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港湾に眠る祠 前編

 朝の湾仔は、いつもより静かだった。

 通勤ラッシュ前の街路には、湿った空気と早朝の光が差し込み、遠くからトラムのベルがちりんと鳴っている。

 出勤途中の店主が、シャッターを開けながら広東語で挨拶を交わし合い、街角の茶餐廳からは濃いミルクティーとバターたっぷりの菠蘿包ポーローパウの匂いが漂っていた。

 ビルの谷間を抜ける海風が、湿気と潮気、大陸の空気を運んでくる。

 上空には古びたネオン看板がまだ薄く明滅していて、それでも香港の朝は、どこか眠たげで──けれど、すぐに喧騒に目を覚ます準備をしているようだった。

 佐久間遼は、紙コップのコーヒーを片手に、ビジネス街へ向かって足早に歩いていた。

 スーツの背中には、湿気がじっとりと張りついてくる。

 けれど──彼の胸の奥に張りついていたのは、もっと別の感覚だった。

 先日のオフィスビルでの出来事──赤い女、像、封印、霊符──。

 あれは、まるで夢だったかのように、何事もなかったかのように、日常は戻っていた。

 何も起きなかった。

 だからこそ、逆に落ち着かなかった。

 妙な静けさ。

 静まり返った湾仔の朝が、かえって不気味に感じる。

 それがただの杞憂で終わればよかったのだが──。

「……佐久間くん、ちょっといいかなぁ?」

 会社に着くなり、営業部長に呼び止められた。

 嫌な予感しかしない声色。

「実はさ、うちの輸入品コンテナがね……南湾の港でちょっと、トラブってるみたいでさ」

「……はぁ」

 佐久間は、コーヒーを一口だけすする。

 温かいはずの液体が胃の奥で冷えていく気がした。


 港湾。


 あれは、確かケイ・ラムが帰り際に口にしていた場所だった。


「……ったく、今度は南湾の港沿いかよ」

「俺はもう行きませんからね」

「はは、一緒に行くなんて言ってねぇじゃん」


 あのやりとりが、頭の隅でノイズのように鳴っている。

『本日未明、南湾港で貨物コンテナの落下事故が発生。作業員は軽傷──』

 オフィスのテレビ画面には、赤く点滅する港の警告灯と、事故現場のコンテナ群が映っていた。

 その中に──一瞬だけ、何かが立っていた気がした。



 南湾の港は、朝から濃い霧に包まれていた。

 空はどんよりと曇り、高くそびえるガントリークレーンが、霧の中で巨大な鳥のように首を振っている。

 赤と青に塗られたコンテナが何百、何千と積み上がり、無数の金属の壁が迷路のように連なり、クレーンがコンテナをつかんで運ぶたび、鉄が軋む音が港全体に響きわたる。

 濡れたコンクリの地面に、作業員たちの足音が反響しては消えていく。

 遠くから、貨物船の汽笛が低く鳴った。

 佐久間は現地スタッフの案内で、問題のコンテナエリアへ向かっていた。

 黄色いヘルメットを渡され、仕方なく頭にかぶる。スーツ姿には似合わない。

「ここが、問題の現場っす」

 若い現場作業員が、指でコンテナを示す。

 海風のせいか、コンテナの表面は潮気で湿っていた。

 赤い印刷で「封印済」と印刷された赤いテープ。

 本来なら、輸送前につけられたシールロックが切れるはずはなかった。

 だが、そのテープは──途中で、ビリッと引き裂かれていた。

「誰も開けてないんですか?」

「開けてねーっすよ。てか監視カメラ見ても、誰も映ってないのに開いてたって記録が残ってて……」

 作業員の顔が、わずかに青ざめる。

「それに、昨日の夜勤明けの奴が言ってました。中で、誰かがノックしたって……」

「ノック……?」

 コンテナの中から、誰かが。

 ぞわり、と背中を冷たいものが走った。

 そのとき。

 霧の向こうから足音がした。

 振り返ると、霧の中にふっと立つ、その姿に佐久間は頭を抱えた。

 嫌な予感がやっぱり的中したのだ──なんで、よりによってこの男。

「あれぇ、佐久間じゃん」

「ケイさん……なんでここに……」

