閑話
茶餐廳の窓辺に、ミルクティーの香りと、わずかな潮風が漂っていた。
夜の喧騒が遠くに響くなか、店内だけが別世界のような安堵感に包まれていた。
あの屋上の出来事が、まるで嘘だったかのように。
グラスに残った氷を見つめながら、佐久間が呟く。
「あの屋上の幽霊……結局、どうしてあそこまでして消されたんでしょうね。記録まで削除されて、しかも、あんな形で──」
ケイはスプーンを握る指先に力をこめ、プディングの表面を無造作に崩す。
伏せたままの目元に影が差し、低く言った。
「……記録から削除されたってことは、人の手が絡んでるとしか思えねぇ。そうなると──もう俺たちの出る幕じゃない」
言葉の端に、わずかに苦味が滲んでいた。
佐久間はその様子を見ながら、少し間を置いて、ぽつりと口を開いた。
「……ケイさんのお兄さん、どうしてあの場所にいたんですか」
佐久間の視線は、窓の向こう、遠くに霞んだビルの屋上へと向けられていた。
「それな、兄貴は普段は大陸で仕事してる、っていうか向こうじゃ相当偉いポジだしな。そんな奴がわざわざ香港に来るなんて、まずありえねぇ。呼ばれたんだよ、誰かに必要とされてな」
ケイの口元に、苦い笑みが浮かぶ。
「……あの屋上の幽霊は兄貴にしてみりゃ些末な案件だ。それを頼むってことは何かのついで……本命が別にあるってことだろうな」
ケイは言いながらも、その背中に微かなざわつきを覚えていた。
(兄貴が動くってのは、つまり──誰かが、動かしてる)
「……」
佐久間は、テーブルに置かれたレモンティーの水滴を指でなぞりながら、ぽつりとこぼした。
「もしかして、俺たち、まだ入り口に立ったばかりなんですかね」
ケイは答えず、ただ、スプーンをくるりと回す。器の底に残ったプリンが、小さく揺れた。
「……風が変わる時ってのは、だいたい当たる。あんまり当たってほしくねぇけどな」
その言葉が意味するものは、まだ曖昧で──。
だが、店のテレビに映ったニュースの字幕が、それを裏付けるように流れていた。
《九龍再開発区域──来月より調査再開へ》
それは、眠っていた何かが、再び目を覚ます合図だった。
お読みいただきありがとうございました。ここで一旦終わりです。