慎重に歩を進める。
そして、非常窓のある一角——警備員が「最初に破砕が起きた」と報告した場所に差しかかったとき、外気が差し込む窓の前に誰かが立っていた。
その立ち姿には、どこか古風な雰囲気があった。
素人が見てもわかるほど仕立ての良いスリーピース、それはわずかに英国調の気配を感じさせる。
黒手袋をはめた手にガラス片を持ち、まるで宝石でも鑑定するかのように、ゆっくりと光にかざしていた。
「あの、……あなたは?」
佐久間の問いかけに、男はゆっくりと振り返った。
白い髪に琥珀色の瞳がまっすぐに佐久間を捉える。
そして、やけに柔らかな微笑みを浮かべた。
「おや。関係者の方かな?——少し観察していたもので、気がつきませんでした」
佐久間は咄嗟に社員証を見せる。
「私はトライネクスト総合商社、再開発プロジェクトの佐久間です。ここの警備会社の立ち会いで入ったんですが……あなたは?」
「ヘンリー・ティエンロン。地磁気観測と構造振動の研究をしていまして。この建物の振る舞いが、少々、気になったのです」
「地磁気……?」
佐久間は眉をひそめる。そんな調査の話は聞いていない。
「まさか、無断立ち入りじゃないですよね?」
男——ティエンロンは肩をすくめた。
「もちろん許可は取ってあります。香港大学経由で……お調べになるといい。もっとも、そう簡単には辿り着けないかもしれませんが」
その言葉に、佐久間の胸にかすかな苛立ちと不安が同時に沸いた。
「不躾ですが——ご専門の方から見て、このガラスの破砕、何が原因だと思われますか?」
至って感情を抑える様に佐久間が言う。
ティエンロンはガラス片を床に戻し、外の空へ視線を投げた。
「龍ですよ。……まあ、比喩的な意味で、ね」
「は?」
「この都市には、かつて流れがあった。水脈、風脈、そして——霊脈とでも言おうか。それを掘り起こし、封じ、ねじ曲げた。その結果、こうなるのも不思議ではない。歪んだ気の通り道が、反発している」
佐久間は戸惑いを隠せなかった。
「……あの、科学的な説明をお願いします」
「私は科学者ですよ。ただし、科学とは、何を対象にするかで表情を変えるものです」
ティエンロンはふっと笑った。
「あなたは原因を探しているが……私は可能性に魅せられている。この都市は、まだ何かを生み出すつもりなのかもしれない。たとえば——人工の龍とかね」
その言葉を最後に、ティエンロンはまるで答えを与えたかのような微笑を浮かべた。
「……失礼。私の仕事は、あくまで観察ですから」
ティエンロンは軽く頭を下げ、ゆったりとした足取りで非常口のほうへ向かっていった。
その背中に、佐久間は思わず声をかけた。
「あの、ちょっと待ってください。人工の龍って……それ、どういう……」
「気になるのは、あなたのほうでしょう?」
振り返らずに言う声は、やけに静かだった。
「人は、理解できないものを意味あるものに変換したがる。そして、作り出したものにさえ運命を見ようとする、面白いですね」
非常口の扉が開き、閉まる音が冷えた空気に響いた。
佐久間は立ち尽くしていた。
床に散らばる翡翠色の破片が、まるで何かを追い出した痕跡のようにきらめいている。
ティエンロンの言葉が頭の中で繰り返された。
水脈、風脈、霊脈——、都市が何かを生み出す、人工の龍————。
空は高く澄んでいるのに、なぜか背中がじっとりと汗ばむような、そんな感覚が消えなかった。
しばらく毎週月曜朝7時に更新していきます。よろしくお願いいたします。