翡翠の兆し-龍を孕む都市- 3
陽が沈み、都市の灯がネオンのように瞬き始める頃。
ビルの谷間に吹く風は、昼間とは別物だった。
ひんやりとして、どこか湿っている。皮膚の内側を撫でるような感触が残る。
佐久間は通用口の鍵を差し込みながら、思わず背後を振り返った。
誰もいない。だが、視線を感じた気がした。
「……気のせい、だよな」
エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
42階——昨夜の破砕現場と同じ階。
内部の照明は最小限。
蛍光灯が、まるで深呼吸をするように、ふっ……と瞬きを繰り返す。
耳が詰まるような感覚。
エレベーターが止まる寸前、天井スピーカーが一瞬だけキィという金属音を漏らした。
——それが、前兆だった。
チン、と扉が開くと、目の前の廊下に微かな音の残響が漂っていた。
風が通る音ではない。もっと、深いところで鳴っている。例えるなら、巨大な何かが、うねりながら呼吸している音。
(この感じ……昼間の呼吸と、同じだ)
佐久間はそっと歩を進めた。
翡翠色の破片は、清掃されずにそのままだった。いや——新たに増えている。
足元に、小さな欠片。昨日はなかった配置。
よく見ると、それは線のように並んでいた。
まるで、何かが這いずるように——。
「……ケイさんに連絡しないと」
ポケットからスマホを取り出そうとした、そのときだった。
——ピシィン。
頭上に静かな音が響いた。
次の瞬間。
バンッ! バキィィィン!
廊下の窓ガラスが、一斉に砕けた。
まるで透明な爆風が走ったかのように、10枚以上の強化ガラスが順番に破裂していく。
佐久間は反射的にしゃがみ込んだ。
鋭利な破片が乱舞し、光を反射しながら空間を切り裂く。
——そして、それが現れた。
空気がぐにゃりと歪み、蛍光灯の光がプリズムのように分裂する。
透明な龍。
その形は明確ではない。
だが、輪郭だけが見える。
ビルの廊下を、破片と光の流れを引き連れて進む、巨大な存在。
その鱗はガラスのように煌めき、尾の軌跡は、空間を裂いていく。
龍は、廊下の端から端までを一瞬で駆け抜け——壁をすり抜け、夜空へ跳ね上がった。
残されたのは、びりびりと震える空気と、破壊されたガラスの残響だけ。
佐久間は、音もなく座り込んだまま、ただ唖然とその軌跡を見送っていた。
龍は、彷徨っているように見えた。
まるで、自分の通り道を探しているかのように——
「無事ですか?」
落ち着いた声が、後から聞こえた。
振り返った佐久間の顔に、安堵と困惑が同時に浮かぶ。
非常口の影から姿を現したのは、黒いスーツをまとった長身の男だった。静かな眼差しには、強い意志と冷静な観察者の光が宿っている。
「え、あれ、……ケイさんの……林 昊天さん?」
「ええ」
昊天は軽く頷きながら、廊下に散らばる破片を一瞥した。
「……龍の気配がここまで強まっているとは思いませんでした。少々、予定外です」
「どうして、ここに……?」
「私は、この付近の龍脈を管理するために呼ばれました。……ですが、昨夜から——その流れが、わずかに変化しはじめている」
昊天はふっと視線を落とし、上着の内ポケットから細長い巻物状の物体を取り出した。
数枚の黒檀のような木札が、黒革の紐で繋がれている。
木簡——符の記録具。
表面には細密な符文が彫られ、ところどころに淡い金が光を帯びていた。
「……この地点での反応は、昨夜から高まっていました。ですが、今のこれは──龍が新たに産まれる感じに近い」
昊天は手元の木簡をゆっくりと撫で、一枚の札を静かに抜き取る。
その瞬間、札に刻まれた印が淡く発光し、周囲に漂っていた霧のような気が、すっと引き寄せられるように吸い込まれていった。まるで、そこにあるべきでなかったものを、ただ収めるために。
佐久間は思わずその動きに目を奪われた。
無駄がなく、淡々としていて、どこか日常の延長としてそれが行われているようだった。
木簡を巻き直しながら、昊天はぽつりと呟いた。
「……これはあくまで一時的な封じです」
彼の視線が、翡翠の破片が残る床をゆっくりと見渡す。
「この龍脈は目覚めかけている。本来なら術式を展開して根元から鎮める必要がある。ただ、ここは——構造上、あまりにも干渉が難しい」
そう言いながら昊天が床を見た。
「構造……ですか?」
佐久間が問い返すと、昊天はわずかに頷いた。
