受精
俺は寝室の前で立ち尽くしていた。
この空間にいたくないと思った。
おそらく、脳の防衛本能だろう。
男の脳は自分の愛している女性が他の男に寝取られると、一番ダメージを負うように作られているらしい。
今ならまだバレていない。
ゆっくりと体を捻った。
そのときだった。
「シュウジのより気持ちいぃよおっ」
シュウジというのは俺の名だ。
その声が発せられた瞬間、ベッドのバネはさらに激しい音をたてた。
ヒナコの声も大きくなる。
知らない男の声が聞こえた。
「出すぞッ」
「やっ……ん……」
「うっ……!」
激しかった音がやんだ。男が果てたのだろう。
俺はいつのまにか下唇から血を流していた。
ピリリリリリリッ。ピリリリリリリッ。
スマホの着信音がした。俺のポケットからだった。
そういうえば仕事を早退したときにマナーモードに切り換えるのを忘れていた。
寝室が一瞬静かになった。
そして勢いよく扉が空いた。
下着も履いていない裸の男が出てきた。
体が引き締まっていて、よく日に焼けた厳つい雰囲気の男だった。
眠たそうに目が溶けていた。
男のものからはまだ体液が滴っている。
おそらくヒナコの体液だろう。
「……」
「……」
俺たちは目を合わせたまま、言葉がなかった。
スマホの着信音だけがまだ響いている。
「誰? お前」
ようやく男が発した開口一番の言葉がそれだった。
「……坂田シュウジ。ヒナコの彼氏」
「あぁ、お前が坂田か。悪いけどヒナコは俺と付き合うってよ」
「……え、いや、そんないきなり」
「お前より俺の方がいいんだとよ。さっきも中に出した。俺と結婚したいんだとよ。お前、婚約まだしてないんだろ? じゃあ裁判しても負けるよな。ご愁傷様。おつかれ」
名前も名乗らない全裸の男はそういうと寝室の扉をしめた。
室内から激しく掻き回される体液が飛び散る音とヒナコの声が聞こえた。
そして二回戦が始まった。
俺にあてつけるように。
俺に敗北を味あわせるように、わざと大きい音をたてて行為を再開した。
俺はぼんやりと熱がある体をなんとか玄関にまで運んだ。
そこから先はあまり覚えていない。
気づけば俺はマンションの屋上にいた。
春の風がまだ冷たい。
屋上のフェンスをよじ登り、向こう側に降りた。
下を見ると、高校生たちが歩いている。
空は真っ赤に染まっている。
今もまだ二人は行為をしているのだろう。
俺は何のために頑張ってきたのだろうか。
何がいけなかったのだろうか。
そもそも最初から、こんな人間が幸せになれるはずがなかったのかもしれない。
この世界は平等ではない。
そんな簡単なこと、昔からちゃんと分かっていたのに。
忘れてしまっていた。
ヒナコが忘れさせてくれていたのだ。
自分には価値がないということを、思い出すことがないように。
一人でも生きていける。
ヒナコと出会うまで、一人だったから。
でも生きていけることと、生きたいと願うことは全然違うのだ。
ヒナコをおいていきたくなかっただけだ。
俺はこの世界にもう未練はない。
それなのに何故か涙が溢れている。
頬に二つの線をひいた。
その涙と一緒に飛び降りた。
何もいいことのない人生だった。
できることなら、このまま永遠に無になりたい。
死んだあとは地獄にも天国にも逝きたくない。
俺は地面に叩きつけられた。
視界が勢いよくブレて吐血をした。