 佐久間はげんなりとした声を出す。

 クレーンの脚の陰から、ひょっこりとケイ・ラムが姿を現す。

「依頼だよ」

 ケイはスマホの羅盤アプリをくるくると回しながら肩をすくめた。

 黒いシャツの裾をひらつかせ、スマホ片手に涼しい顔、相変わらず大きめの色付きの丸いサングラス。

 その表情には緊張感のかけらもなく、むしろ──

「もう行きませんって言ってたよな? ほら、あの時。言い切ってたじゃん?」

 にやり、と口角を上げるその顔は、相変わらずの胡散臭さ全開だった。

 足元は霧に濡れているのに、まるでランウェイでも歩いてるかのように身軽な足取り。

「ま、来ちまったもんはしょうがねぇか。俺の方はさ、この港のクレーン夜になると勝手に動くって話。で、現場が「あのケイ・ラムに頼めば」って紹介してきたの」

「……いや、なんで名前売れてんですか」

「ちょっとした営業努力? あと口コミ?佐久間だって口コミで俺んとこ来たじゃん?」

 ケイはずずいっと佐久間の隣に並ぶと、問題のコンテナを見つめた。

 赤い「封印」のテープがビリッと裂け、中から潮気とは違う、妙に重たい空気が漏れている。

「……何かあるんですか?」

「けどね──ここ、上じゃない」

「?」

「もっと奥だな。あのあたり下層、コンテナの山が崩れてて、その奥」

 アプリを見ていたケイの目がすっと細くなる。

「たぶん、誰かが開けちゃいけない祠、動かしちゃってる」

「祠……って……この前みたいな、信仰の……?」

「そ、古いやつ。しかも、捨てられた信仰。そういうのが一番、しつこい」

 ケイが不意にポケットから霊符の束を引っ張り出す。

「……嫌な感じするな。こっから先、マジで覚悟しとけよ、佐久間」

「……あの、俺、現場確認だけで帰る予定なんですけど」

「おっせーよ。お前、もう見えちゃってる側だぞ?」

 ケイのにやっとした笑みに、佐久間は本気で頭を抱えた。

 飄々とコンテナの上を渡っていくケイの後を、佐久間はぎこちなく追いかけた。

 スーツの裾を気にしながら、足場の悪い鉄板の上を恐る恐る踏みしめる。

 霧で湿ったコンテナは滑りやすく、足が少しでもズレればズシャッと音を立てる。

「……あぶっ」

 思わず片足を踏み外しかけ、慌ててコンテナの縁に手をついた。

 背中にじんわりと汗がにじむ。

 振り返れば、港の向こうに曇天とクレーンがぼんやりと浮かんでいた。

 こんな場所、普通の会社員が来るところじゃない。

 ケイはそんな佐久間の様子を気にするでもなく、前方でスマホの羅盤をくるくるといじっている。

 足元は微妙に傾き、霧に濡れた鉄板が靴の裏にぬるりとまとわりついた。

 その足元から、何かがじわじわと這い上がってくるような、そんな錯覚すらあった。

「……で、あのあたりにある佐久間の会社のコンテナって、何が入ってんの?」

 ケイが半分楽しそうに指を指しながら言う。

 佐久間は少し眉をひそめてから、胸ポケットからスマホを取り出した。

「えーっと……たしか、そのへんの番号……」

 指先で社内の物流アプリを立ち上げ、該当のコンテナIDを検索する。

 表示された情報をざっと確認して──小さくため息をついた。

「……仏具。それと……線香と香炉、あと、使いかけの経典。全部、返送品ですね」

 ケイの顔がぴくりと動く。

「返送?」

「ええ。海外の寺院から正式な供養を終えたから返すって話で、本社が引き取ったらしいです」

「うわー……香に仏具。そういうの、余計呼ぶんだよな」

 ケイがスマホで羅盤を立ち上げる。

 アプリの針がぐるぐると回転し、ピタリとコンテナの真上で止まった。

 しかも、中央に現れる黒点が、微かに震えている。

「おーおー、しっかり反応出てるわ。やっぱり下だ。下層に何かある」

 ケイが羅盤が差した方向のコンテナを一瞥して、あっさりと下へ飛び降りた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 佐久間はあわててケイの降りた先を覗き込んだ。

