二章 歌 3P
日が昇っては沈みを幾度も繰り返した後、ホーカーはハットの前に現れた。
「ホーカー! どこに行ってたの?」
「その辺をうろうろしたり、もっと遠くをうろうろしてたのさ」
標的を見逃したとも取れる言葉に安堵しつつ、ホーカーが戻ってきたことにハットは多大な期待を寄せる。
紫の瞳の下にはいつかのようにくまが見られ、ハットも同じものを作っていた。
両者のくまを消す方法は一致している。
「旦那は元気になったか?」
ハットは少し警戒したが、今度は本当に心配していると確信した。
困ったように肩をすくめるとホーカーも困ったように笑い、背を向けて屈む。
その背に懐かしいものを覚えて乗ると妙にしっくりくるものがあり、思わず笑うとホーカーは不思議そうに振り返る。
笑みの形に細めた目でなんでもないと言えば、こだわりなく湖に向かって走り出す。
風音を耳にどうして人には翼が無いのか思いを馳せていると、あっという間に湖に着いてしまった。
「ボク、すごいものを見つけたんだ。これをホーカーに見せたかった」
レイブンのことを調べるうちに鳥が見つけた、一冊の研究書。古びて砂になりそうだったそれが、自分の秘密の場所に隠されていたのは偶然か。
「こりゃあ、思ったよりすごいものだ。あいつがわざわざこんなものを書いてたとはな」
ホーカーはレイブンのことを知っている。口ぶりから知己の関係らしい。
「湖って、精霊と妖精がいたんだよね。どんなところだったの?」
「湖があったって話は聞くけど、俺は見たことがない」
「じゃあ、愚か者の町は?」
この地、北東部を訪れたことはあるのか。ハットがカマをかけてもホーカーは動揺しない。
「そもそもそんな町があったのかってとこから疑問だね。地図に載ってねぇし……」
「えっ?」
ホーカーは散歩するために必要なものを取り出し、地面に広げる。
「ここは湖があったらしいところだ。今、俺たちがいるところだな」
示されたところには星を丸で囲った印が書き込まれ、周りには何も描かれていない。
斜めに割ったビスケットのもう半分には【利口者の町―クレバーストリート】と書き込まれ、他の町の半分の規模しかない。
「愚か者の町がこの湖の周りにあったって聞いたことはある。けど地図には何も描かれてない。これを見てハットはどう思う?」
ハットはずっと前からの疑問を強める。
人がいなくなったから建物は壊され、消された。もう人が住まないように。
そう言ったのはホーカーで、どうしてそんなことになったのか問えば、大きな問題が起こったからだと返された。
心に寂しさと罪悪感をたたえて。
「そんな目で見るなよ。本当に知らねぇんだ。でも」
「でも?」
ホーカーは水筒を取り出して一口飲む。
その動作を懐かしみながらもハットは、早く続きを聞きたくてじれったかった。
「湖も町も本当にあったんじゃねぇかって、不思議とそう思うんだよ。そこに大事なものをいくつも落としてきたような気がして、毎日ここに立ち寄らないと気が済まない」
ハットの誤算は、ホーカーはこの町のことを知っていたが、今はほとんど忘れてしまっていることだ。正確には一度完全に忘れ、それを徐々に思い出している。
理知的だが想像力に乏しいハットは、忘れてしまうほど凄惨な出来事を想像できない。だから過去の大事件を、ものすごい物語としか考えていなかったのだ。
鋼に変え忘れた心は目前の悲しみと同じように染まる。
ホーカーは泣き出してしまいそうなハットの眉間を親指で押さえると、優しく、困ったように笑った。
「俺たちはもう、会わないほうがいい」
その話題も最初は単なる駆け引きの材料だった。
湖の話に囚われすぎたことが失敗だったと気づいたハットは、商人失格だと内心で自嘲する。
