第16話「トムトム・ヴィレ・チャミスル」
トムトム・ヴィレ・チャミスルは、オリヴィア学園の獅子寮の生徒であった。
愛称は、トム。
料理人を志す生徒で、学内でも調理学、管理栄養学などを専攻している。
だが、その外見の印象は、プロボクサーか格闘家と言った方がしっくりくるかもしれない。
身長198センチ、体重107キロ。右の握力は78キロ、左の握力は81キロ。ベンチプレスは120キロを易々と持ち上げて、その腕力でこねられるハンバーグは絶品らしい。
最近では、週末になると街で料理の勉強をしているという話だったが、まさかこんなところで働いていたとは。
……と、クリスは感心したように説明してくれた。
「へー、そーなんだー」
マフィアの下っ端が宙を舞う。
建物の三階くらいに打ち上げられた後、地面に叩きつけられて、泡を吹いて気絶した。
「トムはね、とても努力家なんだ。毎朝、学生食堂の手伝いをしているそうだよ」
「へー、そーなんだー」
男が、また空を飛ぶ。
そのまま住宅の窓に突っ込んで、だらんと下半身だけが力なく垂れ下がる。
「そうだ。今度、獅子寮に招待するよ。彼の作る料理は、どれも本当に美味しいんだ」
「へー、そーなんだー」
最後の男が飛んでいく。
殴り飛ばされて、ストリートの端までぶっ飛ばされる。そのまま建物の壁に激突して、ズシンッと建築物そのものを揺らした。
あっという間の出来事だった。
トムという名前の男が、追手の男たちと対峙して。ものの数分。それだけで全員、倒してしまったのだ。
「ありがとう、トム。助かったよ」
「|No hay problema(問題ない)。怪我がなくてよかった」
くしゃくしゃの髪のせいで、素顔はよく見えない。
だが、温厚そうな性格だ。例えるなら人馴れした熊かな。普段は穏やかだけど、怒らせたら手に負えない。そんな感じだ。
トムは、のっそりとした動作で屋台に戻ると、ジュジュ―何かを油で揚げ始めた。
何をしているのだろう、と疑問に思っていると、慣れた手つきで油から上げると、包装紙に軽く包む。
「食べるといい。揚げたてが一番うまい」
差し出されたのは、揚げドーナツだった。確かに、この街で話題になっている揚げ菓子で、首都の町中に屋台が並んでいる。
それにしても、マイペースというか。ちゃんと私のことも見えてるのか? 近くに寄れば、もはや壁にしか見えない。
私は差し出された揚げドーナツを背伸びして受け取って、ひと口食べる。うん、うまい。
そんな私の様子を見て、もじゃもじゃの下の口が少しだけ綻ぶ。
「少し隠れているといい。まだ、追ってくる連中がいるかもしれない」
そう言って、屋台の裏側にある貸倉庫を指さす。
確かに。下手に動き回るよりは、どこかに隠れていた方がいいかも。その意見に同意したのか、クリスも黙って頷く。
「トム、君は?」
「|No hay problema(問題ない)。オレの外見で、喧嘩を売ってくる連中は多い。不良やチンピラに絡まれるなど、日常のことだ」
大男のトムは、その巨体を屈めて屋台の元栓を閉めている。どうやら、このまま店じまいをするつもりのようだ。
「この周囲を見てくる。クリスは倉庫に隠れていろ。恋人を守れ」
だれが恋人だ、だれが。
「いいのかい? 勝手に店じまいをしても」
「よくない。だが、オレにとっては友人のほうが大事だ」
そう言いながら、手慣れた様子で食材や油を片付けると、壁に掛けてあった上着を肩に掛ける。
「騒がしくなったら、すぐにここを離れろ。Adiós」
「わかった。トムも気をつけて」
大男のトムは、クリスのほうを見ると、わずかに笑った。
そのまま背を向けて、人込みに消えていこうとする。
ちょっと待て。私にも言いたいことがあるのに。
私は壁のようにそびえたつ背中に向かって、少しだけ声を張る。
「ありがとう、助けてくれて。Gracias.Ayudado por tu coraje」
私の発した言葉に、大男は驚いたように振り向く。
動物のような瞳が、大きく見開かれている。
そんな彼に、私は人差し指と中指を交差させて、自分の胸に当てる。それだけで百の言葉よりも意思が通じるはずだ。案の定、大男のトムも何も言わず、私と同じように指を交差させて胸元に当てる。
