屋上の霊と視えない風水師 前編
佐久間遼は、取引先との打ち合わせのために、そのビルに立ち寄っていた。
──銅鑼湾。
香港でも屈指の繁華街であり、平日でも人の流れが途切れない。
巨大なLED広告が交差点の上で点滅し、トラムとバスがすれ違うたびに街は低く唸るような音を立てる。ショッピングモールの谷間を吹き抜ける潮風には、排気ガスとビルの冷房の匂いが混じっていた。
その喧騒の中、佐久間が入ったビルは、再開発の波に飲まれきれていない、少しだけ時代から取り残されたような空気をまとったやや古めのオフィスビルだった。
──違和感は、ビルに入った瞬間からあった。
ロビーの天井には近年の改装で設置されたらしいLED照明が並び、受付カウンターでは管理会社のスタッフが無言で警備カメラの映像をチェックしている。
エレベーターを降り、ふと立ち止まった佐久間は反射的に天井の隅に目をやった。
──薄く、けれど確かに、天井の一角に水滴の跡のような染みが浮かんでいるのが見えた。
(……なんか、嫌な感じするな……)
心の奥に、うっすらと靄のような不安が広がる。
とはいえ商談も終わり、会社に戻るところだった。
なるべく気にしないよう足早にその場を去ろうとした瞬間、佐久間の耳に軽い声が届いた。
「あれ、佐久間じゃん。お前なんでここにいんの? やっぱり縁あるな〜?」
声の方向を見ると、涼しい顔で手をひらひら振るケイが居た。
「えっ……ケイさん……どうして?」
まさかこのタイミングでまたケイに出くわすとは思わず、佐久間は思わず複雑な顔をした。
「まーたお前、こんなとこで霊でも踏んでんじゃねーの?」
にやりと笑うケイのサングラス越しの視線は、相変わらず余裕の色をしている。
「依頼だよ、依頼」
佐久間は安堵よりも先に、口を開く。
「依頼、ですか……あの、このビルなんか──……」
感じた違和感を伝えようとした、そのときだった。
天井の隅──さっき佐久間が視線を向けたあのシミのあたりに、何かがいた。
──女だった。
長い髪が濡れたように垂れ、赤い衣を身にまとった影。
その顔は見えなかったが、確かにそこから──まっすぐ、自分を見ている。
「っ……」
声が出ない。
肌が粟立ち、背中を氷のような冷気が這い上がる。
ケイを見ると、平然とスマホをいじりながら羅盤アプリを立ち上げていた。
「うん……反応はあるけど、弱いな。上の階かもしれない」
「……あれ」
佐久間の声はかすれていた。
ケイはちらりと彼を見るが、そのままふっと口角を上げた。
「何、どうした?」
──ケイの視線は、そこを通り過ぎていた。
女の霊はまだ、天井の隅にいて動かず、ただ、佐久間を見ている。
まるで、「気づいてるのはお前だけだ」と告げているかのように──。
ケイはそのまま羅盤アプリを起動し、 ビル屋上の方角と気流をチェックしながら、手際よく霊符と方位札を配置していく。
「気の流れ、崩れてんな……これ、放っておくと、屋上から何かが落ちてくるぞ」
そんな事をぼやく言動は一見いつも通り。
でも……結界の配置がやけに慎重で、符の位置を何度も確認している。
さらに、霊気の強さを示す羅盤の中心が震えているのに──ケイの目線が、微妙にズレている。
「……?」
佐久間自身も、その違和感が何なのか掴めていなかった。
ケイを見遣ると、すでに上の階を調べに行くためにエレベーターの前にいた。
スマホに表示された風水図を確認しながら、淡々と指先で何かを操作している。
「上だな、やっぱり。……屋上で結界張るか」
その背中が、何も躊躇していないことに気づく。
まるで、「このまま進めば、普通にいつものように終わる」とでも言いたげな落ち着きだった。
けれど、佐久間は──違和感を抱えたまま、エントランスで立ち尽くしていた。
(おかしい……絶対、おかしい)
さっきの視線。
あの女の霊──いや、何か。
ケイには見えていなかった……?
