1 小悪魔系、藍川 京子
大学二年の夏、須藤 佳奈は中だるみの渦中にあった。
去年、高校から地元の経済法科大学へ進学し、新生活に学問に新しい交友関係に慌ただしい一年を過ごした。
それとなく真面目な性格が功を奏してか、高校とはまた違うスケジュールの大学講義も単位を落とすようなことはなく、親しい友人も幾人かできサークル活動も楽しんだ。
特に後を引きずる問題も起こさず、順風満帆とも言える充足した一年間だった。
二年目は一年目より滑らかな滑り出しだった。
一年目で確立した生活リズムを維持し、集中とガス抜きのコツを抑えて余裕のある生活を送った。
同時に、安心感を得たことで初夏頃に、若干のマンネリさも感じていた。
気を緩めた訳ではないものの、心のどこかで中だるみしている自分を自覚してもいた。
8月某日。
その日も、つつがなく二時限目の講義が終わりを迎えた。
90分の座学が終わり、講師が壇上から退席する。
教科書や資料をまとめ、途中に使用していたプロジェクターを前列の机の上から撤去し始める。
その様を見ていた学生達は一様に肩の息を抜き、自身らも私物をバッグに詰め離席していた。
かと思えば、一部は残留し学友たちと談笑し始める者もいる。
既に空気は緩まっていた。
佳奈はそんな微妙にアンニュイな空気を感じつつ、緩慢とも取れるほどの余裕のある動作で書籍類を鞄に詰めていく。
誰かと談笑するつもりもないが、急いで講義室を出て行く訳でもない。
集中を解いた直後はゆっくり息を緩めていく。
そんな緩急が長く心身の衛生を保つ秘訣だと考えていたからだ。
帰り支度をしていると、一人の女学生がこちらに歩いてきた。
軽くパーマをあてた赤毛。
白のシャツと夏にはちょっと暑そうなデニムのロングスカート。
あまり気が強くなさそうなタレ目はキョロキョロと周囲を伺っている。
「お姉ちゃん、今話せる……?」
と彼女はおずおずと言った。
妹の須藤 詩乃だった。
どうやら珍しく同じ講義を受けていたらしい。
今会うまで同じ講義室にいたことさえ知らなかった。
学年が違うので履修科目が被ることは酷く珍しいと言える。
「一緒だったんだ、声かけてくれれば良かったのに」
「邪魔しちゃ悪いと思って」
佳奈は講義を基本的に一人で受ける流儀だった。
大学といえば楽しく遊んでいる印象もあるが、事実そういった面は否定しない。
高等学校教育より制約は緩く、より自由に振る舞えるのも事実である。
その一方で講義一コマですら、わりと洒落にならない金額がかかっている。
なんとなく無為に過ごしてしまうのは相当にもったいないと知っていた。
だから、より集中する為に一人で受ける。
それを知っているからこそ、詩乃も遠慮したのだろう。
とは言っても、そこまで強固に塗り固めた信念によるものではない。
一コマ二コマを多人数で受けるのも差して問題ではなかった。
「遠慮することないって、姉妹なんだしさ。私も詩乃と講義受けてみたかったよ」
「……今度、履修登録気をつけてみるね」
詩乃は自信のなさそうな笑みを浮かべた。
それは彼女の無意識な癖であり、胸中の心の揺らぎとはあまり関係がない。
自信があろうがなかろうがそうなのだ。
佳奈と詩乃はあまり似ていない姉妹だった。
容姿は元より、性格も嗜好も考え方も仕草も似通った点が少ない。
行儀作法などは概ね同じではあったが、それは後天的に両親から教えられて身に付いたものであり、先天的や環境の中で習得していった物は数えるほどしかない。
詩乃は佳奈より一年遅れて同じ大学に進学した。
つまり今年の新入生だ。
年齢も一つ下の年子である。
佳奈が本大学に入学した理由は地元であることであり、詩乃も概ね同じだ。
地元で、姉と同じ大学で、ということで遠方に行かせるより安全でと。
本人の希望もまた右往左往する意思性の低いものだった為、選ばない理由の方がなかった。
なにより、詩乃は佳奈の在住している学生寮にルームシェアできるので色々安上がりだったのだ。
