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アサシン珈琲BREAK  作者: 七月大介
2/7

第1話

 人は失敗する生き物だと誰かが言っていた。

 そりゃあ、誰だって一度くらいは何かしらの失敗を犯すものだ。そうやって経験を積んで生きていくのが、人生だと思っている。

 自慢じゃないが、俺は仕事においてたった一度も失敗をしたことはない。

 決して、自分が優秀な人間だと言っているわけではない。

 日常生活を送るうえでは、たった一度の失敗くらいは許されるだろうが、状況によってはそれすらもあってはならない場合もあるということだ。

 たとえばそれは生死に関わる仕事。

 繰り返すようだが、俺は今まで失敗をしたことはない。

 ――――だから、おそらく今日が最初で最後の失敗となる。

『状況の報告を要求します』

 耳で無機質な声が囁く。咄嗟に左腕に装備してあるデジタル式の腕時計に視線を落とすと、定期連絡の時刻から五分以上過ぎていた。このわずか五分の間に、あまりにも予測外の事態が立て続けに起こってしまい、時間など気にしている余裕がなかった。

 ヘッドセット型の通信機から伸びているマイクに向けて、俺は呟くように告げる。

「トラブルだ。パターンはD。警備対象はまだ無事だが、時間の問題だ。間に合わないだろうが、至急応援を要請する」

 パターンDは、五段階中四番目の緊急事態を意味する。スピーカー越しに、オペレーターがわずかに息をのんでいた。

『単なるストーカーからの警護ではなかったのですか?』

 そう。俺もそのつもりだった。

 昔付き合っていた恋人がストーカーになったため、対策を打つまでの数日間の警護依頼。警護レベルでいえば一人で事足りる最低ランクの案件だ。対象の避難場所が軽井沢ということもあり、たまたま手が空いていた俺が参加したのだが、完全に騙されたというわけだ。

「対象は、ここ最近汚職疑惑で揉めている政治家の隠し子だった。勝手な憶測になるけど、ハメられたんじゃないか?」

 おそらく、依頼してきたのは政治家の秘書だろう。クリーンな印象で謳っていた政治家が、汚職疑惑の上に隠し子の発覚となったら恰好の的に違いない。

 考えるまでもなく、証拠隠滅とばかりに隠し子を殺しに来てるのは明らかだった。ならば、何故、わざわざ警備会社に依頼したのか。

 ……そういえば、件の政治家ってうちの女性警備員に悪戯しようとして訴訟問題に発展しそうなことあったな。ついでに巻き込んで嫌がらせしておこうって感じか。ここまで来ると陰湿通り越してゲスだな、おい。