 ケイの歩みの先には、確かに崩れたコンテナが見える。

「まさか、行くんですか? その先に」

「うん。俺は行く。お前はどうする?」

「……いや、俺は確認だけで──」

「だったら帰っていいぜ?」

 ケイは振り返らず、さらりと言った。

「ただし、一度見たものから目を背けた奴に、霊は一番しつこい」

 ぴたり、と佐久間の足が止まる。

「な、なんなんですかその呪いみたいな理屈……」

「呪いじゃねぇよ。習性だよ。相手は誰に見つかったかを忘れねぇからさ」

 その声に、先日の赤い女の姿が脳裏をよぎった。

──見てしまった者は、もう、関係者だ。

「……はぁああああ……」

 佐久間は顔を覆ったあと、観念したようにその後を追いかけた。

 ケイが足を止めたのは港湾の片隅、コンテナヤードの裏手。

 崩れた積み荷の隙間に、まるで忘れ去られたように──サビつき半壊した祠があった。

 潮風に晒され、鉄と塩のにおいが鼻をつく。

 周囲の足場はぬかるんでいて、祠の台座も片方が沈んで傾いている。

 崩れた鉄骨とコンテナの隙間にぽっかり空いた、その空間を見た瞬間──ぶわっ、と全身の肌が粟立った。

 理由はわからない。

 ただ、視界に入った瞬間に、何かやばいと佐久間の本能が叫んだ。

 背中に冷たいものが走り、指先がじんと痺れる。

 言葉にならない拒絶感。

 まるで、そこに近づくなと誰かに警告されているような……いや、違う。


 ──そこに、誰かが待っている気がした。


 ケイはしゃがみこみ、祠の内部を覗き込む。

「……あ〜、やっぱ潮の神様だな」

 指先で祠の屋根を軽く叩き、砂を払う。

「忘れられてるどころか、埋められたんじゃねぇか?」

 ふっと肩をすくめて笑ったが、目は真剣だった。

 ──石像。

 小さな祠の台座から、半ば泥に沈みかけたそれが、じっとこちらを見ていた。

 丸い目、波打つ衣の彫刻、胸元に抱かれた壺。

 どこか海を思わせる意匠。

 だがその表情は、どこまでも無表情で、静かに怒っているようにも見えた。

 ケイはしゃがみ込み、スマホとタブレットをほぼ同時に操作する。

 片方では方位気を読む羅盤アプリ。もう片方では地図アーカイブと古写真を検索していた。

 画面に表示されたのは、1960年代の港湾再開発計画。

 その中に、手描きの地図が一枚──小さなマークに、読みづらい筆文字。

 ケイの指先がスマホ画面をスライドする。

 羅盤の中心に現れた黒点が、ぴくりと震えていた。

「潮神系。ガチのやつだ、これ……」

 ケイはそう呟くと、タブレットで何かを探すように素早く画面をスクロールした。佐久間には、古い漁村の写真や、手書きの航海図のようなものが次々と表示されているのが見えた。

「潮神って……そんな昔の神様が、まだこんなところに……」

 佐久間の言葉に、ケイは少しだけ顔を上げた。

「忘れられた神ほど、厄介なんだよ」

 そう言うと、ケイは祠の周りをゆっくりと歩き始めた。

 苔むした台座、ひび割れた屋根、そして泥に埋もれた石像。

「昔の人は、海に出るのが命がけだったからな。本気で神様を祀ってたんだ。でも、時代の流れで忘れ去られちまった。供え物も途絶えて、ただここに置き去りにされたまま……」