あー、やっぱり。そっちの出身か。
大男のトムはゆっくりとした動作で頷くと、今度こそ人込みの中に消えていった。……いや、体が大きすぎるせいで、しばらくはその姿は人込みの中でも浮いていたのだけど。
「トムに、何を言ったんだい?」
「別に。ありがとう、って伝えただけよ」
「そうかい。でも、最後に君たちをしていた仕草って?」
「あー、これ?」
私は先ほどしたように、人差し指と中指を絡ませてクリスに見せつける。
「そうね、これは……」
私は人込みのほうに視線を向ける。
もう見えなくなった彼の背中を思い出しながら、言葉を続ける。
「彼って、シチリア出身の移民でしょ?」
「え? うん、そうだけど」
どうして、そんなことを知っているのか。クリスは不思議そうにこちらを見る。
「なんとなくね、そんな気がした。言葉遣いとか、雰囲気とか。あの仕草は、向こうの国では一般的なものでね。意味は『あなたに幸運があるように』よ」
はっ、とクリスが息を飲む。
この国から遠く南にあるシチリア地方。歴史の紐を解けば、凄惨で血生臭い過去を垣間見ることができる。戦争と植民地。そして、奴隷。シチリア系の移民と呼べば聞き覚えがいいかもしれないが、言ってしまえば彼の祖先は、奴隷としてここに連れてこられた。そんな彼らを差別する風習が、以前、この国に深く根付いている。……まったく、下らない。
私は両手を腰に当てて、この国を取り巻く空気を睥睨する。汚職、マフィア、違法薬物。いくら外面を取り繕っても、この国は根っこから腐っている。
「ミーシャ。僕たちは倉庫に隠れよう。彼らに見つかってしまう」
「そうね」
どうしようもないことを考えても、せんなきこと。
私はクリスの言われた通り、貸倉庫へと入っていく。……うわ、空気がむわっとする。
「それにしても、ミーシャは才女だね。本当にいろんなことを知っている」
「別に、普通でしょ。人間、過去にいろんなことがあると、余計な知識ばっかり増えていくものよ」
「それにしても、君の場合。何もかもが特別に見えてくるよ」
「そうね。……これは、あなただから伝えるんだけど。私の生まれの実家はね、少しばかり特殊だったの。どんなことでも、人並み以上のことを求められて、私も一生懸命に頑張った。まぁ、才能がなかったから、どれも一流にはなれなかったけど」
「もしかして、あのダンスもかい?」
「そうね。ダンスは特に力を入れられたわ。社交界や舞踏会で、必ず求められるスキルだから。いい男に娶ってもらえるように頑張りなさいって。よくお父様に言われたっけ」
「社交界? ……君は、庶民の出身では?」
「あー、そのへんは気にしないで」
「……ふむ、君が言うなら」
倉庫のシャッターを下ろしては、クリスが振り返る。
全部閉めてしまったら真っ暗になるので、少しだけ隙間が空いている。そこから洩れる光だけでは彼の表情を見えづらいが、ふむ、どうしてか。とても嬉しそうだった。
「何よ。嬉しそうにして。暗がりだからって、私を襲わないでよね」
「そうか。そんな選択肢もあったな」
ぽんっ、と今気が付いたように手を合わせる。
「却下よ。もし、強引に迫ってみなさい。あなたのこと、少し嫌いになるから」
「ははっ。ならば仕方ない。今度は高級ホテルのロイヤルスイートで挑戦するとしよう」
クリスは上機嫌で答える。
冗談だよな。私は身の危険を感じながら、じわじわと背中のほうに後ずさっていく、
どういうわけか、この男。貧困街の店を出てから、どこか浮かれているようにも見えるんだが。私がいない内に、あの不良警官が何か喋ったか? さすがに私の出生のことまで話していないだろうけど、これはいつも以上に警戒しておかないと。
私の警戒心など露とも知らず。
クリスはのんびりとした口調で、独り言を呟いていた。
「……というか、僕の護衛である黒服たちはどこに行ったんだ? さっきから姿が見えないんだけど」
クリスは知らない。貧困街の怪しい店を裏口から出てしまったことで、護衛の二人を巻いてしまったことを。
そして、そこに居合わせたゼノ警官と意気投合して、昼間から立ち飲みバーで酒を飲んでいることを。




