再会
朝は嫌いだ。
太陽は目にしみて痛いし、気怠い身体は言うことをきかない。
『今日の運勢第1位は、魚座のあなた!ラッキーアイテムは普段降りない駅です。会いたかった人に会えるかもしれません……』
まだ寝ていたいという頭を無理やり起こして、薄桃色のカーテンを開ける。
時計をみると時刻は8時を指していた。
陽乃出はまたテレビをつけたまま出勤したらしい。朝の気怠さとは無縁そうなアナウンサーが今日の星座占いを話している。
今頃通勤ラッシュの最中にいる陽乃出に同情しながら、リビングに置いてある食卓テーブルに目を向ける。
ラップに包まれたおにぎりと小さなメモ用紙が置かれている。
『清花へ 今日は遅くなります。晩御飯はいりません。
追伸 朝ごはんはきちんと食べること。』
陽乃出の丸っこい字をしばらく眺めて、メモを机の上に置く。
大きく握られたおにぎりが2つ、どしんと並んでこちらを見ているようだ。
2つとも手に取り、リュックに入れた。
画材道具を準備しながら、今日はどこに行こうか考える。天気は快晴、風もなく過ごしやすそうだ。
こんな日は人が足を止めて人物画を描かせてくれやすい。
どこで絵を描こうか考えた末、普段乗車しない南線に乗ることにした。
ジーパンと黒のTシャツに着替えて髪は緩く1つにまとめる。陽乃出がくれた替えの髪ゴムを腕に通して、準備は完了だ。
あれもこれもと詰めたリュックはずっしりと重く、肩紐が悲鳴をあげている。
「いってきます」
冷蔵庫のブーンという音が聞こえる部屋に挨拶を残して、清花はアパートを後にした。
アパートから最寄駅までは徒歩10分。
南線は9時を過ぎると乗車する人も少ない。
過ぎていく景色を眺めながら、降りる駅を考えていると、ふと今朝の星座占いが脳裏を掠めた。
『会いたかった人に会えるかも……』
相手が会いたくないと思っていても、そう思っていることを知っていたとしても、会えたらやっぱり嬉しいのだろうか。
もうずいぶん長い間会っていない、優しく笑う目元を思い出す。
『郷屋〜郷屋〜、終点です』
気がつくと電車は終点に着いていた。
降りていく人について、清花も電車をあとにする。
初めて降りた駅は行き交う人もまばらで、不思議と懐かしい雰囲気がある静かな場所だった。
どこに腰を据えようか考えながら駅を出ようすると、突然女性の悲鳴と数人が駆け寄る足音が響いた。
「大丈夫ですか?救急車お願いします」
「突然倒れて、返事もないんです……」
野次馬に囲まれた円の中心で、誰かが倒れているのが見える。
スーツを着ていて、袖から覗く手首は細く骨張っている。頭を打ったのだろうか、血が流れて顔がよく見えない。
「聞こえますか?大丈夫ですか?」
女の人の呼びかけに応えるように、倒れている人の指がぴくりと動いた。
「だい……じょ、ぶ…です」
か細く消えてしまそうなその声を聞いた途端、清花は走り出していた。
頭はどこか澄んでいて、心は今にも破けそうなほどはねあがる。
「文くん!」
人生で1番大きな声が出たような気がした。
駆け寄った清花をみて、周囲に集まった人々がほっと息を吐く。
「お知り合いですか?」
救急車を呼んでくれた男性が清花に話しかける。
返事をしたのかどうかさえ覚えていないぐらい、清花の頭は目の前の文でいっぱいになった。
記憶の中の文は顔色は悪かったものの、これほど衰弱して黒い靄を背負っていただろうか。
目の下の隈が深く大きく刻み込まれている。
「文くん……」
意識が朦朧としている文を支え、そっと呼びかける。
「…………」
文は傷が痛むのか何も言わず、こちらを見ようとしない。
「傷が痛む?おでこが切れてる」
ポケットから取り出したハンカチを当てて止血しようと手を伸ばすと、文はそれを拒むように清花の手を払いのける。
「俺に触られるの嫌かもしれないけど、今はじっとしてて。……お願い」
何度か清花の手を払いのけたあと、文は観念したように動かなくなり清花もそれ以上話をしなかった。
腕の中で大人しくしている文を見つめながら、清花の頭の中は聞きたいことで溢れかえっていた。
永遠にも感じられたこの時を遮るように、遠くの方でサイレンの音がこだまする。
「…………一緒に来ないで」
突然、文の掠れた声が清花の心臓を締め付ける。
「どうして?」
こちらを見ようとしない文がまるで泣いているようで、清花は放って置けなかった。
「せめて家族が来るまでは一緒にいさせて?それまでだから」
「家族……」
何かを言いかけた文の言葉を遮るように救急隊員がこちらにやってきた。
*
「それじゃあ、お大事に」
運ばれた先の病院で文は額を5針縫った。
「ありがとうございました」
会計を済ませて病院を出ようとすると、出口に清花の姿があった。
「具合は大丈夫?」
自販機で買ったお茶を差し出しながら、文の額をちらりと見た。
「わ、悪かったね。もう大丈夫だから、……ありがとう」
清花の顔を見るのも気まずくて、文はそっと俯いた。
「俺は大丈夫だよ。それより、文くんどうやって帰るの?」
俯いた文の顔を見ようと、清花が下から覗き込んでくる。風に乗って香る清花の甘い匂いに文は後退りした。
「ごめん」
清花は無意識に昔のような振る舞いをしたことを謝った。
しかし、詰めた距離はそのままにもう一度文の名前を呼ぶ。
「文くん。…………おにぎり食べない?」
「へ?」
清花の突然の申し出に文は目を丸くした。
「少しだけ時間をちょうだい」
そう言って文の手をとると、清花は病院の隣にある公園へと入っていく。人はおらず、少しの遊具とベンチが二つあるシンプルな公園だ。
無抵抗の文をベンチに座らせ、背負っていたリュックからおにぎりを取り出した。
「一緒に食べよう」
差し出した特大おにぎりを目の前に文は少しも反応せず、ぼーっと地面を見つめている。
「陽乃出が握ってくれたんだ。中身は梅だと思う」
アルミホイルを剥がして文の手に握らせると、ぼんやりした顔が清花のほうを向いた。
目の下の隅と優しそうな垂れ目は変わらず幼い頃の文そのままだ。
「……食べられそうにない?」
おにぎりを余所に視線は清花に固定されたまま動かず、清花は思わず文の頬にそっと手を当てた。
「傷が痛む?気分が良くないなら膝かすから、横になろう」
1度剥がしたアルミホイルを元に戻しおにぎりをリュックに入れる。
少しも抵抗することなく文はあっさり清花の膝枕を受け入れたので清花は少し緊張した。
「ここで休んで、落ち着いてきたら帰ろう」
背中をさすってあげながら文の顔を覗き込んだ清花はその手を思わず止めた。
しとしとと文は声も上げずに泣いていたのだ。
大粒の涙が文の目尻を伝って清花のズボンを濡らす。
「大丈夫。文くん、俺がここにいるからね」
こんなふうに言うと文の負担になってしまうだろうか。
けれど何かを伝えたかった。
こんな風に声も出せず、肩を震わせて泣く文を見るのはこれで2度目のことだった。