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港湾に眠る祠 後編

 ──びしゃっ。


 耳元で、水が跳ねる音。

 波の音にも似ていたが、もっと鈍く、ぬめりのある音だった。濡れた何かが、床を這うような、生き物の気配をまとっていた。

「……う、……っ、あ……」

 喉が、からからに乾いているのに、声が出ない。

 息を吸っているはずなのに、胸が膨らまない。

 佐久間遼は、夢の中で立ち尽くしていた。

 膝まで沈む冷たい水。くるぶしのあたりを、ぬるりと何かが撫でていく。

 立ち並ぶコンテナは崩れ、歪んだ鉄骨が斜めに突き刺さっており、霧はどこまでも深く、空と地面の境界すらあいまいだった。

 祠が見えた。

 朽ちた屋根。傾いた台座。

 泥にまみれ、半ば水に浸かったその中で、なにかが、こちらを見ていた。

 ──視線が、重い。

 形を持たぬ何かが、自分の存在を舐めるように辿ってくる。

 背骨の奥が、ゆっくりと冷たくなっていく。

 声を出そうとした。

 喉を震わせようとした。

 けれど、口の中には、潮水が満ちていた。

「……っ、か、は……っ!」

 息ができない。

 視界が揺れる。

 ふと、目の端に、祠の中の石像が映る──いや、映ったのではない。

 あれは、こちらの目の奥に、直接焼きついてきた。


 ──見つかった。

 ──呼ばれている。

 ──逃げられない。


 次の瞬間。

 ざぶん、と波が足元から跳ねあがり、濡れた手が脚をつかんだ。


「っは……!」

 佐久間は、荒い呼吸と共にベッドの上で飛び起きた。

 心臓が痛いほどに脈打っている。汗が背中をつたってシャツに染みこんでいた。

 外はまだ夜、カーテン越しに見える街灯の明かりが淡く部屋を照らしている。

「……夢、か……?」

 思わずつぶやいてから、掌を見た。

 指先が小刻みに震えている。喉が焼けるように渇いていた。

 コンテナヤードから帰って以来毎日同じ夢をみている。

 額にじんわり浮かんだ汗を拭い、台所に水を汲みに行こうとして、ふと足が止まった。

 ──なんとなく、クローゼットの隅が気になった。

 普段は見もしない段ボール箱。

「……なんで、今」

 そんな自問をしながらも、佐久間は手を伸ばした。

 箱の中には、古い風呂敷や写真、着物の切れ端──その下から、ひとつ、小さな布袋が出てきた。

 白地に金糸で、よくある御守りのように見えるが──裏には、見慣れない文字で何かが記されている。

「……これ、……ばあちゃんの……?」

 記憶の奥で、誰かの言葉がよみがえる。

『この子は見える子かもしれん。うちの血だでな……』

 ──あの時、誰かがそう言っていた。

 祖母はときどき、部屋の隅をじっと見つめていたと。

 夜中に、聞き取れない言葉を呟いていたと。

 幼い自分には、それがただの「怖い記憶」にしか映らなかった。

 だからこそ、忘れようとした。まるで自分の力を封じるかのように、あの記憶を、心の奥に押し込めていた──。

 今ならわかる。あれは視えていたのだ。

 そして、きっと、祖母も──。

 佐久間は、そっと御守りを掌に握った。

 体の奥に残っていた冷たさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

 だが、次の瞬間──部屋の窓の外で、「ぴしゃ……」と水音がし、思わず振り返ったが、そこには何もいなかった……。


 ──その直後、スマホが震えた。


 表示されたのは、会社の番号。通話の向こうで、営業部長の声が疲れたように響く。

「……すまん、夜遅くに。あの件、明日もう一度だけ現場見てくれんか」

「……ええ、わかりました……」

 返事をしながら、佐久間は思った。


 ──やっぱり、まだ呼ばれている、と。



