薫りを知る
マルボロ味のキスしか知らない。
付き合っていた人が良くそれを吸ったので唇に匂いが付き、あわせたときかすかに薫る。その味しか、煙草も、キスも知らない。
付き合っていた、と上に書いたが、実を言うと不確かだ。恋人らしいことをしていたのは確かなのだが、恋人であったかと問われるとちょっと答えに困る。ふらりと部屋に二人きりになっては、冷たい床に漫然と横たわる。手をつないだり、指を絡めたり、仕掛けてくるのはいつも相手のほうで、僕はされるがままになりながら、打ちっぱなしの床が徐々に温まるのだけを感じていた。そういう漫然としたそれらしい関係を続け暫く、終わり方だけははっきり苛烈鮮烈としたものだったと記憶している。
馴れ初めを覚えていないか、といわれると、判然としないとしか言いようがない。相手は幼馴染、というか、兄の幼馴染で、五つも上の女性だった。良く遊んでもらったらしいが、その記憶もあまりない。なんでも年の差を気にせずに、ちゃん付けで呼び飛ばしていたことだけは覚えている。相手のほうも僕をちゃん付けで呼んでいたが、中学も終わろうとしていたころに久しぶりにあったときはくん付けに変っていた。思えばこれが馴れ初めというべきものかもしれない。
「あーくん。久しぶり」
と片手を上げて見せた彼女はいやにやせていて、これから遊びに出かけようというのに、絵の具か油か判然としない汚れのたくさん付いた上下のつなぎを着ていた。この時僕の隣には兄が居たので胡乱な顔で見てやると、彼はいかにも予想通りといった風に肩をすくめて見せた。実際予想通りだったんだろう、あんまり遠出の用意はいらないと事前に聞いていた。
僕は暫く彼女をなんと呼ぶのかためらっていたが、結局月並みに先輩と言いあらわすことにした。以来、「先輩」と呼ぶと彼女はまぶしそうな目をするようになり、時に「先輩、じゃなくてセンパイ、がいい」と良く解らない発音の指導もするようになった。僕は言われたその時々は希望を満たそうと努力するが、結局先輩のお眼鏡にはかなわないので、無理せず自分の発音で「先輩、先輩」と彼女を呼び続け、やはりそれを聞いた先輩は、微笑のような顔の形を作って、まぶしそうな目で僕の口元を見るのだった。
僕らは先輩の格好も考慮して、地元のカラオケで時間をつぶすことにした。やたらと高いことに兄と先輩は口々に文句を言いながら、ひとまず通された部屋に落ち着く。ドリンクが来るまでの間、さり気に先輩は煙草を取り出し、僕はとっさに灰皿を自分のほうに引き寄せた。「未成年でしょう」
「別にいいじゃないのよ」
と、先輩は眉をひそめて見せたが、僕が強情に突っ張っているとやがて折れて、しぶしぶといった様子で紙ケースを懐にしまった。僕は突然先輩の気分を損ねては居ないだろうかと不安になったが、そのあとに気楽に笑ってみせてくれたので幾分か救われた。
「解ったけどね、急にやめれるもんでもないから。どうしても吸いたくなったら頂戴ね」
「ちょっとですよ」
今思えばなんと生意気なことだろう。だけれども先輩に言わせれば、なんとなくこれで僕の事を「ういやつ」と認識したらしかった。三人ぎりのカラオケルームで歌もそこそこに楽しみながら、僕は先輩の「どうしても」がいつくるかいつくるかと落ち着かずにもぞもぞ伺っていた。なんとなく先輩は楽しんでいるようにも見えた。実際楽しんでいたんだろうと思う。
これをきっかけに、先輩とたびたび遊ぶようになった。幼馴染の気楽さで、ことあるごとに呼べるし来れる。そのうちに僕は先輩が絵描きで、そして若い絵描きというのが大抵そうであるような生活をしていることを知った。それなりに貧乏で、それなりに部屋が汚く、それなりに見た目に無頓着で。そして、生まれつき楽しく生きる方法を知っている、かのように見える。少なくとも僕にはそう見えた。
