第1話「ハーゲン・ヴィ・ドラクロワは、その電話に怯えて頭を抱える」
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「……は、はい。そ、その節は、どうも、ありがとうございました」
真夜中の学長室。
オリヴィア学園の学長にして経営者である男、ハーゲン・ヴィ・ドラクロワは受話器を片手に震えていた。
額に滲ませているのは脂汗。肥え太った体に、ほとんど頭髪が抜け落ちた頭。自信なさげに丸められた背中は、彼が電話越しに返事をするたびにどんどん小さくなっていく。
この学園でも、まだ数少ない電話回線。
その内のひとつを学長専用として利用しているのには理由がある。表向きには緊急時の連絡用とされているが、こうやって誰かに知られるわけにはいかない内緒の密談をするためのものであった。
「……はい、……はい。それでは、失礼します」
ハーゲン学長が誰もいない壁に何度も頭を下げた後、ようやく受話器を下ろす。その手は、じっとりと汗で濡れていた。
……どうする!?
……どうすればいいんだ!?
毛髪のない頭を抱えながら、必死に自問自答を繰り返す。
女子生徒が屋上から転落した。
くそっ、またか!
最近、こんなことばかりだ。学園内の事故や、生徒の失踪。学生たちのトラブルが後を絶たない。ガキどもめ、どうして俺の邪魔ばかりする。
問題は、生徒ばかりではない。
先ほどかかってきた電話だ。政府の教育省の高官。この学園の査定をする担当官から、学園の質が落ちているのでは、という内容だった。これまでも多少のトラブルがあろうとも、何とか誤魔化してきたし、政府ともうまくやれていた。
だが、立て続けの学内の事故に、卒業生たちの成績不振。政府としては、補助金を減額するしかないとの通告に、いよいよハーゲン学長も追い詰められた。
事実上の最後通知。
このままでは、政府からの補助金は減らされて、学園の経営はどんどん苦しくなる。最悪の場合、経営破綻だ。
400年以上の歴史のある学園を、自分が閉鎖させることになる。そうなってしまえば、もうおしまいだ。自分がこれまで隠してきたことが、全てさらされることになる。
人生の破滅。
社会的な死。
その言葉が、頭を占領していく。
なんとか。
なんとかしなければ!?
こんなときに生徒が屋上から飛び降りるとは。なんて迷惑なことを!
「クソっ! 面倒を起こしやがって!」
俺が何をした!?
お前たちはいつだって、俺の邪魔しかしない! 不安が苛立ちに変わり、部屋の備品に当たり散らす。机の書類を壁に投げつけて、タイプライターを床に叩きつける。しかし、苛立ちはいっこうに収まらない。
……が、その時だ。
ジリリリリッ、と再び電話機が鳴った。
その瞬間、びくりとハーゲン学長の肩が震えた。
予感があったのかもしれない。
強張った手を伸ばして、恐る恐る受話器を耳に当てる。こんな時間に電話をかけてくるなんて、生真面目な政府の高官を除けば、……彼らしかいない。
「……はい、もしもし」
恐れるように受話器を両手で抱えて、一言も聞き漏らさないように息を潜める。そして、受話器越しから聞こえてきた声に、その顔は真っ青になった。
「こ、これは。夜分遅く、恐れ入ります。……ドン・ルチアーノ」
ハーゲン学長が口にした名前。
その人物は、彼が最も恐れている人間であり、同時に絶対的な服従関係にある存在だった。
オルランド共和国の首都、ノイシュタイン=ベルグ。
その特別に治安の悪い地域、暗黒街を牛耳っている犯罪集団組織。通称、マフィア。
ドン・ルチアーノとは、この国でナンバー2の勢力を保持している、巨大マフィア組織。ルチアーノ・ファミリーのボスであった。
「も、もちろんです。……はい、期日までには必ず!」
こんなことならば、あの時に。金なんて借りなければよかったんだ!?
一度、関係を持ってしまったら、頑丈な鎖に繋がれたみたいにずるずると引きずりこまれる。ハーゲン学長は不安と後悔に苛まれながら、必死に電話先に相手に縋りつく。政府からの援助金が期待できない以上。もはや、この人物しか頼りになる人間はいない。
だが幸い、こちらにはまだ手札が残っている。
屋上に設置したハーブを育てるための温室。
あの農園がある限り、私が始末されることはない。ルチアーノ・ファミリーだって、学園という隠れ蓑の農園を失うのは痛手に決まっている。
それに、学園に通う貴族たちの個人情報は、思いのほか高く売れる。特に、スキャンダルにつながりそうになるネタは。その情報が、どのように使われるのか。そんなことは知ったことではない。
……そうだ。
……まだ。俺は終わりではない。
それから、数分後。
受話器を下ろしたハーゲン学長は、脱力したようにその肥えた巨体をソファに沈める。今夜は風俗街で女でも買おうと思っていたが、そんな余裕はどこにもなくなっていた。懐から煙草を取り出して、何も考えずに火をつける。
薄暗い部屋。
床に散らばった書類。
もはや何の味もしない紫煙を吐いて、帰りの車を寄越すように電話をするか考える。
その時、ふと仕事が残っていたことを思い出す。
今日、屋上から誤って転落した生徒の家族へ、詳細と謝罪の手紙を用意しなければならなかった。文面自体は秘書がすでに作っているので、あとは自分がサインをするだけなのだが。その書類は床に散らばっており、どれがそれなのかわからなくなっていた。
……面倒だな。
ハーゲン学長は何の葛藤もなく、床に散らばっている書類を踏みつけると、迎えの電話をかけて学長室から出て行った。