「このビルの基礎は、旧結界の上に直に組まれている。物理的に術の通り道が塞がれているんです。正規の術式を使えば、下層の気脈に干渉できない」
「じゃあ……完全には、封じられない?」
「今のままでは、いずれまた目覚めるでしょう。しかも、今回のような揺らぎではなく、より強い反応として」
そのとき——
「へぇ〜……ずいぶん深刻に語ってくれるじゃん、兄貴」
軽い声が、非常口の方から響いた。
佐久間が驚いて振り向くと、そこにはおなじみの男が立っていた。
サングラスを額に上げ、スマホを指先でくるくると回しながら、にやりと笑う男——ケイ・ラム。
「……ケイさん」
「龍脈がどうの、術式がどうのって……また『正解』で世界を締めようとしてんじゃねーだろうな」
その声に、昊天はちらりと目を向ける。
兄弟の視線が交差する。だが、挨拶も、言葉も、ない。
ケイは破片の中を軽やかに歩きながら、ひょいと佐久間の隣に立った。
「……で、こっちはどう? 無事だった?」
「なんとか……ですけど、龍が見ちゃって……」
佐久間がそう答えた瞬間、昊天が一歩前に出る。
その声音は変わらず落ち着いていたが、そこに含まれる静かな圧は明確だった。
「ケイ」
昊天が低く、静かに言った。
「彼をこれ以上、巻き込むな。視える資質があるとはいえ、術を使えるわけでも護符を扱えるわけでもない。ただ視えてしまっただけでは、何も守れない。……命すらも、だ」
その声音には、同情でも憐れみでもない。
ただ、淡々とした事実の確認としての言葉だった。
ケイはその言葉に、ふっと鼻で笑った。
「巻き込んでるんじゃなくてさ、兄貴。こいつはもう巻き込まれてるんだよ。──それに、何もできないなんて、兄貴が決めることじゃないだろ?」
昊天は返さなかった。
ただ、ほんのわずかに目を伏せ、気配を静めるように息を吐いた。
「……で? さっきの木簡、使ったんだろ。あの龍どうなった?」
「一時的に鎮めただけだ」
昊天の返しは、あくまで冷静だった。
「気配の主はまだ完全には顕現していない。今はただ、次の兆しが動き出すのを待っている」
ケイは少しだけ口元を歪め、ポケットからスマホを取り出した。
「……やれやれ。正攻法で封じられないなら、別の道を探すしかないか」
佐久間は、ふたりのやり取りを見守りながら、再び胸に視えたものの記憶を浮かべていた。
あの透明な龍。あの、空間が裂けた感覚。
そして、その気配の残滓が、今もまだこの空間に微かに残っている気がしてならなかった。
瞬間、ビルの廊下に、微かな音にならないうなりが響いていた。
照明が一瞬だけ明滅し、誰も触れていないのに、セキュリティゲートが一度だけピッと鳴って開閉する。
ケイ・ラムは、そのすべての異変に耳を傾けるように目を細めた。
「……嫌な感じだな」
彼は独自開発した風水アプリを起動する。
回転する羅盤が一拍遅れて停止し、現在地に合わせて霧のようなレイヤーが浮かび上がる。
その瞬間、画面の中心——地下方向に、赤い渦が脈打った。
龍脈の流れを示す線が、下方へと沈み込むように伸びている。
「……龍の気が、また動いてる。これは……無理に通ろうとしてるな」
呟きながら、ケイは画面を拡大し、渦の中心に重なる構造体のラインを確認する。
「あれが、また?」
「まだ起きてはいない。けど、通路を探してる感じ」
「通路……?」
ケイはスマホを傾け、佐久間に画面を見せた。
「これ、龍の気の流路。さっきの封印のときは上向きだったけど、今は下に伸びてる」
そこに、昊天が言葉を挟んだ。
「この地域の古い霊脈記録に井の口と記された場所がある。地脈から気が地上に上がる、いわば龍の呼吸孔のような地点。そこを封じるために、かつて結界が張られていた」
彼はふっと目を細め、静かに言葉を続ける。
「都市が成長する中で、それは消された。だが……気の流れは、痕跡を辿るもの。おそらく今、龍はその旧通路を使って、再び地上に出ようとしている、一時的に鎮めたが、おそらくすぐに出てくる」
佐久間ははっとして顔を上げる。
「……ちょうど、地下三層の排水施設があって、今は封鎖されてます。でも図面上、明らかに井戸を埋めた痕跡がありました」
ケイは画面を指でなぞると、スマホをポケットにしまった。
「じぁあ、行くしかないな。……井戸の底へ」
毎週月曜朝7時更新予定です。よろしくお願いいたします。