プロローグ
「ふみくん、泣いてるの?」
夜の青黒に包まれた寂しい公園のベンチに座っていると、聞きなれた声がそっと文を呼んだ。
呼ばれた方を振り向くと、ぶかぶかのダウンジャケットを羽織った、小さな男の子が立っていた。
白い息を吐き鼻の頭を真っ赤にした少年は、また文に声をかけた。
「おとうさんに怒られちゃった?」
下がり眉毛をますます下げ、今にも泣き出しそうなその顔を見ると、泣くには疲れ切っていた心が少し緩んだ気がした。
「き、き、き清花。こん…な時間に、ひ、ひ、1人でど、ど、ど、どうしたの?」
清花と呼ばれた少年は、目の縁を擦り文の隣に座った。
「ふみくんが家を出るのが見えたんだ。」
だから追いかけてきたとは言わずに、小さな手は冷たく凍った文の手を握った。
「……あ、あありがとう、清花。で、で、でも、き、き、き清花のお母さんが心配するから、か、か、か帰った方がいい。い、家まで送るから」
上着も羽織らず外に出ていた文は小さな温もりに少し微笑んで、清花をベンチから立たせた。
街灯に照らされた清花のまん丸な頬っぺたが真っ赤になって輝いている。
「……い、いこう」
清花の手をひき歩き出そうとした文は、少しの抵抗を感じて立ち止まった。
「ど、ど、ど、どうしたの?」
俯いてじっと動かない清花は文の手を強く握っている。
「ふみくん今日はここにいるんでしょう?」
「と、と、と、父さんを怒らせちゃったから、仕方ないよ」
そう言ってなんでもないように笑うと、暗く淀んだ気持ちが少しは楽になるのを感じた。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕が悪いんだ。と、と、と、父さんの言いつけを守れなかったから」
地元では有名な進学塾の教師をしている父は、厳格でいつも不機嫌な顔をしている。少しのミスも許されない環境は文が物心ついた頃から変わらない。
出来のいい弟と比べられ、罰として外に追い出されるのは日常茶飯事だった。慣れてしまうほうが文には楽に思えた。
「きよのお家に一緒に帰ろう?おかあさん、今日も仕事で居ないから」
「あ、あ、ありがとう。で、で、で、でも大丈夫、き、き清花を送った後に、ち、ち、ちゃんと……い、い家に帰るから」
清花がここにやってきた時点で何を言うのか想像出来ていた文は用意していた言葉をかけた。
「おとうさんお家に入れてくれる?」
それでも心配な清花は文の手を握ったまま歩き出そうとしない。
「だ、だ、だ、だ大丈夫。……こ、こ、こ、こっそり裏口から入るから」
いたずらっ子のようにそう言って笑ってみせると、清花はようやく納得したのか体の力を抜いて手を引かれるままに歩き出した。
「ぼ、ぼ、僕が出ていくのが見えたって、き、き、清花はこんなに夜遅い時間まで…………起きてるの?」
公園に置いてある古びた時計は深夜を回り、もうすぐ2時をさそうとしていた。
「ううん、寝てたよ。でも文くんのおとうさんの声が聞こえたから目が覚めた。そしたら文くんが家から出ていくのが見えたんだ」
「そ、そそうか。お、お、お、起こしてごめんね」
「どうして文くんが謝るの?」
不満そうな声は遊具達に響いて大きくうねった。
反響した声にぽかんとした文は、清花の怒った顔をみてそれからゆっくり微笑んだ。
「き、き、清花を怒らせちゃったね。こ、こ、今度は上手くやるからさ」
「うまくって?」
「と、と、と、父さんを怒らせないように、しっかり勉強するよ」
既に毎日、寝る間を惜しんで課せられた課題をこなしてはいるものの、なかなか結果に繋がらないことは清花には分からない。
それでもこの小さな男の子を安心させるにはこう言うしか無かった。
「きよ知ってるよ。ふみくんが毎晩勉強してること、ちゃんと知ってるよ」
知ってるとまたぼそりと呟いた清花は公園の出口に立つ6個年上の文を見た。
連日の寝不足で顔は真っ白、寒さも相まって青白くなっている。
瞳はいつも優しく弧を描き、清花の名前をそっと呼ぶ。
「き、き、清花、……む、迎えに来てくれてあ、あ、ありがとう」
街灯に照らされた、がらんとした道を2人手を繋いで歩く。清花の少し湿った柔らかい手が文の心に明かりをともす。
「きよはふみくんが悲しい時にいつでもふみくんのところに走っていくんだ。きよはふみくんのヒーローになりたいんだよ」
にへへと笑う清花につられて文もあははと声を出す。
「ぼ、ぼ、僕には頼もしいヒーローがいて助かるよ。で、で、でも……」
清花の頭を撫でてやりながら文は少し真面目な顔をして言った。
「こ、こ、こんな夜更けに外に、で、で、出ちゃダメだ。ぼ、ぼ、僕を追いかけて来てもだ、だ、ダメだよ?き、き、清花のお母さんにば、ば、バレたらきっと叱られちゃうから」
「叱られても怖くないよ。きよはふみくんが心配なだけ」
清花の母が怒るとどれほど怖いかよく知っている文は、少し意地悪な顔をした。
「ほ、本当かな?こ、こ、この間お姉さんと喧嘩して怒られた時、き、き、清花泣いてなかったっけ?」
「泣いてないよ!きよは泣かない!」
ムキになって否定する清花が面白くて、文はまた声を出して笑った。
「そ、そういうことにしておいてあげる。だ、だ、だ、だから夜に1人で外へ行かないで、約束」
小指を清花の前に出すと、「うん」と素直に指切りをした。
清花のアパートに着くと、文はまた頭を撫でて言った。
「お、おやすみ清花。あ、あし、明日もいい1日だといいね」
他の住人を起こさないように小さく手を振りあった2人はそれぞれの家へと帰って行った。