『女子大生とバカンスとか言って浮かれていたバチが当たりましたね』

「……ごめんなさい」

 でもさ、ストーカーから受けた心の傷を癒して恋仲に発展とか期待したいじゃん。男の子だもん。

『ヘリを確保できましたが、やはり時間がかかってしまいます。警察にも連絡しましたが、それも間に合うかどうか』

「わかってる。それまでは、こっちで何とかしてみるよ」

 警備会社の本部がある都心とも、東海支部がある浜松とも、軽井沢は距離が離れすぎている。正直、援軍は期待していなかった。警察だって似たようなもんだ。

 現状確認が終わり、ヘッドセットの通信を切る。向こうはまだ何か言いかけていたが、構っている余裕なんてない。

「お別れの挨拶はすんだ?」

 傍らで外の様子を伺っていた少女が、こちらを見やる。

 上下ともに黒のスーツで身を包んだ彼女は、仲間でも無ければ友人でもなかった。それどころか、本来であれば殺し合いをしていてもおかしくない競合相手である。

 殺し屋。それが、彼女の職業だった。

「そう簡単には諦められないんだな、これが」 

「へえ。こんな状況を覆せるとでも思ってるのかしら?」

 こんな状況とは、同じ室内にプロの殺し屋が一人。外には徒党を組んだ大陸系マフィア。対するは、ボディーガード一人という素敵な状況のことである。

 今は物静かなものだが、先程までは銃撃の嵐が続いていて、バルコニーへと続く幅広い窓ガラスは今や穴だらけとなってしまっていた。

 俺と殺し屋は柱の陰に隠れていて未だ無傷ではあるものの、マフィアたちが別荘内に突入してくるのも時間の問題といえた。

「一つ、頼みがあるんだが」

 ここで、俺にはこの状況を打開する一つの案が浮かんでいた。

「なに? 最後に抱かせてくれとか言ったら心臓に鉛玉ぶちこむわよ」

「お前は俺をなんだと思ってる」

「気安くお前呼ばわりしないで。私とあんたは敵同士なんだから」

 きっぱりと、殺し屋は言い放つ。そこに馴れ合いの余地はなかった。

 だったら、馴れ合いでなければどうか。

「共同戦線といかないか?」

 俺の提案が意外だったのか、殺し屋の細い眉がピクリと動く。

「……へえ」

 反応から察するに、感触は悪くなさそうだ。

「政治家はお前を雇っておいて、無断でマフィアにも依頼していたわけだ。そんなの、プロの殺し屋としちゃ面白くないんじゃないか?」

「つまりは私に依頼人を裏切れ、と」

「先に裏切ったのは依頼人の方だろ?」

「……筋は通ってるわね。それで、具体的には何をすればいいの?」

「お前とマフィアが狙っている政治家の娘は、奥の寝室にいる。そいつと一緒にガレージにある車で逃げろ」

「そう簡単に連中が逃がしてくれるわけないじゃない。防弾装甲もない一般車じゃ、鉄の棺桶で突っ込むようなものでしょ」

「俺が囮をやる」

「はあ?」

 完全に馬鹿にされているのは、俺でも分かった。

「少なくとも十人はいる武闘派のマフィアを一人で? え? なに? あんたって自殺志願者か何かなの?」

「この状況でベストな選択をしただけだ」

「私が抜け駆けして娘を殺そうとは思わないの?」

「お前はそういうことをしないよ」

「……何よそれ」

 呆れたように、殺し屋が表情を崩す。

 すると、何を思ったのかおもむろに腰に下げていた小さなボトルを外す。どうやら、それは金属製の水筒のようだった。手慣れた動作でボトルの蓋をコップ代わりに扱い、中身を注ぎ込む。

「……飲む?」

「ハイになれる薬か?」

 痛みも何もかも忘れられるんだったら、飲んでみるのもアリかもしれない。

「コーヒー! いつも持ち歩いてるの。これを飲むと、どんな状況でも気分が落ち着くから」

 受け取ったコーヒーは保温性の高いボトルに入っていたためか、しっかりと湯気がたっていた。

 しかし、本当にコーヒーであるという保証はない。

 恐る恐る、口にしてみる。

「……美味い」

 それは確かにコーヒーだった。

 ミルクも砂糖も入っていないが、じんわりと口の中に広がるコーヒーの味と苦みが心地よかった。

 敵相手から差し出されたものを口にするなど普通ならありえないことだが、今の状況が既に普通じゃないのだから良しとする。

「でしょ。昔っから好きなの」

 そこで向けられたのは、見惚れてしまいそうなほど、年相応のかわいらしい笑顔だった。

「コーヒー淹れるの上手なんだな。俺の母さんも上手だったけど、味がそっくりだよ」

 最後の晩餐がおふくろの味とは、神様も中々しゃれたことをしてくれる。

「ごちそうさん。そろそろだな」

 残された時間は限られている。残ったコーヒーを一気に飲み干すと、空になったボトルの蓋を殺し屋へと放り投げる。

「名前、教えてもらってもいい?」

 何の気まぐれか。殺し屋はそんなことを口にした。

風真ふうまだ」

「……え?」

藤堂風真とうどうふうま。もう二度と会うことはないかもしれないけど、一応覚えておいてくれると嬉しい」

「……風真、ね。私のことは亜衣あいでいいわ。相川亜衣あいかわあい。もちろん偽名だけど、仕事以外ではそう名乗ってるから」

 殺し屋――相川亜衣は、指だけで合図をすると政治家の娘がいる寝室へと走る。

 どうやら、俺も覚悟を決めるときが来たようだ。 愛用のグロック19を右手に握りこむと、それが外れないようにテープで固く縛り付ける。ハンドガン一つで出来ることはたかがしれているが、それでも何も出来ないわけではない。

「さてと、行きますか」

 俺は、闇の中へと駆け出した――――。





 穏やかな昼下がり。今日も今日とて、客はゼロ。ちょっと前なら万が一「テレフォンショッ〇ング」で明日のお友達で紹介される可能性を考慮してテレビを点けていたものの、その長寿番組が終了してしまった今では、静かに過ぎる時間を弄ぶ毎日が続いている。