「次に会うときは敵か味方だ。友達として扱わねぇ。もちろん味方としてなら大歓迎だけどな」
包み隠さないホーカーの言葉は決心に満ち、心は寂しさに打ちひしがれている。
湖に囚われた者は往々にして、悲しい道を辿る。
父の体調は悪化した。ついにはハットが店頭に立つほどに。
ハットは懸命に働いた。値切ろうとする人を上手くあしらって、貧しい人には少しまける。父がいつもそうしていたように。
優れた商人は教えられたことを一度で覚えなければならない。肉の切り分け方を母が教えると、ハットはすぐに覚えた。
よく呼び込まれた客がハットのことを知らないはずはなく、肉屋のハットを優れた商人だと褒めた。客たちと仲良くなるまでそれほど時間はかからなかったほどに。
父はどれだけハットが商売上手でも安心しない。人に任せるくらいなら何がなんでも自分でやりたいたちなのだろう。
「もっと回復してから戻ったほうが、ボクに任せなくても良くなるよ。だからお願い」
店に立とうとするのは母でさえ止められない。頑固な父の説得が成功したのは、ハットが人に頼む天才だからと言うほかない。その大粒の黒曜石に見つめられて懇願されれば、はねつけるのは容易ではないのだ。
拝んだ甲斐もあり父が回復すると、当然のように父は店に立つ。
ハットは久しぶりの暇をどうやって潰せばいいのか分からなくなった。
朝早くに訪れる友達もいなければ、窓枠で羽休めをする小鳥もいない。
試しにホーカーの真似をして町をぶらつけば、声をかける人は後を絶たないほどに増えていた。
「よう、肉屋のハットじゃないか! 店番はもういいのか?」
「うん。父さんが元気になったんだ。またうちの肉を買いに来てね!」
決められた科白を読み上げる笑顔は商人のもの。
秘め事を打ち明けることも駆け引きもないやり取りは楽で、退屈で、寂しい気分にさせるには充分すぎる。少なくともハットはそう感じている。
もう少し歩くと声もかからなくなる。そこで自分の見識がいかに狭いものだったのか驚いた。井の中の蛙は、井の中すら満足に知らなかったのだ。
通りの店は一つも開いていない。家には人が住んでいる気配がなく、大きめの置物でしかないらしい。
ハットが秘密基地にしている商館よりも北のほうは、捨てられた建物が当たり前といった様子。
何かに誘われるように置物を上ると、炎天がいつもより強く頭を焦がす。
網の上に忘れられた肉のように、灰になるのをぼうっと待っているようだ。
そしてハットはそれも悪くないといった心境で口を開く。
蛙が知るのは狭い空 網の肉は灰になる
忘れ去られた家の主 どこかで灰になったのか
人が恐れる精霊は 砂を残してどこへ行く
井戸から見上げる狭い空 彼方でおいでと誘ってる
蛙の王様井戸を出て 砂の多さに驚いた
広い空は何を見て どうして怒っているのだろう
ただの蛙は追い求め 井戸の水を失うか
無意識に奏でられるそれは鳥が歌っていたものとは違い、真理を追究するようなもの。それは聞く者を不思議と悲しませる。
息をするくらい自然に溢れるメロディと詩は、同じくらい自然にその頬を濡らす。
なぜ自分が泣いているのかも分からず、ハットは日が暮れるまで歌い続けた。
ハットが彷徨い歩くようになってもうしばらく経つ。ホーカーに会えなくなったことを悲しんだが、その感情も薄れるほど長い時間。
父が夜の仕事を再開させると共に、ハットも客の呼び込みを再開させる。
昼食を久しぶりに食べた気がするのは、単純に大人数のほうが好きだからだろう。
父の心は前にも増して複雑になり、共感のハットを苦しめた。
嬉しい。腹が立つ。喜んでいいのか。憎むべきか。
どことなく自分を責め続ける父には、我が子に同じものを与えていると気づくほどの余裕がない。
どうしてそんなに苦しむのか。考えた直後に、ハットの心は鋼になった。