確かに気配は掴んでいたが、視線の向きがズレていた。
それは単なる角度や感覚の違いではない。
もっと──根本的に。
その可能性が脳裏をかすめた瞬間、喉がひゅっと鳴った。
それは、ただの霊よりも怖い「現実」だった。
──チンッ。
エレベーターの到着音が鳴った。
扉が開き、ケイが中に足を踏み入れる。
そのとき、ふと、ケイが後ろを振り返った。
「佐久間……来るか? 来ないなら、ここで待っててもいいぞ」
その言い方は、いつもの軽口のようでいて、どこか違っていた。
佐久間は、一瞬、足元を見つめた。
スーツの裾。
握った拳。
ポケットの中の、あの護符。
(……俺には、見えてしまった。だったら──)
彼は小さく息を吐き、ケイの隣に並んだ。
「……行きます。俺、見えちゃってるんで」
※
屋上のドアを開けた瞬間、佐久間は足を止めた。
──静かだった。
いや、異様に静かだった。
都心の屋上にもかかわらず、車の走行音も、ビル風の音さえも聞こえない。まるで、音そのものが屋上の空間に吸い込まれているような──そんな静寂。
厚い雲が空を覆い、日はまだ落ちていないはずなのに、空気が妙に暗い。
灰色がかった光が、コンクリの床にくすんで落ちていた。
「……ここか」
「依頼、どんな依頼なんですか?」
佐久間が足を踏み入れたのを確認しながら、ケイはひと呼吸置いてから答えた。
「ビルの管理会社経由で来た依頼。で、最近、ここの屋上で赤い足跡が現れるって通報が増えてる。しかも決まって、夕方、この時間帯にだけ」
スマホを取り出し、羅盤アプリを起動する。画面上に浮かぶ方位の針が、じわじわと揺れ始めていた。
「最初は、ただの水漏れか悪戯かと思われてたんだけどな。ある日から、女の霊を見たっていう報告が続いて──そのあとから、警備員が一人、辞めたんだと。誰にも理由は言わずに、な」
ケイの目は真剣そのもので、佐久間のほうをちらりとも見なかった。
「ここに来る前、屋上の監視カメラ映像も確認した。確かに誰もいないはずの場所に、水音と、何かの影。──それが、毎回、同じ時間に記録されてる」
風が、ふと止まる。
佐久間の喉が、無意識にごくりと鳴った。
「……その女の霊って」
「……詳しくは見えてねぇ。影だけだ」
ケイがようやく佐久間を見た。サングラス越しの視線には、妙な静けさと覚悟が宿っていた。
ケイが一歩踏み出し、スマホの羅盤アプリを操作する。アプリの針がくるくると回転し、ある一点でぴたりと止まった。すぐさま、彼はタブレットと電子符を取り出し、手際よく現場の四方に配置していく。
「気の流れ、めっちゃ歪んでんな……この角度、風じゃない。何かが足を踏み入れた痕がある」
佐久間は、そんなケイの背中を見つめながら、ある一点に視線が吸い寄せられた。
──足跡。
コンクリートの床に、濡れた足跡が、ぽつり、ぽつりと並んでいる。
赤茶けた水跡。裸足。かすれた指の跡。
それが屋上の隅から、まっすぐ彼らの方へと──
「……ケイさん、あれ──」
ケイは振り返らずに答えた。
「ああ。見えてるよ。……足跡だけな」
『足跡だけ』という言い方に微かな違和感を覚える。
そこに立っているものが、自分には──見えていたからだ。
でもケイの目は、その姿を完全に捉えていない。
──霊が、こっちを見ている。
ぼんやりとした輪郭。
赤い布が揺れ、髪が濡れて貼りついている。
屋上の奥。柵のすぐ手前に、女がひとり立っていた。
それは──まるで、何度もここから落ちたかのような存在。
「ケイさん、もっと右……じゃないですか?」
ケイの動きが一瞬止まる。
「……右か。そっちのほうが強く感じるか?」
ケイの口調に、今までにない焦りが混ざった。
彼の顔に浮かぶのは、いつもの軽口ではなかった。
読み違えた、というような静かな焦り──それが、初めて見えた瞬間だった。
佐久間の喉が、勝手に鳴った。
霊──いや、あの女は、確かにそこにいた。
赤い衣をまとい、濡れた髪を垂らし、柵のすぐ傍で、ただ、こちらを見ている。
──無表情。
だが、その目は明確だった。はっきりと、佐久間を認識している。
この世のものとは思えない、冷たい視線が、皮膚の上を這う。
「……ケイさん、来ます」
「来る……? どこ──」
ケイが言い終える前に、女が、動いた。
すう──っと滑るように地面を進み、濡れた足跡を一歩ずつ増やしながら、佐久間に向かって近づいてくる。
重たい水音もなく、ただ──まっすぐ、まっすぐ。
「うっ、わっ……」
