32話 寝たふり
バスを降りて、空を見上げる。
ゴロゴロと黒雲が唸り、ポツポツと雨粒が降り始めていた。
「ちっ、これは本降りになるな」
シンが降りた洛咲停留所前は、設置された時刻表とベンチだけが置かれた簡素なバス停だ。
到底、雨宿りなんて出来ない。
「おい、起きろ、早くしねえと、俺が濡れるだろ」
身体を動かして、振動を与えて見るが、愛那の目は開かれない。
「あー、めんどくせッ。送っていくのはいいが、こいつの家なんて知らねえよ。それに、風も強くなってきてるじゃねーか。どんだけ睡眠が深いんだよ、この女」
やむを得ず、シンは、愛那を自宅に連れて行くことを決める。
豪雨とも言える大雨の中、シンはぶつくさと文句を垂れ流しながら、自宅まで走った。
――走ることに夢中で、シンの背中で薄らと目を開けている愛那に気付かなかった。
「はぁ……はぁ……! 女を担いで、ランニングだと……! ニートの衰えた筋力を強制労働させるイベントとか……クソ過ぎるだろ……!」
下着までずぶ濡れになったシンは、息を切らして、玄関の扉に手をかける。
帰宅したシンを出迎えるように、玄関まで足を運んだ瑠偉の表情が、みるみると青ざめていく。
「シ、シン……。部活生を家に連れ込む……!? 問題行動だ! 教育委員会に、つるし上げられるぞ!」
「雨が強いってのに、外で放置させる方が問題行動だっての」
シンの筋が通ったように見える意見に、瑠偉は、ふーっと息を吐いた。
「世間は、そういう理屈を理解してくれない。まあ、今回は目をつむっておいてやる。手だけは出すなよ」
「冗談はやめろよ、姉貴。俺が、こんなぺったんこに欲情するとでも――いてえっ!」
ギュッという音と共に、背中に激痛が走る。
背中に乗っていた愛那が、勢いよく、シンから飛び降りた。
「起きてやがったのか! 背中をつねるな! さっさと降りろ!」
「コンプレックスを弄るなんて最低!」
弟と担任する生徒の騒がしいやり取りに、瑠偉は深く考えるのが、バカらしくなったようで、首を横に振った。
「風呂に湯を張ってある。さっさと入ってこい」
「気が効くじゃねえか、姉貴!」
「貴様は、レディーファーストを知らんのか?」
「勿論知ってるぜ。男を危険に晒さないために、真っ先に女を生贄をすることだよな!」
いつもの調子のシンを瑠偉は、華麗にスルーすると、手に持っていたタオルで、ずぶ濡れになった愛那の頭を拭き始めた。
元は、帰宅したシンのために用意した物であったのだが……
「風邪をひくとシンのようなバカになるぞ。菅原、湯に浸かってこい」
「いいんですか……?」
「風邪は学業に支障をきたす。はやくしろ、あとがつかえてる」
遠慮がちな愛那の手を引いて、瑠偉は脱衣所へ案内する。
「なーなー。姉貴、俺も風呂に入りたいんだけど。風邪引いちまうぜ」
「生徒に風邪は、ひかせれない。あとでタオルを持ってきてやるから、我慢するんだ」
「俺、画期的なアイデア浮かんだわ。一緒に風呂入れば万事解決じゃね?」
「死にたいのか、シン?」
「滅相もございません」
瑠偉に睨まれ、シンは借りてきた猫のように大人しくなる。
愛那と瑠偉が脱衣所に移動して、シンは玄関に1人で取り残された。
(やっぱり、姉貴がいると、いつもの調子に戻れるぜ)