胚子
次に気づいたとき俺の目の前は真っ暗になっていた。
どうやら無事に死んだようだ。
体の感覚がない。
なのに温かい。
ここはどこだろう。
果たして天国か地獄か。
死んでも意識はあるのだと知った。
残念なことに前世の記憶もしっかり持ってきてしまった。
一番忘れたかったのに。
いつからヒナコは浮気をしていたのだろうか。
いつから生でやっていたのだろうか。
俺の脳裏に浮かんだのは、それでも悲しいことにヒナコの笑った顔だった。
その笑顔のためになら俺はなんだって出来た。
どんなに苦しい仕事だったとしても頑張ることができた。
その先の未来で待っていてくれていたから。
でもその全ても今や幻だったのだと知る。
俺の未来で待っている奴なんて誰もいなかったのだ。
やっぱり身を投げ出して正解だった。
誰からも必要とされないのなら、早く死んだほうがいい。
逆に俺にとってヒナコと過ごした日々は身に余る幸せだったのだ。
楽しいことが一つもなかった人生で、唯一幸せを感じていた時間だった。
あんな裏切りをされてしまっても、まだ憎みきれない自分がいた。
いつかは憎めるのだろうか。
それとも自殺するきっかけをくれたことを感謝するのだろうか。
今の俺にはわからない。
ただこの妙に安心感のある暗闇の中で、この魂が消えてくれるのを待つだけだ。
それから随分と時間が経った。
気づけば暗闇は、少し赤みがかかった黒になっていた。
その中で一方向から光のようなものを感じる。
懐かしい光だった。
この世界にも太陽があるのだろうか。
音が聞こえる。
声だ。
誰かの声が聞こえる。
聞き慣れた声だ。
俺はその声を聞いてどこか安心してしまった。
記憶だけだった俺に体が与えられた。
声が前よりもよく聞こえるようになった。
その頃になってようやく気づいた。
俺は胎児になっていた。
それもヒナコの子供として。
聞き間違えるはずがなかった。
親の声よりも聞いた声だったからだ。
ずっと一緒にいた大切な声。
今は恨みも何もない。
おそらく俺の脳や体にヒナコからのオキシトシンが流れ込んでいる影響で、母は子を、子は母を愛するように作れているのだろう。
そのことが悲しいことなのかすら俺にはもう分からなかった。
前世の記憶が薄れていくに比例して、俺はヒナコのことが大好きになっていった。
ヒナコの子供としてこの世に生まれたいとさえ考えるようになっていた。
そうしたらきっと、今度は幸せな人生を歩める気がしたから。
時間の感覚は今ひとつ分からないが、たまに足元が激しく揺れることがあった。
原因はよく分からない。
ただもの凄く不安ではあった。
自分の生命が脅威に晒されているのが分かった。
このままだと産まれられない気がした。
外の光がヒナコの腹部の皮膚と血液を通って俺の瞳に届いた。
温かい羊水の中は布団の中にいるよりも心地よかった。
ヒナコがお腹に触れると俺も頑張って手を伸ばした。
あのときみたいに、手が繋がっている気がした。
今はまだ皮膚の壁が邪魔して触れられないが、もう少しで外に出て直に触れることができる。
そう思うと幸せだった。
愛されていることがわかった。
また足元が揺れている。
ここのところ毎日だ。
何が起こっているのか分からないことがもどかしい。
ヒナコの身に危険が起きてなければいいのだが。