17 クラーケン①
「レエン」
アリステアはポツリと懐かしい名前を口にした。
ホタルの様な淡い光を放つ精霊と別れて何年になるだろう。
8歳の時レエンに出会い、13歳の【祝福の儀】の時に別れた。
あれから3年たった。
たった3年だが、いろいろな事があった。
エイデン様と婚約して、レエンが去って。
そして……
去年エイデン様との婚約が解消された……
始めから無かったこととされた。
二人が書いた婚約証明書は暖炉で燃やされ。
あっけない物だった。
紙切れ一枚とはよく言ったものだ。
思わず笑ってしまった、本当に薄っぺらな物(関係)だった。
私に与えられていたメイドも護衛騎士も、ソフィアに仕えることになった。
二人共気まずげだったが、私は無理矢理笑顔を作り二人を見送った。
妹が……ソフィアがエイデン様の婚約者になった。
書斎には私とお父様とお母様とソフィアが居て。
お父様とお母様はソフィアとエイデン様との婚約をとても喜んでいて。
ソフィアは当然という顔をしていた。
3人は婚約発表のパーティで盛り上がり、私はそっと書斎を出る。
私はまた屋敷を追われ、私が使っていた部屋はソフィアが使うことになった。
私はまた小屋で前の生活に戻った。
私は屋敷を抜け出して、薬を売りお金を貯めた。
私を監視しているメイドも護衛騎士もいない。
気楽になったと言えばその通りだ。
ある意味しがらみが無くなった。
家族にも婚約者にももう縛られなくて良いんだ。
約束
そうだ約束を果たそう。
祖国を出てレエンとの約束を果たすことにした。
その時の私にはレエンとの約束以外縋る物が無かったから。
何もかもが私の指から零れ落ちた。
ならせめてレエンが待っててくれる島に行こう。
こんな私でもレエンは必要としてくれる。
大切な大切な友人との約束を果たそう。
そこで見慣れぬ天井と狭い部屋が目に入った。
13歳の頃の夢を見ていたから、今何処にいるのか一瞬分からなかった。
泣いていたから目が少し腫れぼったい。
ああ……
私はあの屋敷を出たのだ。
家族との苦い思い出、レエンとの楽しい思い出が詰まった屋敷。
「私は……船に乗ってヘレナ島に向かっている……」
頭を振りベッドから立ち上がる。
洗面器と水を【ボックス】から出すと、顔を洗った。
船に乗る時買ったパンとスープを出し、朝食をすませる。
【ボックス】から服とマントを出して着替える。
寝間着は畳んで狭いベッドの上に置く。
鞄も取り出して中を確認する。
昨日売れた薬の補充をするとニッコリ笑う。
昨日は酔い止めの薬がよく売れた。
今日は厨房に顔を出して火傷や手荒れの薬を売ろう。
関節の炎症を抑える薬もたっぷり作っている。
アリステアは首から巡礼札を取り出す。
アルマナがくれた巡礼札。
アリステアは手を合わせてアルマナに感謝する。
巡礼に出ることを告げた時、アルマナがくれた巡礼札のお陰でこうして、この巡礼船に乗れたのだ。
アルマナは何も聞かなかった。
ただ祖父が亡くなり、祖父の代わりに巡礼に出ると嘘をついた。
前々からレエンと考えていた嘘。
私は……皆に嘘を吐いて生きてきた。
優しい人に嘘をつくのは心が痛むが。
関係のない人を巻き込むのは心苦しい。
思えば何時も良い子の仮面を被ってきた。
良い子になればお父様もお母様も愛してくれる。
勉強を頑張れば妹も弟も尊敬して懐いてくれる。
淑女教育を頑張れば、エイデン様の横に居て恥ずかしくない貴婦人になれる。
そんな幻想ばかりを抱いて生きてきた。
現実は……
両親には疎まれ、妹弟にも使用人にも無視され。
家庭教師だけは褒めてくれた。
でも……
婚約者のエイデン様の横に居るのはソフィアだった。
夜の空に打ち上げられた花火を思い出す。
私とエイデン様の婚約の時は家族同士のささやかなパーテイさえも無かった。
羊皮紙に二つ並んで書かれた婚約証明書。
綺麗に書かれたエイデン様の名前。
たどたどしく書かれた私の名前。
それを見て少し誇らしかったのを覚えている。
この方の婚約者になれる。
この方の婚約者になったら。
お父様もお母様も私の事を認めてくれる。
私は幸せになれる。
でもそれは……誰かが言った幸せ……
洗濯女達が言っていた幸せ。
薬を卸した帰り道、美味しそうなホットドッグを売っていたから、思わず買って。
いい天気だったから小屋まで待ちきれなくて、洗濯場の近くの切り株に腰を下してぱくついていた時だった。
レエンは私の頭の上に乗っかって空を眺めていた。
私はスキル【陽炎】を使っていたから洗濯女達から見えていない。