「講義の方、どうだった?」
「あんまり……理解できない単語が多くて、調べて追うのが精一杯だったよ」
佳奈もこの講義における経験値は詩乃と全く同一であるが、他講義でも応用の利く知識を持っている分だけ一年の長がある。
大学の履修講義は高校のような順繰りのカリキュラムだけとは言えず、物によっては理解度の低い状態で受けてしまう物もあった。
一年の登録履修であまりにすっ飛ばした講義は選べないものの、ギリギリで付いていかねばならないケースは希にある。
講師は学生の理解を待ってくれない。自分で追いつくしかない。
「そっか、じゃあ帰った後に一緒に復習しようか……」
そこまで言って、背後から誰かに両肩を掴まれた。
唐突な感触に体がビクリと一瞬情けなく震えた。
「先輩。私にも教えてくれませんか、勉強」
鼻につく甘ったるい声。
それは佳奈の肩を掴んだ人物から発せられたものだった。
後ろを振り返ると、頭半分くらい背の低い女性が立っていた。
彼女の身長は中学生のように小柄で、佳奈が160程度であるから150に足りないくらいか。
高等教育を卒業した年齢にしては成長が悪い。
悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
カールのきつい巻き毛。
ブラウスにプリーツスカートという清潔そうな組み合わせであるが、膝上が長く挑発的な印象を受ける。
彼女自身も常に浮かべている笑顔は薄く、どことなく他人の加虐心を煽る雰囲気があった。
「なんだ京子ちゃんか、驚かさないでよ。同じ講義取ってたんだ」
彼女は藍川 京子。
学年一つ下の知人だ。
入学式の際、佳奈が案内役として担当したグループにいた一人で、学内でも何度か出くわしているうちに交友を深めた。
遠方からこちらの大学に越してきたらしく、地元の人間として大学や地域を案内したのも一度や二度ではない。
そのせいか自覚するほどに懐かれている。
「私、バカだから全然わかりませんでした。先輩に教えてほしいです」
鼻につく甘い声が佳奈の耳孔をくすぐった。
京子は腕を佳奈の首筋にまとわりつかせながら体の距離を縮める。
声と同じくらい甘い香水か何かの匂いがした。
「ベタベタするのはやめてちょうだい」
「ダメなんですか?」
擦り寄ってくる京子を迷惑げに避けようとしながらも、乱暴にすることは躊躇われた。
ハッキリとダメと言い難い。
彼女は子猫のように人懐っこく、心的なバリヤーを破壊して警戒心を解いてくる。
いつかテレビで観た辣腕のキャバクラ嬢を彷彿とさせた。
遠方から越してきて寂しいのでは、という同情心も彼女を無碍にできない一因となっている。
「お姉ちゃん嫌がってるじゃない、離れなさいよ」
詩乃が間に割って入り、京子の腕を掴む。
彼女は若干の苦悶の表情を浮かべ、詩乃に顔を向けた。
今まさに居たことに気付いたといわんばかりにやや驚き、佳奈にへばりついていた手も離される。
「誰?」
京子の問いには答えず、不服な様子で詩乃は顔を背けた。
代わりに佳奈が妹の説明をする。
「妹の詩乃だよ。会ったことなかったっけ? 京子ちゃんと同じ一回生なんだけれど」
「先輩、妹さん居たんですね。講義でもゼミでも一緒になったことはありませんでした。私、藍川 京子です。よろしく、詩乃さん」
京子が親しげに手を差し出す。
だが詩乃は目線を合わせようともせず、窓の方に視線を逃がしていた。
様子がおかしい。
内向的だから人見知りしているとも違う。
明確に詩乃は何かに対して不満を抱いている様子だった。
「詩乃、後輩の京子ちゃんだよ。挨拶して」
「…………」
黙殺だった。
「詩乃」
佳奈が語気を強めると、詩乃はようやく京子の方に向き直った。
差し出された手の、指の先端にだけ軽く触れる。
それを好機とばかりに京子は強く握り締め、上下に大げさに振った。
「よろしく、詩乃さん。仲良くしてね」
詩乃は小声で「よろしく」とだけ返した。
1日1話ずつ投稿していきます。