「今日も暇ですねー」

 客でもないのにカウンターに座ってケーキを貪る少女は、能天気な顔で能天気なことを言う。

悠里ゆうり。わかってるとは思うが、それは売り物だからな。ちゃんと代金は時給から引いとくからな」

「水臭いこと言わないでくださいよ。どうせ売れ残るんだし、毎日のようにケーキが捨てられるのを見てる私の身にもなってください」

「……む」

 経営者の立場としては何も言い返せない。

 客がいないのはこの時間帯だけではない。

 朝も夕方も夜もいない。

 時々、近所の人たちが寄ってくれるが、それを除いてしまったら客の来店など滅多にないのが現状である。

 七坂悠里ななさかゆうり。喫茶店『ブレイク』のスイーツ担当は、朝に自分が作ったケーキを半日かけて消費するという虚しい行為が日課となってしまっていた。

 艶のある長い黒髪に、日本人形のように白い肌。すらりとした手足は十分に美少女といえるのだが、看板娘が一人いたところで店の景気は何も変わらないということは、店をオープンしての数か月で証明されている。

 持ち家を改修して一階部分を喫茶店にしているおかげで毎月のテナント料を払う必要は無いにしても、このまま赤字経営が続いてしまうと近い将来は閉店の憂き目を迎えることは目に見えていた。

「先輩、私にこの店を繁盛させるための良い案が浮かびました!」

 静かに有線が流れる店内に、力強く明るく弾んだ声が響き渡る。

「今日は珍しくおとなしいと思ったら、そんなことを考えてたのか」

 ただカロリーを摂取してるだけじゃなかったんだな。誤解してたよ。

「このお店を閉めて私とケーキ屋をやりましょう!」

「そうきたか。そうくるか。でも、ごめん。それは却下だ」

 別ルートだったり別の世界線上だったりでそういうのは有りかもしれないけど、俺がやりたいのはあくまでも母さんから引き継いだ喫茶店だから。

「っていうかさ、そろそろ先輩はやめて欲しいんだけど」

「いえ! 『ELEえる』を辞めても、先輩が私の先輩であることに変わりはありません」

『ELE』とは、国内最大規模を誇る綜合警備会社を指す。東京の本社をフラッグシップに、全国各地に支店を持つ有名どころに、俺と悠里は所属していた。とはいえ、仕事中にやらかしちゃった結果、俺は引退を余儀なくされたわけで、実際は慕われるほど大した人間なんかじゃない。でも、無駄に俺のことを尊敬している悠里は、それでも先輩と呼び続けてくれる。どれくらい慕われてるかといえば、俺が引退したら後を追うように引退したレベル。

「前から思ってたけど、どうしてそんなに俺のことを慕ってくれるわけ?」

「何を言ってるんですか。『ELEの藤堂風真』といったら、業界内では有名じゃないですか。先輩と専属契約を結びたがってた人は数えきれないほどいる上に――」

「待った。誰か入ってくる」

 マシンガンのように勢いよく喋りだした悠里を遮ると、入り口の扉につけてあるベルがカランと鳴った。

 納品業者だったら、店の外でトラックの止まる音が聞こえるはずだ。これはもしかして、久々のお客さんだろうか。

 力強い「いらっしゃいませ」の準備をするため構えていると、扉を開けて現れたのは、ガタイの良いオッサンだった。

 白髪に白ヒゲ。目にはサングラス。服装は黒のライダースジャケットにジーパンという、アメリカのバイク乗りのような威圧感のある風貌。

 そしてオッサンは店内に入るやいなや、口元だけでニヤリと笑う。

「ゆうり~、パパが会いに来たよ~~!」

 オッサンは、カウンター席に座る悠里に向けてダッシュ。一歩踏み出すたびに、老朽化しつつある床板がギシギシと悲鳴をあげている。いっそのこと、穴が開いて床下に落ちてしまえばいいと思う。

 ようするに、闖入者は客ではなかった。

「お父様! お仕事はよろしいんですか?」

「かわいいかわいい娘のために頑張って片づけちゃった~」

 毎度毎度思うが、野太い響きの猫なで声は聞くに耐えないからやめてくれ。

 と、娘に抱き着いてイチャついているのも束の間、オッサンは俺へと鋭い視線を向ける。サングラスをかけているから実際にはわからないが、レンズの奥では猟犬のような目つきをしているに違いない。