佐久間は思わず後ずさり、背中が冷たいコンクリートの壁にぶつかる。
ケイも、女の足跡の動きには気づいたのか、慌てて霊符の一枚を投げた。
──しかし、それは、外れた。
符の結界は、女の進行方向とはズレた場所で炸裂し、青白い光が空を切っただけだった。
「ケイさん、そこじゃない! もっと右……!」
「え?」
ケイが目を細め、霊符アプリを再確認する。
しかし、スマホの羅盤は反応しているものの、霊の実体までは捉えていない。
──視えていない。完全に、見えていない。
霊が、手を伸ばす。
濡れた掌が、佐久間の胸元に迫る──
「ッ……!」
佐久間は、咄嗟にポケットの中の護符を引き抜いた。
ケイからもらった、小さな符。
構えも何もない。ただ反射的に、それを霊の前に突き出した。
──ぱん、と乾いた音がした。
赤い女の姿が、一瞬だけ揺らぐ。
濡れた髪が宙を舞い、空気に裂け目のような亀裂が走った。
その隙に、ケイが再配置した符具が今度は命中した。
「──結界・急展ッ!」
電子符が炸裂し、今度は霊の足元に青白い結界が浮かび上がる。
まるで一歩遅れたようなタイミングだったが、それでもギリギリ、接触を防いだ。
女の影が結界に弾かれ、すうっと後退していく。
ケイが息を吐きながら、佐久間の方を振り向いた。
「……今の、ヤバかったな」
そう言ったケイの口元は笑っていたが、サングラスの奥で目がわずかに細められる。
佐久間にはそれが、見慣れた「余裕の笑み」とは、どこか違って見えた。
「ケイさん、視えてないんじゃないですか?」
静かな声での問い。
ケイは答えない。 スマホの羅盤を見つめるだけだ。
「俺にははっきり視えました。でもケイさんの動きは、ずっと微妙にズレてた」
沈黙が落ちた。
ケイはため息をついて答えた。
「なーんとなくは、わかったんだけどなぁ……」
それは、肯定とも否定ともつかない返事だった。
そしてその時、佐久間は気づいた。
今まで、ケイは確信のある時にしか動かなかった。
霊の位置も、性質も、全部把握しているような顔で、符を投げ、結界を展開していた。
けれど、さっきのケイは、ほんの一瞬だけ──手探りだった。
「俺にだけ……視えてる?」
問いが、霧の中に沈む。
ケイは、すぐには答えなかった。
まるで言葉を選ぶように、無言のまま羅盤の反応を見つめていた。
そしてようやく、小さく息を吐いた。
「……そうだとしたら、どうするよ」
その言い方に、どこか焦りのようなものが混じっていた。
「俺は気配は読める。気の流れ、霊の揺らぎ、干渉反応──だが、形は……」
そこまで言って、ケイは口を閉じた。
言いかけて、踏みとどまる。
それが、ケイ・ラムという男にしては珍しく、ほんの少し脆い瞬間だった。
佐久間は、黙ってケイの横顔を見ていた。
いつもの軽口を叩く顔ではない。
けれど、その沈黙の奥には、葛藤とも焦燥ともつかない感情が渦巻いているように見えた。
「結界は一応張った。だが――……やっぱり、これ、ズレてるな」
羅盤を見つめながら、ケイが低く唸る。
ビルの屋上に霊的な気の揺らぎはある。だが、どこかぼやけている。核心に触れていない感触が、ケイの中に残っていた。
「こいつは……まだ引っ張り出せてねぇ」
彼は電子符を慎重に回収しながら、小さくため息をついた。
「一旦、引き上げる。仕切り直しだ」
「え、帰るんですか?」
「おう。……飯、行こ。茶餐廳。ほら、お前好きだろ?」
「えっ、なんで俺が好きって知ってるんですか……」
「知らないけど? 今、言っただろ?」
いつもの軽口――佐久間は小さく眉を寄せながらも、そのまま黙ってケイの後についていった。
※
銅鑼湾の裏路地にある、古びた茶餐廳。
昼時の店内は地元民で賑わい、湿気と油と甘いミルクティーの香りが入り混じっている。
「ワンタンメン二つ、アイスレモンティーと鴛鴦茶な。あ、俺のは氷抜きで」
馴れた様子で注文を済ませたケイは、椅子にどさっと腰を下ろす。
「……で?」
佐久間が、茶碗の湯気越しにじっとケイを見据える。
「俺にだけ見えてたって、どういうことですか?」
ケイはいつものように、レモンティーのグラスを片手にスマホをいじっていたが──その指先は、さっきから同じ画面を何度も往復している。
「おかしいんだよな……普通、ああいう霊って俺のほうに気配でくる。けど、今回は完全にお前を視てた」
ケイはワンタンをひとつつまみながらも、表情だけは妙に引き締まっていた。
「……しかも、俺には、見えてなかった。いや、なんとなく気配を感じてもズレてた」
