第33話「亡き王女のためのパヴァーヌ。…願わくば、素敵な王子様と一緒に」
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「はぁ、どうしようかしら」
ミーシャの母親が、リビングにテーブルに肘をついてため息をはく。
一週間が経った後も、ミーシャの実家は散々なありさまだった。
必要最低限の修理、ということで割れた窓ガラスにはダンボールとガムテープで補強してみたが。ソファや壁は、銃弾でボロボロのままだ。中古ショップで買ってきた小さな卓上照明と、ノイズ交じりのラジオだけが、この部屋の生活を支えている。
「新しく住むところを手配します、って言われてもなぁ。あんな貴族街の豪邸なんて、住みたくないよね」
ミーシャの母親がホテル暮らしを始めた、その日の夜。
クリスの代理人という人間が彼女を訪ねてきた。
転居先を確保できたので、そちらに引っ越してください、というものだった。せいぜい庶民街にある手狭なアパートかな、と高をくくっていたが、彼らから差し出されたのは、超がつくほどの大豪邸の権利書類だった。
使用人二名、庭師一名。高級リムジン車付き。そして、向こう三十年の固定資産税と人件費などの諸経費を肩代わり。つまり、タダである。
こんな豪邸、逆に住みたくないわよ。
素直にそう言って、丁重に書類を返したが、クリスの代理人たちは頑として譲らなかった。お願いします、お願いします。どうか、こちらに住んでください。あなたが承諾してくれないと、我々が非常に困ってしまうのです。額に脂汗を浮かべながら、何度も何度も頭を下げている代理人たち。
まぁ、そんなことで同情したりしないんだけどね。
ミーシャの母親は、迷子になった子犬のような目で見てくる中年男性たちを、旦那様と考えるので今日は帰ってください、と笑顔で追い返した。
それから、この銃撃戦の跡地のような部屋に戻ってきたけど、まだ結論は出せないでいる。
「はぁ、これって。今回の口止め料だけじゃなくて、きっとミーシャちゃんとクリス君の将来のことを考えて、なんだろうな」
クリストファー・スミス君。
綺麗な金髪に、黄金色の瞳。礼儀が正しく、何よりミーシャのことを本当に大切に想ってくれている男の子。彼になら、娘を預けてもいいと思える。……思えるんだけどなぁ。
「どうしたものかねぇ。ミーシャちゃんが幸せになってくれるなら、なんだってするけど。……絶対に、本人は嫌がるよね」
はあぁ、ともう一度だけ深いため息をつく。
……あの子は、生まれた時から特別だった。
小さいころに貧困街に捨てられて、ドン・コルレオーネ氏の孤児院で拾われて。私や旦那さまと出会うまでに、あの子は人を信じることに臆病になってしまった。
家族に裏切られて。
いらない子として捨てられて。
それまでの何の不自由のない裕福な生活から、今日を生きる意味すら奪われてしまった。私たちがあの子を引き取った時、人を愛せる子に育てようと、そう思った。この世の全ての人間ではなく、自分に優しくしてくれる人を。自分の居場所をくれる人を、優しく愛せるような女の子に。
我が家に来たときは、ずっと部屋の隅で丸くなっていた。
言葉を交わすまで、一か月もかかった。
それが、今はどうだろうか。
あんなにカッコイイ男の子を連れてきて、彼に見せる私服がないとベッドの上でじたばたと暴れるまでに、純粋で人を愛せる子に育ってくれた。
……ただ、少し大人になってしまった。
子供が夢を見る、おとぎ話に。興味をなくしてしまった。
学校に、社会に、他人に期待することがなくなった。
誰かに甘えることを諦めてしまった。
将来の夢や目標など、どうでもいいようだった。自分の人生すら、意味のないものとさえ考えている節がある。
……隣の国のお姫様になんて、絶対に興味がないだろう。
「ミーシャちゃん、わかっているのかなぁ。王子様が、ガラスの靴を持って迎えに来たんだよ。後は、あなたが一歩を踏み出すだけなのに」
ふぅ、とため息をつく。
何となくお酒が飲みたくなり、戸棚の奥に隠してあるワインをグラスに注ぐ。お酒を飲んだら、すぐに酔ってしまうから、と旦那さまから何度も注意をされていた。
「……隣国の王子様かぁ。ミーシャちゃんも、本当なら。彼と同じような立場の人間だったのにね」
生まれた時から持っている、左右の違う色の瞳。
黒色と、わずかに輝きを持つ銀色の瞳。それこそが、彼女が特別な血筋を受け継いでいる証だというのに。
悲しいかな。
彼女を守るべき人たちは、そんなあの子が邪魔で仕方なかった。自分たちの権利や遺産を守るために、生まれてこなければよかった、と陰で囁いていた。そして、彼女を守っていた大貴族の実父が亡くなると、虐待して、食事も与えず。最後には貧困街の公園に捨てられた。
墓地には、お墓がある。
彼女の本当の名前が記された、墓石が。
「亡き国の王女さま。どうか、あなたにたくさんの幸福があらんことを」
願わくば、素敵な王子様と一緒に。
彼と一緒に、幸せな人生を送ってほしい。
「……あ、やばい。ちょっと酔ってきたかも」
グラスのワインは、まだ半分くらい残っている。
ミーシャの母親が不機嫌なのには理由がある。
旦那さまが出張から帰ってこないのだ。そろそろ、旦那さまパワーを補充しないと、また暴走しそうだ。誰にも知られていないはずの旦那様の職場に顔を出して、お弁当を届けにいったときのように。彼が何ともいえない呆れ顔になるのは、もう見たくない。
「あ~ん、早く帰ってきてよぉ。そして、思う存分に構ってよぉ~」
子供のように、手足をじたばたとさせる。
その時だ。玄関先からベルが鳴って、ただいま、と低い男の声がした。
瞬間。ミーシャの母親はテーブルから体を起こして、玄関口へと走り出す。そして、躊躇なく。愛する旦那さまへと飛びついたのだった。
「お帰りなさい、旦那さまっ!」
名前を呼ばれたミーシャの父親は、飛びついてくる妻を抱きしめることができず。そのまま玄関に後頭部を打って、その場に崩れ落ちた。
……意識が戻ったのは、翌朝のことだったらしい。