「風真、テメエうちの娘に手を出してねぇだろうなぁ?」

「久々に会うってのにアンタはそれしか言えんのか」

 前回来たときも同じことを言われた気がするんだけど。

 普通の人間なら腰を抜かしてもおかしくないだろうが、すでに慣れてしまっている俺はいつも通りの対応で返す。

「あいにく、大事な従業員を手籠めにするほど腐っちゃいないよ」

「本当か? 偶然を装って体に触ったり、事故を装ってシャワールームを覗いたりとあんな事やこんな事をしてるんじゃねえだろうなぁ?」

 やけに具体的だなオイ。愛娘の前だからあんな事やこんな事でボカしたけど、いなかったら何を言われてたんだろう。

「あ。シャワーなら一緒に浴びました」

 あれ? 悠里さん?

「……小僧、ちょっとこっち来いや」

「ちちち違う! あれこそ本当の事故だってっ! 色々あったの、不幸なことがっ!」

「ほう。その色々を聞かせて貰おうじゃねえか」

 服の襟を掴まれて、入り口の扉へと引きずられる俺の目に映ったのは、ニヤリと父親そっくりな笑みを浮かべる悠里。

 まるで、シャワーの件を既成事実扱いにしてそのまま一気にゴールインしちゃおうとでも企んでそうな雰囲気がありますけど勘違いですよね? だってあのとき俺は目隠ししてたよ? そりゃホントは見たかったよ? めちゃめちゃ我慢したのにこんな扱いですか?

 ――その後、店の外で誤解を解き、隣の店の本屋を経営している古谷さんに助けられるまで、三〇分以上の時間を要した。



「コーヒーでも飲むか?」

「いらん。お前が淹れたコーヒーはマズイ」 

 はっきりと断られると少し傷つくが、事実だから仕方ない。この店が流行らない理由も、コーヒーの評判の無さが大部分を占めている。

 言い訳がましいかもしれないが、実際はコーヒーがそんなにマズイというわけではない。ただただ普通。可もなく不可もないだけである。悠里の言葉を借りると、「何の感動もない味」。そりゃ流行るわけがない。

「今日はテメエに用事があって来たんだよ」

 カウンター席を壊しそうな勢いでドスンと座るや否や、オッサンはカウンター越しに俺の方を向いた。ちゃっかり悠里の隣に座ったのはご愛嬌だ。

「桜さんの淹れたコーヒーの味を覚えてっか?」

「母さんのコーヒー?」

 あまりにも予想外な話の切り出し方だった。

 仕事で忙しいはずのオッサンが、まさか本当に娘に会うだけに来たとは思ってはいない。先刻は、仕事を片付けたとうそぶいていたが、実際にすべて片付くことは不可能といえる。

 全国規模の綜合警備会社『ELE』の社長。畏怖と敬意を込めてボスと呼ばれる存在が、この目の前にいるオッサンこと七坂文太ななさかぶんたなのだから。

「この前、隣町に寄ったときにコーヒーショップを見かけて立ち寄ったんだがよ。そこで飲んだコーヒーが桜さんのものと同じ味がしたんだ」

 今、オッサンの脳裏に浮かんでいるのはそのときのコーヒーの味なのか。それとも、母さんの飲んだコーヒーの味なのか。

 母さんがいた頃のコーヒーの虜になった人間は、オッサンだけじゃない。事実、母さんが生きていた頃の喫茶店ブレイクは毎日お客さんが入れ代わり立ち代わりと押し寄せていた。