アパートの裏に生えていた春菊をゆでて食った、なんて話どこまで本当かわからないが、ともかく僕は熱心にうなずいて見せた。そのうちに兄を介さずに遊ぶ回数が増えて、先輩のアパートに行くことも増えて(汚かったが、話ほどではなかった)、僕らはよく猫の話をした。ウチの近くに家猫が多いこと、その割りに自由に皆抜け出すこと、春になるととかくそこらじゅうで盛って睡眠の邪魔と、そんなことを取り留めなく話した。
「飼ってる家はさ、避妊とかしてるのかな」
「去勢じゃなくて?」
「あたしゃその言い方が嫌いなのさ」
「はぁ」
「なんで嫌いかって言うとね」
長々と結構いい話をしてくれたはずなんだが、忘れた。その後に生々しい話をしたので、掻き消えてしまっている。
「そういうさぁ、外にでてった家猫がさぁ。春に盛って孕ませるならまだしもさぁ」
「孕む……」
「この言い方は嫌いじゃないの。んでさ、もし孕ませる側でなくて孕んじゃったら」
いったい、どうされるんだろうね。画材であふれた部屋の隅で、二人して足を投げ出しながら、先輩はどこかを眺めたままつぶやいた。
「どうされるんだろう、産ませてえもらえるかな」
「どうでしょう」
「あの辺は成金多いからさ、酷いことされそう」
「僕も”あの辺”の住民なんですが」
「捨てられてたら拾ってきてね。飼うから。がんばって」
「無視するし」
こんなことを話すのか、先輩が絵を描くのを後ろからじっと見ているか。たまに変ったことはあってもこの二択が、およそあの部屋で行われたことの全てだ。
絵筆を握るとき、先輩はこちらに背を向ける。僕から何かを隠すのでは無く、出来上がる過程を少しでもさらけ出そうと。美術の時間とか、文化部の連中とか、何かを作る輩がやたらときゃあきゃあ騒いで創作物を隠すのに。先輩はそれを堂々と見せた。僕は寄る辺もなく、たまに先輩がくすぐったがるくらいマジマジと見つめ続けた。
堂々といえば灰皿もそうだ。僕が来ると言ってから行くと、アパートに申し訳程度に備え付けられている水道の横に、まだ水滴の滴る灰皿が乾かしてある。ともかく僕の居るときは隠そうとはするのだが、洗いたてなのを堂々とおいているもんだから先輩が喫煙をやめていないのは一目瞭然だった。しかし隠そうとは一応しているわけだから、これはこそこそしているものの部類に入るのかもしれなかった。暫くしてキスをするようになってからはますます薫りで喫煙しているのがばれる用になったが、それからも灰皿は律儀に洗ってあった。
最初のキスは全き不意打ちだった。先輩の部屋で、見るに見かねて僕が掃除をしようとしたときだ。「あーくん」と呼ばれるので振り返ると先輩の顔があり、気がつけばマルボロの薫りに口を占拠されていた。ともかく困惑があった、そしてそれは最後までぬぐえなかった。
こんな事のなにが楽しいのだろう。
僕だって生物であるから、それは刺激されれば反応も返る。別にどこに機能不全があるわけでもなかったが、何度キスを重ねても心内にざわめき立つものはなかった。「心理的に不感症なんだね」と先輩は推測し、それにインスピレーションを得たといって油絵を一筆書いてくれた。僕に芸術はよくわからなかったが、これは美しいと思えた。そういうと先輩は至極嬉しそうな顔をして、早晩それをどこかに運んでいった。中々の値で売れたらしい。もっと大成してお金を稼げたら買い戻そうね、というのが、暫く先輩の睦言のテンプレートになった。しかし僕はもうそこまでの情熱をその絵にもてなくなっていたので、はぁ、とかえぇ、とか曖昧に言葉を濁すばかりだった。僕がそんなのだから結局、口を重ねるだけのキスしか僕らはしなかった。それらしいところまでいくことは多々有ったが、先輩は不意にそういう手を休めてしまう。僕が幼いのに遠慮しているのかと最初は思っていたが、そこかしこに血が漲ると同時に僕の顔がうつろになっていく、それが先輩には怖いようだった。「君の下半分に注意していると、上半分が消えてしまいそうで」と二人して寝転びながら先輩は良く語った。そんな時なぜか僕は、例の良い値で売れた絵のことをふと思い出すのだった。
