夏-1
ミーンミンミン……
蝉が必死に鳴く度に文は耳を塞いでしまいたかった。
夏休みは学校が長期休暇になり、友達はみんな何をして遊ぶか話し合っている。
その会話の中に文はいつも混ざれないでいた。
家族と出かけるなんてこと、記憶の中には存在しえないものだった。
夏休み中は5時起床。起きてすぐに父から渡された課題を1時間でやり遂げる。全問正解でなければ朝食は抜き。
7時から18時まで講義。19時から23時まで模擬試験。23時から父が満足するまで復習。
夏休みという名の地獄はいつも、文を憂鬱にさせた。
「それでは皆さん、また9月に元気な姿で会えることを楽しみにしています」
担任の先生がそう言うと、教室はあっという間にもぬけの殻になった。
「……かえろう」
自分にそうやって声を掛けてやらないと椅子から立ち上がれない気がした。
重たい腰をあげて教室を出ると2つの影が文を待ち構えていた。
「あ!文くん」
「一緒に帰ろう!」
近所に住んでいる日乃出と清花姉弟だ。
「文くんの先生、お話ながーいね」
清花が文の手を握って歩き出す。
小さな体にランドセルはとても重そうに見えた。
「ねぇ、今日は一緒にあそべる?」
きらきらと目を輝かせながら清花は文をじっと見つめる。
「……ご、ご、ごめんね。き、き今日も塾があるんだ」
謝ると何故か、清花の方が申し訳なさそうにする。
「そっか!じゃあまた今度遊んでね!」
見かねた日乃出が清花の代わりにそう言った。
「文君は夏休みどこか行くの?」
日乃出が靴を履きながら、清花になにか目配せをするのが分かった。
「な、な、夏休みはほとんど塾で過ごすことになりそうだよ」
教室では誰も聞いてくれなった夏休みの予定を文は困った顔で答えた。
「夜は?夜も塾がある?」
日乃出と清花が少し緊張しているのがみてとれた。
何かを文に言いたいのだろう。
「そうだ」と言えずに、文は下がった眉をますます下に下げて笑うだけだった。
「8月9日の花火大会に文くんと一緒に行きたいんだ」
意を結したように、清花が文を真っ直ぐ見つめる。
「屋台もね、たくさん並ぶってクラスの子が言ってたの」
続いて日乃出も文を見つめる。
誘ってもいいだろうかと不安に思う2人の気持ちが、文にはこそばゆくって嬉しかった。
「……は、は、は、は花火大会一緒に行ってくれる?」
清花と日乃出を交互に見ながら尋ねると2人はにかっとはにかんだ。
「「もちろん!!」」
嬉しそうに笑う2人を見て、文も心が温かくなるのを感じた。
「じゃーねー!!」
手を振ってそれぞれの家へと向かう道中、文の心は少しだけ軽かった。こんな気持ちになるのは初めてだ。
お父さんには何て説明しよう。
ダメだと言われるのは承知の上だった。
それでもあの2人の笑顔を思い出すと、どうしても行きたいと願ってしまうのだ。
「ダメに決まっているだろう。お前にそんな余裕があるとでも?」
夜の課題を提出するときに、勇気を振りしぼって聞いてみた。
「……あ、」
「お前の成績表を見た。何だあれは。お前は毎日何を学んでいるんだ」
「お、お、おとうさ」
「お前、このままで志望校に合格できると思っているのか?くだらないことに時間を使えるほどお前に余裕なんかない」
冷たい声が滝のように文を叩きつける。
目を合わせないお父さん。名前を呼ばないお父さん。
……
「ご、ご、ご、ごめんなさい」
文は謝る他なかった。
「気持ち悪い。そのうすら寒い顔をみせるな」
提出した課題を投げつけられ、文は慌てて自分の顔を隠した。
怖いと思うと自然に口角が上がる自分の顔。
「……ご、ご、ごめんなさい」
文はまた、小さな声で謝るしかなかった。