 夜の港は、すべての音が吸い込まれていくような静けさだった。

 海沿いの貨物ヤードに、重機の影が沈み、クレーンの赤い警告灯だけがゆっくりと明滅している。

 昼間よりもずっと濃い霧があたりを包み、数メートル先すら霞んで見えなかった。

「……佐久間、顔色わっる」

 背後から現れた声に、佐久間はビクリと肩を震わせた。

 振り返ると、いつものボディバッグ姿のケイが立っていた。

 スマホを片手に、もう片方の手には護符の束。

「な、なんですか、いきなり……」

「いやいや、もうダメだ……これは夢だ……って顔してたぞ? 一回死んだか?」

 ケイは冗談めかして言いながら、サングラス越しにのぞく吊り目が細まる。

 しかし、佐久間の顔をよく見て、少しだけ真面目なトーンになる。

「……夢、視たんだな?」

その一言に、佐久間は答えられなかった。

ただ、静かにうなずいた。

「……あの祠が、夢に出てきました。濡れてて、沈んでて……誰かに見られてるみたいで」

「そりゃ見られてる、じゃねぇよ。呼ばれてんだよ、お前」

 ケイはふっと息をつきながら、やや意外そうな顔で佐久間を見た。

「今日は来ねぇかと思ったんだけどな。……ま、来るよな。視ちゃったやつは、みんな」

 そして肩をすくめて、少し笑う。

「つーか、会社から依頼来てたんだろ? 例のコンテナ、また様子見てほしいって」

「……なんで知ってるんですか」

「港湾事務所から俺にも入ってる。俺の方が先に動いてただけだよ」

 ケイはスマホの羅盤を確認しつつ、サビたフェンス越しに港の暗がりを見据えた。

 冷たい風が吹き抜け、霧の奥で、がしゃん、と何かが倒れる音がした。

「海からの祟りはな……引っ張られたら、終わりなんだよ」

 そう呟いたケイは、ポケットから小さな護符を一枚抜き出して、佐久間に差し出した。

「これ。今んとこ、お守り代わりにはなる。……俺は港湾の事務所に話つけてくる。少しここで待ってろ」

「えっ、ちょ、俺──」

 言い終わらぬうちに、ケイは背を向けて歩き出していた。

 迷いのない足取り。

 頼れるけど、やっぱり勝手なやつだ。

 佐久間は、ひとり残された港湾ヤードの縁に立ち尽くす。

(……なんで、またここに来てるんだ、俺)

 コンテナの隙間から覗く海。微かに波音が聞こえる……ような気がする。

 ポケットの護符を握る指が、じっとりと汗ばむ。

 心臓の鼓動が早い。息が詰まるような、圧迫感。

 湿った空気が肺に貼りついて、うまく呼吸ができない。

(昨日も……その前も……寝ても、起きても……ずっと、あれが)

 寝不足のせいで、頭がぼんやりと重い。

 視界の端がにじみ、遠近感が歪む。

 足元が、まるで液体の上に立っているようにぐらついた。

 まぶたの裏に焼きついた、赤い女の顔。

 眠っても夢に出てきて、目が覚めても、心のどこかに居座っている。

 あの無表情なまなざしが、今も網膜の奥でこちらを見ている気がする。

(……なんで俺なんだ……)

 自問するたび、理由がないことが余計に恐ろしかった。

 ──そのとき、霧が、すうっと開いた。

 ひと筋の裂け目から、音もなくそれが現れる。

 赤い着物。濡れた長髪。

 まっすぐ、まばたきもせず、こちらを見ている瞳。


 赤い服。

 濡れた長い髪。

 そして、感情のない目で、まっすぐこちらを見つめる女。


 水音ひとつ立てず、霧を裂いて迫ってくる。

「……っ、うそ……また、あれ……!」

 身体が凍ったように動かない。

 逃げようとした足が、地面に縫いつけられたようにすくむ。

 喉の奥が締めつけられ、息が詰まる。

 ──来る。確実に、こっちに。

 ポケットの護符を、震える手で取り出す。だが、手が震えて言葉が出ない。使い方も、わからない。

 女の気配が、すぐそこまで──


 ──びしゃん!