 思い出補正と言い切るのは簡単だった。人は、遠い昔に口にしたものを良くも悪くも記憶の中で脚色してしまう性質がある。にわかに信じがたい話ではあった。

 しかし、俺には否定しきれない一つの可能性が浮かんでいた。

「その店の場所を詳しく教えてもらえないか?」

「お。どうやら興味があるみてえだな。ちょっとわかりにくい場所にあるからよ、テメエのスマホにデータで送ってやる」

 オッサンが取り出したのは外見から似合わない最新型のスマホだった。同じく俺も愛用のスマホを取り出すと、受信されるまで待つことにする。

「あー。データ送るのってどうやったか」

「手伝いましょうか?」

 最新型のスマホといえども、使うのは還暦近いオッサン。操作に戸惑っていると、傍らに座る悠里が顔をを寄せる。

「のわっ! ダメだダメだ、悠里は見るんじゃない!」

「見慣れないアプリがいっぱいありますが、これは何ですか?」

「こここれはあれだ、なんというか、アレなやつだ」

 ……オッサン、いい年して何やってんだ。

 何のアプリが想像できてしまう自分がイヤだった。

 そんなやり取りがありつつ、俺のスマホにデータが受信される。地図アプリの住所データだった。

「データは受信できたか?」

「ああ。問題ない」

 これさえあれば、俺一人でも件のコーヒーショップに辿り着けるだろう。

「用件はそれだけだ。じゃあな」

 いきなりオッサンは立ち上がると、入り口の方を向く。用事は済んだとその背中が語っていた。

「あ。お父様、先程のアプリについてお母様がお話があるとのことですが――」

「…………なんだって?」

「私ではわからなかったので、写メ付きでお母様に尋ねてみたのですが、いけませんでしたか?」

「…………」

 哀れ、オッサン。



喫茶店『ブレイク』の二階は居住スペースとなっており、俺が生活の場としているのがその内の一室。

 出勤時間0分。かつては警備員として現場に出勤するまで何時間もかけていたことが度々あったことを鑑みれば、これ以上素敵な環境はない。

 営業時間は十七時までとなっているが、どうせ開けていたところでお客が来る気配なんてない。ならばと、教えてもらったばかりのコーヒーショップに向かうのが自然の流れ。ある程度スケジュールを自由にできるのが、自営業の強みの一つだ。

 仕事着であるワイシャツとスラックスから私服にそそくさと着替えると、部屋を出る。

 すると、

「お待ちしておりました。では、早速行きましょう」

 扉の外で待ち構えていたのは、同じく仕事着から私服に着替えた後輩の姿。

「え? 行くってどこへ?」

「お父様が紹介していたコーヒーショップです。早めにお店を閉めたということは、今から行かれるんですよね」

 どうも妙な展開になってきた。

「……もしかして、置いていくつもりだったんですか?」

 悠里が、上目遣いで寂しげな顔を見せる。まるで道端に捨てられた子猫のようだ。いや、現実でそんなシチュエーションに出くわしたことはないけどさ。

 ここで、「ああそうだよ。置いていくつもりだからさっさと帰れ」と言えるほど、強気な人生を送ってきてはいない。でも、出来ればひとりで行きたいと思っているのが正直なところだった。

 返事に窮していると、悠里が先に口を開く。

「一人で行きたかったのかもしれませんが、私は絶対についていきます!」

 そこから感じられるのは、確かな使命感。父親が絶賛したコーヒーショップに興味があるというわけではなさそうだ。

「先輩は足のことがありますし、どうかご一緒させてください」

 ああ。そういうことか。確かに、自分の足で遠出をするのはしばらくぶりになるな。

 改めて、自分の右足を見下ろす。

 靴下を履いた左足と並んでいるそれは、ジーパンと靴に大部分が隠されているが、ふくらはぎからつま先まで鈍色をしている。機械の足――つまりは義足だ。俺が警備会社を辞めた理由が、この右足にある。

 一年前、仕事中にトラブルに巻き込まれた俺は、かろうじて生き延びた代わりに右足を犠牲にすることになった。

 代わりに最先端の技術をもってして作られた義足が相棒となり、普通に日常生活を送る分には問題がないものの、やはりどうしても気を使ってしまって歩きづらさがあり、ボディーガードを続けることが困難になってしまった。

 俺自身は普段動ければいいと半ば開き直っているものの、悠里が不安になるのも当然かもしれない。

「それじゃ、悠里にサポートをお願いするかな」

 俺が右手を差し出すと、悠里はいつもの笑顔を取り戻して自身の右手を重ねる。

「はいっ! 喜んでお供します!」


 ◇


 コーヒーショップがある場所をオッサンは一言で隣町と表現していたが、送られてきたデータを確認してみると、そこは隣の市を示していた。間違ってはいないんだけど、距離がだいぶ遠く感じてしまったのは世代の差によるものだろうか。

 バスと電車を使用して、一時間弱。俺たちはコーヒーショップの最寄り駅に辿り着いた。

 街並は住んでいる町と大して変わらないが、駅前は改装して間もないらしく、ステンドグラスのモニュメントがあったり、噴水の水しぶきが日に照らされてキラキラ光っていたりと、オシャレ度はこちらの方が勝っている気がした。