ぐぅ、と下から覗き込むような視点で、月夜に塀の上の猫を見る絵だった。逆光で陰になる猫、いや、もはや猫の影と行ったほうがいいほど黒く黒く塗りつぶされたそれが、首を天にすっと伸ばし、画面の奥の小さな満月に舌を這わせている。美しかったはずなのだが、思い出せない。今どこに飾られているのかも、幾らで売れたのかも解らない。幾らで売れたかくらい生活の具合から予測のできそうなものだが、まるで先輩の生活といえば変ることはなかったからそれも無理だった。敷金礼金と言った言葉に縁のなさそうな、申し訳に屋根が付いているだけのプレハブ小屋に住んでいて、そこらじゅうに絵の具を撒き散らしながら一幅を手早く仕上げる。仕上げれば売って、売っては描き、売れないときはどこからか金を工面してそんな時期を乗り切る。工面してくるとき先輩からは別の煙草の臭いがした。そんな日は申し訳なさそうに体育座りして僕の来るのを待っているのだった。
そういうところを見ると、僕は先輩に教えられたとおりに「センパイ、センパイ」と発音して。隣に座って暫く待つ。そうして次第に眠りこけて、どちらともなく腹の減るのと一緒に起きだして、申し訳程度のシンクでガチャガチャと何か作って食べ、何もしないまま僕は家に帰るのだった。そういう事は一月に一度くらいの頻度で有った。ひょっとすると全然絵が売れていないんでないかと疑うような月もあった。決まって先輩が空元気を振り回すので暗くなることはなかったが、絵の具合は先輩の心模様を如実に表し教えてくれる。青の絵の具が流行りだすと、僕は先輩の家に行く頻度を増やすことにした。それに黒と茶褐色が加わると毎日足が向いた。その日もそんな絵の具のローテーションが続いた後にやってきた。
アパートのドアを開けると、むせ返るほどの酒の香りがした。部屋の奥には先輩が、例の体育座りで湛然としていた。暗がりで顔は見えなかったが泣いているのではと僕は感じた。「先輩」と言いかけて、つばを飲み込んで例の発音を思い出して。眼前までそっと近づいた後「センパイ、センパイ」と、我ながら上出来に呼びかけた。腹の辺りに重たい衝撃があって、僕は後ろにすっ転んだ。電光石火の勢いで、先輩に押し倒されていた。いつもの味ではない、鼻を突くようなアルコールの臭いのするキスを何度も何度も先輩は僕の顔に降らせた。やたらめったらと体をこすり付けてくるので体は火照ったが、目と頭が冷めていくのが自分でもわかった。こんなことのなにが楽しいと、口で言わずとも言ってしまったことに僕は気が付いた、先輩は何か壊れ物を落としてしまったかのように、馬乗りのまま呆然としていた。やがて、最後に一度キスをして、先輩は搾り出すように言った「なんで」
「なんで、お酒は駄目ですって言ってくんないのよ」
胸板を、駄々をこねるように叩かれる。
「私子供だもの、まだ子供だもの、子供なの。注意してよ。あのときみたいに取り上げてよ。もっとだれかそばにいてよぉ。なんで泣いてるときに誰も居てくれないのよ。私は一人だったじゃないの、一人で何とかしたじゃないのよ。みんなして担ぐばっかりでほっぽったじゃないのよ。いっつもそうでいっつもそうで何やったってほっぽらかしじゃないのよ」「泣かしてしまいましたか」「なによすまして、何がしまいましたかよ。泣かしたんじゃないでしょ。なんで叱んないのよ。なんで答えてくんないのよ。いっつもすまして、そうしてすましてつっぱねるんじゃないのよ。なによ、この、この、こんな顔して」