___ 聞いた? ___
___ うん。聞いた聞いた。あの子が婚約したんだって ___
___ あの子? ___
___ ほらここの奥に小屋があるでしょう。そこに住んでいる子よ。あんた入って来たばかりだから知らないんだろうけど ___
___ アンさんがたまにご飯を持って行くのを見たことがある。小屋に住んでいるの? えっ? おかしくない? この屋敷のお嬢様よね。私てっきり引退した乳母が住まわせてもらっているのかと思っていた ___
貴族は親が育てることはあまりなく、大抵乳母が育てる。
その為、乳母は親よりも親密なことが多く。
引退してもそのまま屋敷に住まわせる事が多かった。
実の親より親密な関係を築いているのだ。
___ 大きな声じゃ言えないけれど。不義の子らしいわよ ___
___ 不義? まさか奥様が? ___
___ どっちかは分からないけれど ___
___ それでその子だけ奥の小屋に住んでいるのね。可哀想。あっでも婚約したんでしょ。良かったね。幸せになれるね ___
___ そうね四大貴族の嫡男だから食いっぱぐれる事は無いわね。綺麗なドレスに美味しいお菓子に高価なアクセサリー。羨ましい ___
「レエン……不義って……」
レエンは怒っていた。
「お前は不義の子ではない‼」
口調も変わっている。
いつものお道化た口調ではなく、本気で私のために怒ってくれている。
レエンはお喋りしていた3人の洗濯女達と干してあるシーツに泥水をかける。
___ きゃ~~~~‼ ___
___ 何が起きたの‼ ___
___ ひっどい‼ 洗ったばかりの洗濯物が‼ また最初からやり直しだわ ___
___ うえっ‼ 目に泥水が入っちゃった~~~‼ ___
___ 誰の仕業よ~~~‼ 出てこいオバケめ‼ ___
___ オバケ? ___
___ あっ‼ 知らないの? この屋敷にはオバケが居るって。誰もいないのに机の引き出しが開いて手紙が浮かんでいたり。閉まっていた窓が急に開いたり。皆一度はおかしな経験があるのよ ___
___ じゃこれもオバケの仕業? ___
ギャーギャー騒いでいる声を聞きつけてメイド長が駆けつけてきた。
___ あんた達なんてことしてくれるの‼ ああ……客室のシーツが‼ ___
3人の洗濯女はメイド長にしかられていた。
洗濯女達はオバケの仕業だと訴えたが、聞き入れてもらえなかった。
私とレエンはそそくさとその場を後にした。
あんなに怒っているレエンを見たのは、後にも先にもその時だけだ。
あの国に置いてきたのは……
偽りの自分。
偽りの婚約者。
偽りの家族。
偽りの時間。
偽りばかり。
偽りの無い本当の私を知ってくれているのはレエンだけ。
もう偽りは要らない。
良い子の仮面は要らない。
私は巡礼札を撫でた。
そこには【エラ・アリス・ミエド】と書かれている。
これが今の私の名前。
私はエラとしてこれからの人生を歩いていくんだ。
アリステアは甲板に足を踏み出した。
甲板では多くの人がのんびりと海を眺めている。
「エラ~~~」
アリステアを呼び止める女がいた。
冒険者のマリアンヌだ。
25歳ぐらいの黄金色の髪と琥珀色の瞳の、ワイルドな美人さんだ。
彼女が所属するパーティーは『暁の船』と言う。
8人ほどのパーティーでランクはA級だ。
彼女達のパーティーはこの船の護衛でもある。
彼女は手をふりアリステアに駆け寄る。
「見て見て♥️ 貴女から買った薬のお陰で腕の傷がこんなに薄くなったわ」
マリアンヌは袖をめくり、アリステアに古傷を見せる。
駆け出しの頃、海の魔物に噛まれた傷が薄くなっている。
マリアンヌは駆け出しの頃、余りお金がなく。
安い毒消しの薬を一つしか持っていなかった。
神殿でも高い治療費が払えず傷は残り。
雨の日は火傷の様にじくじくと痛んだ。
「それは良かったです。古傷なので七日間薬を塗って下さい」
「ああ分かった。それで同じ薬を幾つか分けてくれないか?」
「ええ構いませんが、どちらの方が使うんですか?」
「うん。うちのリーダーがこの間毒をくらって右足が痛むみたいなんだ。なんか他で買った薬が効きづらいみたいでさ~~」
「それは……もしかしたら【呪い】を貰ったのかも知れませんね。宜しければ見て見ましょうか? その方が症状に合った薬を調合できます」
極まれに【呪い】を使う魔物がいる。
【呪い】も様々で、魔物の種類によって薬が違うのだ。
「本当かい。ありがたい。リーダーは船室にいるんだ」
マリアンヌは嬉しそうにリーダーのいる部屋にアリステアを案内した。
暗い暗い海の底で蠢く巨大な影があった。
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2020/7/22 『小説家になろう』 どんC
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夏のホラーに浮気して少しスピードが落ちております。
これからもよろしくお願いします。