「なんだか、良いところですね」

「そうだな。土地もきっと高いんだろうな」

「あ。あっちで鳩に餌あげてますよ!」

「場所によっては条例違反だから気を付けろよ」

「……先輩にロマンスを期待してた私がバカでした」

 何やら隣で肩を落としている悠里を連れて、歩みを進める。時刻は三時前。通行人もまばらで、横に並んでも特に遮るものは何もなかった。

「それにしても、先輩とこうして出かけるのも久しぶりですね」

「あー、そういやそうだったか?」

「ほら、ボディーガード時代は、よく一緒に池袋とか新宿に行ったじゃないですか」

 一緒に行ったというか、悠里が勝手に尾けてきてただけのような気もするが。

 そのせいで、ゲームセンターとか雑貨屋とか無難なところしか行けなかった俺の気苦労をこいつは知ってるんだろうか。

 まあ、どっちも嫌いじゃないからいいんだけどさ。

 悠里は、いつも女の子らしいかわいい服装をしている。今日も、ゆるゆるのタートルネックのオーバーオール。風が吹くたびにひらりと舞うフレアースカート。皮のロングブーツ。世間一般の男がそうであるように女の子のファッションに疎い俺でも、オシャレをしているなと感じることができる。

 このまま用事をすっぽかしてデートしてしまおうか。

 脳裏で悪魔がささやくが、善意で俺に同行してくれている悠里を連れまわすのは申し訳ないよな。

「先輩、ぼーっとしてると危ないですよ?」

 いつの間にか歩く速度が落ちていたらしい。気が付くと、悠里が俺の前方で立ち止まっていた。

「あ、悪い。見惚れてた」

「え!? もしかして私にですか!?」

「いや、ショーウィンドウの食品サンプルに」

「……先輩は相変わらず鈍すぎです」

 呆れたようにため息をつかれる。

 バカ。恥ずかしいから鈍いふりをしてるんだよ。


「あ、きっとここですよ。お父様の言っていたコーヒーショップ」

 商店街を歩いて数分。営業しているのかどうかわからない店が並ぶ通りに溶け込むようにして、その場所は存在した。

 レンガ張りの壁に木製の扉。さりげなく施されたガーデニングがかわいらしい、洋風の外観。

 看板はないが、ほのかに漂ってくる珈琲豆の香ばしい匂いが、そこが目的地であると密やかに教えてくれた。

「よし、行くか」

 ここで立ち止まっていても意味がない。俺が先頭に立って扉を開ける。

「いらっしゃいませ!」

 出迎えてくれたのは、鈴をふるわすような澄んだ声。

 店内は外観と同じく洋風な造りになっていて、温白色の光が柔らかく店内を照らしていた。壁を囲うように並んでいるコーヒー豆のケースは、産地ごとに分けられている。聞いたこともない名前のコーヒー豆に高値がつけられていたりと、あちこちに興味が沸いてくるが、今日の本題はそこではない。

 店内の奥のカウンター。

 そこに立っていた少女の姿はとても印象的だった。切れ長の目に、すっきりとした顔立ち。触り心地の良さそうな、サラサラとした栗色の髪。

 ――その全てが、脳裏に焼き付いていた姿と重なった。

 少女の視線が、ついに俺を捉える。

 少女が、動きを止めた。

「……生きていたの?」

「あいにくと、悪運だけは強くてな」

「――っ!」

「先輩、危ない――っ!」

 少女の動きと同時に、悠里が反応する。

 次の瞬間、少女の左手には、有名な自動拳銃のひとつに数えられるベレッタM92が。悠里の右手には、知る人ぞ知るデリンジャーが構えられていた。

 しかし、俺は両手をぶら下げたまま少女と対峙する。

「一年ぶりだな。亜衣」

「……藤堂風真。あの時のお礼参りでもしに来たわけ?」

 少女――相原亜衣から突き付けられるのは、純粋な敵意。

「実は、お前に言いたいことがあってな」

「……言いたいこと?」

「ああ、そうだ。ここで、はっきりと言わせてもらう」

 一年もの間、胸のうちに溜め込んだ思いをついに告げる。

「俺は、お前に一目惚れしたんだ」

「……は?」

「……え?」

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