すぱん、と存外な勢いで頬に痛みが走った。先輩は平手を僕に打ち抜いて、右手、左手と繰り返しては言葉を続けた。
「そんな、そんな、お前は、お前は。神経が、心まで、届いてないからッ、そんな顔してられるんだッ。ぼへっと人の気も知らない顔してられるんだッ。人の描いたものを二束三文で叩けるんだ。昔の女を金で抱くんだッ」
されるがままに任せる、どういうことか、ビンタにキスが混ざり始める。
「君は別」キス「ウソ、君も一緒だ」ビンタ「一緒だから今だってそんな顔するんだ」ビンタ「何したってぼけぼけぼけぼけしてるだけだ」ビンタ「痛そう、ごめんなさい」キス「なんでよ、なんで変んないのよ」ビンタ「支離滅裂じゃない」ビンタ「叱ってよ」ビンタ「ちゃんと見てよ」ビンタ「消えそうな顔しないで」キス
ビンタの数を数えながら、僕は徐々に”ビンタ”という言葉の意味を見失い始めていた。蒙昧にキス、ビンタ、と頭の中で繰り返される。キスからアルコールの味は消えて、血の味しかしない。先輩の行動はとにかく間抜けで、普段の粋で楽しげな振る舞いからかけ離れていた。少しずつキスとキスの間隔が広がっていって。先輩は顔中から色々な物を垂れ流して振り乱して、ぐちゃぐちゃのその顔を見て僕はやたらと悲しくなった。
先輩の行動に、別段狂気や人並みはずれたものは感じなかった。
そんなことをいつまでもいつまでも、楽しくもないのに続けている。そんな先輩が痛々しかった。
言いたいことを言ったのか、先輩は部屋の隅から酒瓶を取ってきて、また僕に馬乗りになって、ラッパのみで飲んでは不意にキスとビンタと苛烈な独白を繰り返した。先輩か僕かどちらが先かわからないが互いに気を失って。朝帰りの上顔の形を変えてきた僕は、親から外出を禁止された。
それから何年かたつ。
先輩の部屋に入り浸っていた僕は私立の受験を失敗して、地元の、親に言わせれば程度の低い公立に進んだ。そこそこに授業を聞いていればそこそこに点数が取れる。そんな風にのんべんだらりと過ごしていたから交際らしい交際もなく、色恋に縁のないままもう三年生になった。春の雨を見ながら、上のような、僕の人生で唯一の鮮烈な記憶を思い返すことが多くなった。猫の恋が夜中窓から聞こえるような時はことさら、あの良い値の絵のことを思い出した。この日も雨がしとしとと降って、進路進路と騒ぐ級友の言葉を耳から流して鳴っていた。一人でビニール傘を差して帰った。
僕の空を覆った透明な薄皮を申し訳程度の雨が散漫に叩く。僕は絵のことを思い出す。なぜ美しいと思ったんだろう。そんなにいいものだっただろうか。とかく芸術と名の付くもので心の動いたことのない僕が、ことさら動かされるものがあっただろうか。
何故僕は先輩の部屋に、あんなに足繁く通ったのか。
その後も兄から、それとなく先輩の近況を聞くことがあった。先輩は煙草の銘柄を変えたそうだった。僕は先輩がいつか言っていたことを思い出していた。「失恋すると煙草を変えるの」洒落てるのかどうか解らないが、先輩にしてはありきたりでふるわない。その後もたびたび煙草の銘柄が変ったことを聞いた。
ゴミステーションでふと足が止まった、毎日家の近所で盛っている黒猫がそこに居た。赤い首輪をつけていたはずのそれは、体に何もつけないまっさらなまま、勝手のわからない外に怯えるようにとぐろを巻いていた。
腹が膨らんでいた。