 霧の中、火花のような閃光が弾けた。

 護符が空中で炸裂し、女の目の前で眩い閃光を放つ。

「立ってろ、佐久間!!」

 怒鳴り声とともに、霧を裂いてケイが駆け込んでくる。

 その足音が、コンクリートを叩くように鋭く響いた。

 黒いシャツの裾を翻し、片手にはスマホを、もう一方には朱と金の文様が刻まれた護符を握っている。

「潮祟りはな、姿見た奴を引っ張るんだよ! お前が動いたら、終わるぞ!」

 スマホ画面には電子羅盤が起動され、結界陣の座標がリアルタイムで表示されている。

 ケイはそれを一瞥し、護符に霊符デバイスを重ねると、指先で器用に起動ボタンを押した。


 ──チッ。


 小さな電子音と同時に、護符に内蔵された符芯が淡く光り始める。

 金の紋が薄紫の光を帯びて浮かび上がり、空気が微かに震えた。

「起て、結界──鎮潮破魔・陸印ッ!(陸にて潮を鎮める破魔の印)」

 ケイの詠唱が叩きつけられるように響き、護符が唸りを上げて浮かび上がる。

 次の瞬間、空中に浮いた符が炸裂し、雷光のような閃光が赤い女の目前で破裂した。


 ──ズシャァァッ!


 赤い女の姿が、光に焼かれるように一瞬揺らぐ。

 その周囲を取り巻く霧も吹き飛ばされ、露わになった女の輪郭が、波のように歪みながらも、なお立っていた。

 ケイはすぐさま次の符具を展開する。

 スマホと連動した小型霊符デバイスをボディバッグから取り出し、起動。

「羅盤、反応上昇……いいね、追い詰めてる」

 彼の目は、すでに術士のそれだった。

 飄々とした笑みは消え、真剣な気配が肌を刺すように張り詰めている。

「──封じるぞ」

 彼の背後で、電子符の起動音が連なり始める。

 複数の小型符具が霧の中に配置され、そこから符を繋ぐ様に雷光の様な輪が広がる。

 まるで空間ごと編み込むように、パチパチと火花を散らしながら光の糸が赤い女を取り囲んでいった。

 封印陣が形成され、ゆっくりと、だが確実に──その輪が縮小していく。


 キィィ……ッ


 空気がきしむ音。

 赤い女の姿が陣の中央で歪み、かすかに口を開いた。

 その声は届かない。届くはずのない、誰にも理解されない悲鳴。

 封印陣が一点に収束し、最後の光が喉のあたりで束になった瞬間──


 ──ズンッ!!