 ケイの声は、どこか寂しげだった。

 佐久間は、泥に沈んだ石像の無表情な顔を見つめた。まるで、深い海の底で静かに怒りを溜め込んでいるようにも見えた。

「流れを司る神様だ。祈りも、想いも、物も、人も、全部流れに乗せて運んでいく。でも、その流れを無理やり止めちまうと……どうなると思う?」

 ケイは振り返り、佐久間の目を見つめた。その瞳の奥には、強い警告の色が宿っていた。

「……潮神か」

 呟くように言いながら、ケイはスマホ画面をタップして図を開く。

 そこには、風水術と道教術式における潮神の構造式が記されている。


 ──潮神:流れを司る。

 ──物と心と気の往来を整える存在。

 ──供物や祈りが流れの媒介であり、祠は流れの起点でもある。


「祠を壊すってのはよ……つまり、流れを堰き止めるってことなんだよな」

 流れを止められた念、祈り、霊的な力。

 それらは行き場をなくして溜まり、やがて溢れ、そして──戻ってくる。

「そういう潮ってのはな……時間が経つほど、引きが強くなるんだよ」

 ケイはふと、石像の隣に立てかけられた木箱に目をやった。

 崩れたコンテナから飛び出してきた積荷のひとつだろう。そこには、佐久間の会社のラベルが貼られている。荷札には、英語で細かい配送情報と共にこう書かれていた。


 ──返送元:ミャンマー某地仏教寺院

 ──内容物:仏具一式(香炉、金属製仏像、供物台)


「佐久間、これもお前んとこのやつ?」

 ケイが、石像の隣に立てかけられた木箱を指さした。佐久間は近づき、ラベルに書かれた番号を確認する。

「間違いありません。海外の寺院から返送された仏具ですね」

 佐久間が答えると、ケイはすぐにスマホを取り出し、羅盤アプリを起動した。

 針は激しく揺れ、そして、木箱と祠の間を行ったり来たりするように震え始めた。

「こりゃあ……」

 ケイは低い声で呟いた。

「やっぱりな」

「何がですか?」

 佐久間が尋ねると、ケイは木箱を指さした。

「仏具。しかも、古い寺から返送されたって言ったな? ちゃんと祀られてたものには、強い気が残るんだよ。それが、忘れられた神様の祠のそばにある。まるで、寂しさを埋め合わせるみたいに、引き寄せ合ってるんだ」

 ケイはそう言うと、羅盤アプリの画面をじっと見つめた。中心の黒点が、さっきよりも強く脈打っている。

「共鳴してる。完全に」

 返送された神具。かつて祀られ、祈られた存在。だが今は、それを捨てるように戻されたもの。

「忘れられた神と、捨てられた神具。そりゃ、波長が合うわけだ」

 ケイはタブレットの地図をズームしながら、まるで独り言のように呟いた。

「しかもこいつ、潮の神……寄るんだよ。波が届くとこまで」

 その言葉に、佐久間の背中がひやりと冷える。

「え……つまり、これ……俺のところに……?」

 思わず口から漏れた問いに、ケイは少しだけ口角を上げる。

 けれど、その目だけは笑っていなかった。

「運が悪かっただけだよ。──ただし、視た奴に反応するのも事実。つまり──」

 ちらりと、佐久間の顔を見た。

「──お前、もう匂いがついてるんだよな」

 その言葉が、心臓の奥に沈んだ。

 あの赤い女の視線。

 港で感じた濡れた空気。

 そして、祠の奥に沈むような視線。

 ──見た者は、もう無関係ではいられない。

 その意味が、いまさらながら、骨の髄にまで染みてくる。

 そのときだった。

 ふと、コンテナの側面。

 そこに──濡れた手形が、ひとつ。

「……っ」

 佐久間が反射的に振り返る。

 だが、そこには、何もなかった。

 ただ、潮気と霧に濡れた鉄板が、静かに滑らかに光っているだけだった。

「……ま、今封印しても、また物理的に壊されちゃ意味ねーしな」

 ケイは立ち上がり、崩れかけたコンテナ群に視線をやる。

 その口調はあくまで軽い。けれど、声の奥には、わずかに迷いが滲んでいた。

「今日は一旦引き上げるか」

 祠を背にして歩き出すケイ。

 その背中を、佐久間は追いかける。

 しかし、彼の足取りはどこか重かった。

 胸の奥に、さっきの祠の空気が、まだまとわりついている。潮の匂い。濡れた石。忘れられた神の視線。霧の中、振り返りざまに視線だけを戻した。

 半壊し、泥に沈みかけた小さな祠──その奥で、石像が、静かに、変わらぬ表情でこちらを見ていた。

 何も言わず、何も動かず。ただ、怒りと嘆きを溜め込んだまま……まだ終わってない。そんな直感が、喉の奥に引っかかっていた。

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