抱えようとして、警戒されるかと怯え、まるで動かない姿に逆に不安を感じ。暫く傘もてあました後、思い切って放り出して、少し人より温度の高い躯を、両手でそっと持ち上げた。駆け出したかったが、胎に障ると思い直し、ゆっくり、ゆっくり、少しでも雨にぬらさないように、包み込むように、足がどこへ向かっているのかいまいちわからないままに。自問は続く。何故、と問い続ける頭に疑問をおぼえる。何故、いまさらこんなことが気になるのか。
何故、と問えば問うばかりで、答えの帰ることは無い。何故、と問うこと自体が、人生で稀で、稀で、僕は今まで何も問うては来なかったのだと知る。
もう一度、何故。
何故僕は、このドアの前に立っているのか。
何年もぶりにたつそこは、記憶とまるで変らなかった。僕は腕の中の物をもてあましながら、震える指でチャイムを鳴らした。何度押しても具合が悪く、五度目でようやくピンポン、と間抜けな音がなった。ドアの向こうの気配を感じて、僕は一歩後ろに下がった。
服が少し垢抜けていた、部屋は相変わらずのようだった、煙草の銘柄はやはり変っていた。かぎなれない臭いに戸惑いながら猫を掲げて見せると、手招きされたので、しずしずと部屋に上がった。
画材を蹴飛ばして広場を作り、一番キレイな布をしいて、そこにゆっくりと横たえる。濡れた毛はすっかり乾いていて、暫くするとすうすうと安らかな息が聞こえてきた。挟み込むように座って、向かい合った。
会話はおこらない。前と違ったことはしていない。なのに、あのときのあの会話はおこらない。
先輩が黙っているからだ。僕が喋っていないからだ。僕は何も問うてこなかった。先輩が喋るに任せて、語るに任せて、感じるに任せて。僕は問うべきことを問わずに、言うべきことを言わなかった。漫然とした関係がなにをもたらすのか考えもしなかった。
部屋は黙りきって、蟠ったまま、僕らの間には時間だけが横たわっていた。僕はじっと猫の胸を見つめ、それが上下する回数を数えた。259回しぼんだときに、先輩はどこからか灰皿を手繰り寄せ、僕に背を向けて僕の知らない煙草をすい始めた。
僕は、マルボロ以外の薫りをかぎたくなかった。
知らない薫りがしたとき、みっともなく泣き喚きすがりつくべきだったと思った。
煙は知りもしない色で、知りもしない薫りで立ち上っていた。獣の臭いと、根の具の臭いと混ざり合って、僕の鼻に来るころにはより知らない薫りに変っていた。
789回上下した。
「僕は」つばを飲む「僕は、今思えば、あの絵は、あまりきれいに思ってなかった、ませんでした。いまいち、今でも絵が解りません。音楽も、小説も、女の子のことも。でも」
獣の臭いが相変わらずに立ち上っている。
「背中が、背中がとてもきれいだと思った。思ってた、だからあの絵がきれいに見えた。マルボロをかぐと目がくらみそうになる。よくわからないけど」
数がわからなくなったので、僕は目線を上げた。背中が相変わらずあって、肩越しに煙が立ち昇って見える
煙が揺れた。
「今度は僕からちゃんと言うから」
背中越しに先輩は言った。
「君も私みたいに苦しめばいいと思う」
灰が長く長く伸びていた。ボロ、と崩れて床に落ちて、先輩はかまわず吸い指しを灰皿に押し付けた。
「でもそういう大人気ないのはやめた」
僕は猫の向こうに手を付いて体を思い切り乗り出した。目を覚ましたのか、迷惑そうににぃ、と一声泣かれたが、生まれて初めて、知ったこっちゃないと心中毒づいた。僕は、マルボロ以外の煙草の薫りを知った。
猫は臨月をこのアパートで迎えた。センパイが銘柄を変えなかったので、せめて猫だけでもマルボロという名前にした。五匹生まれた子猫は一匹ずつ交互に決めた。
とっくにセンパイは二十歳過ぎなので、灰皿は僕が洗っている。