佐久間は箸を止めた。
今の言葉の重みが、遅れて心に沈む。
ケイはスプーンをいじっていた手を止め、ふうっと息を吐く。
「……認めたくなかったんだけどな。お前が見てた女は、実際、俺には形がなかった」
「……は?」
「俺は気は読める。けど、霊そのものを視る能力は持ってねぇ、昔っから。
でも──だいたいはそれで問題ないんだ。気の流れ、場のゆがみ、揺れ……それを読めれば、ほとんどの霊は対応できる。ただ、今日みたいに波長が完全に合わないタイプがいると……もうお手上げってわけ」
その事実が、あまりにも静かに語られたので、佐久間はすぐには言葉が出なかった。
「じゃあ、なんで……今まで……見えてなかったって事ですか」
「そう、全〜部。感じて、予測して、流れを読んで、祀ってきたんだよ。はっきり見えないぶん、必死こいてな」
ケイはサングラスをずらし、わずかに視線を逸らした。
光を受けたレンズが、きらりと鋭く反射する。
「──これも補強のひとつ。レンズ越しだと、歪みがはっきり見えるんだ」
レモンティーの氷が、グラスの中でカランと音を立てた。
「見えてなくても、祀れる。でも……やっぱ、ちゃんと見えてる奴の存在ってのは、でかいんだよ」
佐久間は、茶碗をそっと置いた。
「……俺が、今見えてるのは、なんでだと思います?」
「さあな。でも……お前、霊感なかったわけじゃねぇだろ?」
ケイはそう言いながら、ニヤリと片目だけで笑って見せた。
「無理に抑えてたもんが、最近の巡りで開いちまったのかもな。あと……」
「あと?」
「だって佐久間、前よりずっと関わってきてるからな。縁ってのは、関わり続けると強くなる。視える視えないは、その延長線上だ。でもな、霊ってのは見える相手を選ぶこともあるんだ」
佐久間は、少し俯きながら、ぽつりとこぼした。
「選ぶ……」
「そっ」
霊が、自分に視られることを望んでいる。
「なんで俺……」
「霊もさ、見る者に影響されるんだよ、風水的にも気は相互作用するしな。例えば同じ霊でも見るヤツによって見え方が違う」
「俺が見るのは何時も赤い服着てる……、それもそう言う事ですか?」
「赤は生と死を両方引っかける色。赤は、語られなかったもの、祀られなかった記憶の象徴色……」
「…………ずっと、どの霊も何か言いたげにしていました」
「はぁ、それだよ、それ」
ケイはあっさりと言う。
「何かを感じ取ろうとする事は放っとけないって事。放っておけない奴ってのはな、だいたい巻き込まれる側なんだよ」
レモンティーのグラスに、細かい水滴がにじんでいく。
次の一口が、少し重たくなった。
湯気の向こうで、佐久間が少しだけ声を潜めて言った。
「……あの霊。屋上にいた、あれ。どうするんですか?」
ケイは、レンゲを口に運んでいた手を止めた。
その一瞬の間に、佐久間は気づく。
「今までみたいに、祀って納める……ってわけにはいかないんですか?」
ケイは、茶餐廳のざわめきを背に、しばらく箸先を眺めてから、ようやく答えた。
「……無理だな。あいつはもう、形が狂ってる」
「形……?」
「あれは人間の霊だったはずだ。けど、何かをきっかけに、そうじゃなくなった。だから、俺とは波長が合わなかったのかもしれない」
ケイの声が、いつになく静かだった。
「祀られてない。死んだことすら、まともに知られてない。……誰にも思い出されないまま、ビルの一角にずっといて、誰にも話しかけられないまま、視線だけを向けてくる存在だ」
「……」
「そんなの、怒るに決まってんだろ」
ケイはそう言うと、ポケットからいつもの羅盤アプリを起動したスマホを取り出す。
画面には、あのビルの立体構造が浮かび、屋上周辺に微細な霊的反応のログが点々と記録されていた。
「この反応の出方、普通じゃねぇ。時間帯が決まってる。おそらく、同じ時間に死んだんだ。毎日、同じ時間に、屋上から現れる」
指先で画面を示しながら、ケイが小さく言った。
「まずは、身元を調べる。あそこに誰が取り残されたのか、その記憶を掘り起こす。それが祀るための第一歩だ」
佐久間は、すっと息を呑んだ。
「じゃあ──」
「ああ。次、調べに行く。……お前も、来るんだろ?」
ニヤリと笑って言うケイ。
佐久間は、スープのレンゲを持ったまま、しばらく黙っていたが、やがて、ほんの少し肩の力を抜いて答えた。
「……放っとけないんで、やっぱり」
「はいはい、チョロいな~お前は」
けれど、その言葉にはどこか、安心したような響きがあった。