成人
今年の春、俺は社会人二年目になった。
次々に襲いくる業務の波に忙殺されながらなんとか日々を繋いでいる。
代わりなんていくらでもいる凡夫のサラリーマン。
歯車にもなりきれない人生。
そんな吹けば消えるような存在の俺にも一応の目標はある。
目標というよりは、俺の夢である。
それは同棲している彼女のヒナコとの結婚だ。
しかし俺はプロポーズに踏み出せないでいた。
社会人二年目ということで心許ない貯金。
今の仕事をずっと続けて生活を維持できるのかという見えない不安。
それに加え単純にプロポーズを断られてしまったらどうしようという恐怖もあった。
ヒナコのことは信用している。
二十歳を超えてようやくできた人生一人目の彼女だ。
自分は選ばれない人間なのだと現実に思い知らされた矢先、彼女が俺を見つけてくれたのだ。
こんな何もない人間を救ってくれたのがヒナコだった。
人は誰かに必要とされないと生きられないのだと悟った。
皮肉なことにそれは俺のような無能な人間であればあるほど必要なのだと知る。
何もなかった灰色でくすんだ人生に色をつけてくれた。
だからせめて俺はヒナコが不自由のない生活を送れるようにしたかった。
幸いにも俺は他人よりも物欲がない。
何を手に入れたところで意味がないことに気づいてしまったからだ。
だから少ない手取りでも、今のところはヒナコに貧しい思いをさせなくて済んでいる。
まずは目の前の業務に集中しよう。
しっかりと職場で自分の地位を築き、これから先の未来のことを考えられるようになったらプロポーズしよう。
そのときにはきっと自信もついているだろうから。
しかし凡夫はやはり凡夫だった。有能には到底なれやしない。
仕事を一生懸命やり過ぎたことと、四月の気温の激しい変化が相まって体調を崩してしまった。
社内に常備されている体温計で測ると、38.5度だった。
頭がぼんやりとしてミスをしかねない。
上司に熱があることを報告すると、早退しろとの指示が出た。
今にして思うと休息を疎かにしてしまっていた。
自分の結婚。
初めて持つ後輩への指導。
二年目という仕事のプレッシャー。
俺は向き合っているつもりでいたが、実際には目を逸らしていたのだと気づく。
仕事に流されている間だけは、そのことを考えなくて済んだからだ。
それらの憂いを忘れるためにずっと残業をして、酷い時はてっぺんを回る日もあった。
俺は上司の指示に従い、引き継ぎを済ませ会社を早退した。
午後三時。まだまだ太陽の光が強い中、普段とは違う時間帯の帰り道に僅かな違和感を感じつつ、俺はヒナコが待っているマンションに向かった。
ヒナコは今日仕事が休みなので、まだ寝ているか家の掃除でもしているだろう。
よく考えると最近会話も少なかった。
コンビニでヒナコの好きなプリンを買って帰ろう。
こんな時間に帰ることなんてないから、せっかくだから驚かせようと思う。
二人分のプリンを購入して帰路についた。
駅から遠い五階建てのマンション。
二人でいろいろ調べてようやく決めた俺たちの家。
その三階の一番角に俺たちの借りている部屋がある。
驚かすためにゆっくりと鍵を差し込み、錠を解いた。
静かにドアノブを回す。
すると知らない男の靴が玄関に置かれていることに気づいた。
ヒナコと比べて大きい革靴。高価そうだ。
お義父さんでも来ているのだろうか。
そんな話は聞いていなかったが。
その靴を蹴らないようにゆっくりと靴を脱いだ。
すると、なにか物音がしていることに気づいた。
何か嫌な予感がした。
理由はなかった。
強いていうなら直感だ。
俺は何故か自分の家だというのに息を殺した。
まるで強盗のように足音をたてずに部屋に向かう。
音がしているのは寝室からだった。
ギッギッギッギッ。
何かが軋む音が一定のリズムで聞こえている。
やたらと激しい。
それとほぼ同時にヒナコの甘い声が聞こえてきた。
俺は耳を疑った。
夢だと思った。そう思いたかった。
気づけば足が震えていた。
「……あっ……あっ」
バネが軋む音に合わせて、ヒナコが悶えている声が聞こえてきた。
さらにゆっくりと寝室に近づくと、今度は肉と肉がぶつかり合う破裂音が聞こえてきた。