第28話「ドーナ先輩と、屋上のハーブと、不穏な朝」
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その翌日。
早朝の学園にクリスの姿があった。
頬に白いガーゼを張ってもらい、ダンス授業の時にミーシャに殴られた痕を隠していた。
清々しい空気で満ちている朝の学園に、生徒の姿はひとりもいない。学生食堂のほうから、朝食の準備をしている音と。時折、学園の敷地ないに入ってくる工事用のトラックくらい。
あとは、納品業者だろうか。
紅茶メーカーのロゴが描かれた軽トラックが、クリスの目の前を通り過ぎていく。
こんな早朝から、彼が何をしているかというと。
理由は、ただひとつ。
ミーシャと会うためだった。
あの日以来、自分のことを避けているらしく、探してもなかなか会うことができなかった。
同じ授業に顔を出しても、遅刻ギリギリで教室に入ってきては、授業が終わる直前には姿を消していた。食堂にも、あの喫茶店にも、美術館裏の小さな公園にも。どこにもいない。
ならば、と下宿先の寮から登校してくるところを捕まえればいい。そう思って、まだ誰も登校していない時間から、こうやって学園の校門付近で待ち構えている。
「……やっぱり、怒っているのかな?」
はぁ、とため息をはく。
自分の考えが至らなかった。もっと、慎重に事を運べばよかった。時間を巻き戻せるなら、もう一度やり直したい。
だが、あの時の高揚感を前にして、自分は耐えられるのか?
ダンスの授業の時。
練習とはいえ、クリスは本気で踊っていた。どんどん自分についてくる彼女との踊りが楽しくて、ペースを上げて、スッテプも複雑にさせて。
幼少期のころに叩き込まれたダンスの技術をすべて吐き出しても、とうとう彼女を突き放すことはできなかった。
これほどの緊張感と高揚感。
久しく感じていなかった。そして、踊り終わったときのミーシャの表情といったら、普段にはない純粋さと妖艶さが入り混じった美しさがあり。
だから、だろうか。
彼女が欲しい。
その欲望のままに、友人のジョニーと話していた内容を思い出してしまった。この女が欲しい、と思ったら、キスで落とせ、と。
愚かにも、そして愚直にも。
その感情に身を流してしまったわけだが。
「……はぁ。僕は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか」
レンガ造りの花壇に腰かけて、人知れず頭を悩ませる。
気が付くと、ぽつぽつと生徒の姿を見かけるようになった。
授業が始まるにはまだ早いので、部活動か、早めの朝食か。眠そうな顔をした生徒たちが、遠くを歩いていくのが見える。
「おや? あの人は?」
クリスがその女生徒に気が付くと、向こうもこちらに気が付いて、辺りを気にするように小さく手を振った。
「おはようさん、クリス君。今日も男前やね?」
「おはようございます、ドーナ先輩」
上級生のドーナ先輩が、小走りでこちらに近寄ってきた。園芸部の手伝い以来なので、およそ二週間ぶりであった。その手には、園芸部のジョウロが握られている。
「こんな朝早い登校なんて知りませんでした。園芸部の活動ですか?」
「え? ……ん、まぁ。そんなところや」
少し歯切れの悪い返事が返ってくる。
よく見ると、ドーナ先輩の顔色が悪かった。朝のせいか血色がわるく、やや頬がやつれているように見える。
「大丈夫ですか? なんだか体調が悪いようですが」
「そ、そう? あは、あはは。ちょっと寝不足かもしれへんな」
そう言って、無理して笑ってみせる。
「今日は休んだ方が良いのでは? 教員には、僕から言っておきますよ?」
「ええよ、大丈夫。これから『温室のハーブ』の様子を見に行かんといけんし。……それに、うまくやってるから」
「ハーブ? そういえば、紅茶メーカーのロゴが入った業者のトラックが、学園に入ってきましたね。あれは、紅茶愛好会のもので?」
「っ!?」
その時のドーナ先輩の反応は、違和感の覚えるものだった。
以前、一緒に花壇の整備していた時とは違う。何かに怯えている様子だった。
「ドーナ先輩?」
「だ、大丈夫。なんでもあらへん。ほな、ウチは行くわ。クリス君と長話していると変な噂をされて、ミーシャちゃんに怒られてしまうしな」
それだか早口で言うと、学園に向けて歩きだす。
そのドーナ先輩の後ろ姿は、やはりどこか危ない足取りであった。
クリスは再びレンガ造りの花壇に腰を下ろすと、ミーシャが登校してくるのをじっと待つ。彼女の姿が見えたのは、その数分後であった。