 陣が破裂するように音もなく消えた。

 霧の中から光が引いていき、女の姿も、同時に──消えた。残ったのは静寂。

 まるで、そこに何もいなかったかのように。

 ただ、残ったのは潮の匂いと、消しきれない湿気の重みだけ。

 ケイは一歩、前に出た。

 スマホの羅盤は、まだかすかに震えている。

「……今のは表層だけだな。本体の怒りが形になった一部だろ。まだ完全には消えてねぇ。封じるなら、ここからやるしかない」

 佐久間は祠のある方を見つめた。

 脳裏に浮かぶただの石のかたまり──のはずなのに、じわじわと胸が苦しくなってくる。

 それはまるで、深い水底に引きずり込まれるような、そんな感覚だった。

「……正直、怖い、けれどどうして俺なんだという思いもあります」

 佐久間は正面からそう言った。

 だがケイは、サングラス越しにちらりと佐久間を見やって、いつもの調子で笑う。

「だろうな。まぁ、でも──前にも言った様に、もう匂いついてる。それにお前、ここに来た時点で、もう関係者だから」

 冗談めかした声色の裏に、真剣な熱がある。

 佐久間は深く息を吸い、そっと頷いた。

「……じゃあ、行くしかないですね」

 ケイはにやっと笑い、祠の前に歩を進める。

「そうこなくっちゃ。よし、封印準備に入るぞ」


 港の霧は、一層深く濃くなっていた。

 ライトは霞んでぼんやりと滲み、風もぴたりと止んでいる。

 前回来た時には、崩れたコンテナとともに荷物が散乱していたが、今はそれも片付けられていた。

 ただ、そこに残されているのは──錆びつき、半ば地面に沈んだままの小さな祠。

 そして、その脇に置かれた木箱ひとつ。

 ケイは、その傍らで黙々と封印の準備を進めていた。

 霊符を広げ、供物を並べ、静かな手つきで祭具の配置を整えていく。

「……この木箱、どうします?」

 佐久間がふと尋ねると、ケイはちらとそれに目をやってから、霊符の一枚を抜いて言った。

「一緒に封じる。……中の仏具も、祀られてた痕が強く残ってる。祠と一体になって共鳴してる状態だ。下手に分けると、また呼ぶ」

 その言葉に、佐久間はごくりと息をのむ。

 ケイは続けて、封印の結界を木箱まで届くように、陣の配置をわずかに調整した。

「……これ、供物ですか?」

 佐久間の問いに、ケイは頷いた。

 小さな白い皿に、米、塩、水、酒。

 さらに、地元の小さな商店で手に入れた線香と、祠の方角に合わせた方位符。

「形式じゃねぇ。ちゃんと“想い”で供えるんだ。……忘れてたって、思い出せばいい。それが一番効く」

 ケイは米を静かに皿に移しながら呟く。

「潮の神ってのは、流れを見てる。人の記憶も、想いも、巡ってなんぼ。……けど、忘れられた神様は、そこで止まる。流れが絶たれたら、溜まって、腐る」

 ──溜まった水は、やがて澱む。

「だから、もう一度、祀る。……今、思い出してるぞって、伝えるんだ」

 佐久間も、そっと供物を置き手を添えた。

 小さな水の入った皿の表面に、ぽたり──霧の滴が落ちた。

 その瞬間。

 風が、止まった。


 ──ぐぅぅ……っ……。


 祠の奥、沈んだ神像の空洞の目が、じっとこちらを見ていた。

 まるで「まだ足りぬ」と言わんばかりに。

「──来るぞッ」

 ケイが立ち上がり、素早く霊符を四方に配置していく。

 そのひとつひとつが、地面に触れた瞬間に青白く光り出す。

「霊符展開──起封結界、四象・鎮潮陣!(四象の理で潮を鎮める結界)」

 アプリと連動した符具が結界を描き、祠を中心に幾何学模様が走る。

 だが──それすらも、濡れていく。

 ずるり、と何かが地面を這う音。

 足元から、水が広がっていた。

「くそ、最後の抵抗か……! 空間が水場に引き込まれてる!」

 祠を中心に、まるで幻のような海面が広がる。

 コンテナの足元にまで浸り始め、佐久間は反射的に後ずさった。

「もう、引っ張り込まれるだけの存在じゃねぇ。ここに戻ってきたんだ……!」

 ケイの声が、祠の前で響く。

 彼は最後の霊符──朱と金で編まれた特製符を取り出した。

「──伏氣封印、祀神再立!(封じられた気を鎮め、神を再び祀り立てる術)」

 それは、封じると同時に祀るための符。

 信仰の再起動。

 忘れられた神に、「あなたはまだここにいる」と伝えるための、たった一枚。

 符が祠の中央に貼りついた瞬間、潮のような気が爆ぜた。


 ──ぐぅぅ……っ、ぎ……ぃ……


 空気が軋み、霧がざわめく。

 水面のように広がっていた幻影が、少しずつ──消えていく。

 霊符が淡く光りながら、祠を包むように結界を閉じていった。

「……忘れてたこと、悪かったな。でも、今は──祀ってるからよ」

 ケイが、祠に向かってそう告げた。


 ──ぱきん、と乾いた音。


 それは、何かが解けた音だった。

 港の霧が、風に乗ってゆっくりと晴れていく。

 夜が明けきる直前の港は、不思議なほど静かだった。あの濃霧も、うそのように晴れて、空の色が徐々に白んでいく。

 潮風が、ふわりと吹いた。

 佐久間は、静まり返った港を見渡しながら、ぽつりと呟く。

「……これで、終わり、ですかね」

 隣で霊符の反応を確認していたケイが、ひと息ついて答える。

「さぁな。潮の神は──しつこいからな」

 そこへ、佐久間がふっと小さく笑った。

「……でも、忘れられたくない気持ち、少しだけわかる気がします」

 その言葉に、ケイが意外そうに振り返る。

「俺も、ずっと見なかったことにしてきたんです。……子どもの頃、祖母が祀ってた何かのことも、今回のことも……。でも──思い出さないと、前に進めないって、今回少しだけ……わかった気がします」

 そう言って、佐久間はポケットから皺になったままの護符を取り出した。

 汗で滲んで文字がぼやけたそれを、祠に向かってそっとかざす。

 ──祀るという行為は、ほんの少しの「心を向けること」から始まる。

 ケイが、サングラス越しに佐久間を見て、ふっと目を細めた。

「へぇ……やるじゃん、佐久間」

 港の霧が、風に乗ってゆっくりと晴れていく。 

 夜が明けきる直前の港は、不思議なほど静かだった。

 あの濃霧も、うそのように晴れて、空の色が徐々に白んでいく。

 潮風が、ふわりと吹いた。


 湾仔の街が朝の気配を取り戻す中、二人は小さな茶餐廳チャーチャンテンへと吸い込まれていった。

「エビワンタンメン、二つ。あと、ミルクティー」

 ケイが慣れた調子で注文を済ませると、佐久間はぐったりと席に沈み込んだ。

「……はぁぁあ……」

「お疲れさん。なんか、顔死んでるけど」

「……そりゃもう、何日もまともに寝てませんからね……」

 佐久間はエビワンタンメンの湯気を見ながらぼやいた。けれど、どこかふっと緩んだ顔で、すぐに箸を取る。

 湯気の中から立ちのぼる出汁の香りに、胃がじんわりと反応する。

 ひと口、ふた口──目を細めて、ぽつりと漏らした。

「……うま……」

 その様子を見て、ケイはニヤリと笑う。

「だから言ったろ。茶餐廳はこうでなきゃな」

 佐久間は一旦箸を置き、ケイに向かい合う。

「俺、最初に依頼しに行った時は──どうせインチキ霊媒師だろって思ってたんですよ」

「まあ、似たようなもんだな」

 ケイは肩をすくめ、気楽に返す。

 けれど佐久間は、その言葉に続けて、ほんの少し言葉を選ぶように、静かに言った。

「……でも、ちゃんと来てくれるし、ちゃんと──出てきた霊を祓って、祀って、忘れられたままじゃないようにしてる」

 ケイの手が、ふと止まった。器の中で湯気がゆらめく。

 その奥で、サングラス越しの視線が、わずかに揺れた。

 一瞬だけ、笑いを絶やさないその顔に、記憶か後悔か、もしくは他人に見せたくない何かが透けたようにも思える。

「ま……あいつら、放っておかれるのが一番きついんだよ。……てかマジ、佐久間、そういうとこだぞ?」

 短く、ぽつりと。

 それだけ言うと、ケイはまたレンゲでスープをすくった。

 佐久間はそれ以上何も言わなかった。

 けれど、彼の中で、何かが確かに変わっていた。

 スープをすすり終えたケイのスマホが、机の上で震えた。

 新たな着信。

「……ん?」

 画面を見て、ふっと眉を上げる。

 どこか、面倒くさそうで、それでも断れないような雰囲気だった。

「……おいおい、またかよ……今度は、ビルの屋上に誰もいないのに赤い足跡が続いてるって? マジか……」

 佐久間が、目を細める。

「……依頼受けるんですか?」

「んー、行くつもりなかったけど、なんか──気になる」

 スマホをテーブルに置き、ミルクティーをひとくち。

「……あと、ちょっと調べてぇこともあるしな」

「調べる?」

「……ま、そっちはそっちで──俺に見えてないモノ、確認しねぇと」

 佐久間が、一瞬、箸を止めた。

 けれど、ケイの視線は外の街を見ていた。

 まだ陽が昇りきらない香港の朝。その静けさの向こうで、またひとつ、何かが動き始めていた──次の交差点へと。

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