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二章 歌 1P

 父は体調を崩した。母は父の看病をする。

 こうなってしまうと店の看板はクローズからオープンにされることもなく、ハットは久方ぶりの休日をしばらく部屋で過ごす。

 体調が思わしくないのは父だけではない。

 ハットも疲れた身体を起こす理由がなければ、ベッドに身を投げ出して天井を仰ぐほかなかった。

 ふとその耳に入ってきたのは、鳥の歌声。

 あれほど楽しみにしていた歌はどこか物悲しく、それでもハットには癒しの歌に聞こえる。それは罪人だけを癒す歌だった。

 窓に目を向ける気力もなく休んでいると、自然とまどろむ。

 二度寝はハットにとって縁遠いもの。貴族の遊びのようで、贅沢な時間だ。

「今日は湖に行かないのか?」

 そこへ当たり前のように滑り込んだ声はホーカーのものだ。

 ハットは砂に埋まった身体を引きずり出されるような心地で、窓に目を向ける。

 一階での出来事ならまだしも、ハットの部屋は三階だ。しかし屋根を飛び移るような者が窓から顔を見せても、それほど不思議なことではない。

 今までの倦怠けんたい感もまどろみも忘れた貴族は目を輝かせ、朝髪あさがみを整えるのもそこそこに家を出る。

 外で待つ者の背に乗ってから湖の跡地に辿り着くまでに、ハットは商人の顔を思い出す。

 空ばかり見ていては砂に足を取られてしまうと言うように。


 目的の地に足をついて早々、ホーカーは懐から袋を取り出した。それは両手で持つほどのパンが入ったもので、まるで手品のようだった。

 パンはハットたちの商売敵の目玉商品。

「人気のものを手に入れるには、誰よりも先に店に行く」

 クルミが惜しげもなく練り込まれたパンを、これまた惜しげもなく半分に千切る。

「そうまでして手に入れたものを分けていいのは、大事な友達だけだ」

 凄みも邪気も含まない笑顔はハットだけの武器ではない。

 手渡されたものは安い品ではないが、それ以上に価値のあるもの。ハットは思わず涙ぐみそうになる。

 しかし弱った心ほどつけ込みやすいものはない。心を鋼にするのはハットの特技の一つ。

「今日は店を閉めてたけど、なんかあったのか?」

「うん。父さんがね、少し寝込んじゃって」

「へぇ。まぁ、ちょっと疲れてるんだろ」

 ホーカーは心配している。それが父に向けたものではないと、分からないハットではない。故にいつまで鋼でいられるか自信がなかった。

「最近忙しそうだな。あそこまで繁盛しちまうのも考えものだ」

「母さんは、商人が忙しくするのはいいことだって言ってたよ」

 皮の水筒から一口含んだホーカーは、隠しもせず渋い顔をする。もちろん水が苦かったわけではない。

「俺は仕事が忙しいのは嫌なことだと思うけど」

「食べていくためには、お金が必要だよ」

「……忙し過ぎると、こんなふうに話す暇もない」

 互いに苦笑するのは、互いの苦労を少しだけ知っているから。

 二人は目の前の敵をどうしても敵視できない。それをまた互いに理解しているから、笑うしかないのだろう。

「店に立つのは父さんで、料理を作るのは母さん。だからボクはよく暇になるんだ」

「そんなときはどうやって時間を潰す?」

「そんなときは……」

 言いよどんだ商人を手助けするように水筒を渡してやるその手は、言いたくないなら水と一緒に飲み込んでしまえと言う。

 何気ない気遣いが嬉しくなり、ハットは真剣に言葉を探した。

「そんなときは、鳥と話したり歌を聞かせてもらう」

「そりゃあいい! 旦那も見習ったらもっといい!」

 大笑するホーカーのそれは偽物だ。

 見破ったハットがつられて笑うふりをしたのは、商人の意地なのかもしれない。

 二人には絶妙な距離感がある。互いに敵であるにも関わらず、互いを気に入ってるのだ。

 協力してやりたいが、そうすると自分と周囲が不利になるために踏み切れない。友達と仲間のどちらかを選べと言われて、即答できる者が少ないように。

「なんでいつもここで水を捨てちゃうの?」

 おもむろに水筒を傾けた手が一度止まり、直後に水は砂に飲まれる。

「自分でも分からねぇ。ただこうしてると、そのうち戻ってくるんじゃないかって、なんとなく思うんだよ。湖ってのは水たまりだろ?」

 それこそ湖の精霊が怒り出してもおかしくない一言だ。

 ハットは少し心配になるが、隠れていた精霊が突然現れて暴れるようなことはなかった。

「湖と仲が良かったの?」

 ここでは省略して湖と呼ばれることが多い。

 なぜかホーカーは一抹いちまつの悲しさを覚えたようだが、直後にその心は色を失った。

「湖の連中と会ったことはない。ただ人間に恐れられて消えてった湖が、なんとなく不憫なんだ。もし会ってたら、仲良くなってたかもしれねぇだろ? なのに俺がここに来たときにはただの砂になってて、相変わらず悪口は残ってる」

 湖の話は町で避けられている。しかし尋ねればよく聞いてくれたと口を開く者は多く、しきりに悪口ばかり言う。

 そして最後に必ずこう締めくくる。絶対に近寄ってはならないと。

「湖は悪いことをしたのかな?」

 核心を避けるようにまくしたてられる悪口は、小さな疑問を生むには充分だ。

「さぁな」

 早くも渇き始めた砂をぼうっと眺めるハットは、これは一時の感情だと盲信せずにはいられない。メッキのように鋼が崩れたむき出しの心はつい、ホーカーに共感してしまっていたのだ。

 感情という曖昧なもの。その感情に言葉を与えるとしたら、こうだ。

 自分のせいでこんなひどいことになってしまった。

 あんなことをしなければ周りは笑っていられた。

「なぁ」

 呼び声に我に返ったハットは、なるべく心境を悟られないよう視線をホーカーへと戻す。

「鳥はなんて言ってた?」

「誰かが痴話喧嘩をしてたとか、ある店は腐った野菜や果物を平気で並べてるとか――」

 なんでも見抜くような紫の目がじっと心を見ようとするような、そんな視線に少し口をつぐむ。そしてハットは、ホーカーが聞きたがっていたことを口にした。

「――ついて来いって言うんだ。でもボクは、行かなかった」

「なんでついて行かなかったんだ?」

「母さんが、知らない人について行ってはいけないって言ってた」

 一進一退を繰り返すような攻防。

「鳥の言葉を知る者は、産まれたところで暮らすことができない」

 それはホーカーがずっと昔、誰かに言われたことだった。

「なんで?」

「鳥は巣立つからさ」

「群れを作る鳥もいるのに?」

「……なんだ。博識だな」

「聞いたことあるだけだよ」

 両手を上げて降参するホーカーを笑いつつ、ハットは大事なチャンスを逃したような心地だった。

 鳥の言葉を知るのは普通ではない。ましてや話すことができる人間は、一つかみもいないのだ。

 そしてそんな人間は必ず呪われた眼を持ち、必ず人生を転覆することを引き起こす。

「おっと、湖にやったんだった」

 水を飲もうとしたホーカーは水筒を空にしたことを思い出し、残念そうに立ち上がる。

「帰りたくないのか?」

 差し出した手を取らないハットに笑いかける目は寂しそうで、それ以上に残念そうだ。

「そうじゃないんだ。帰らないと、母さんが心配するからね」

 その手をつかまないと後悔する。

 衝動に駆られたハットは慌てて手を伸ばし、立ち上がるのを手伝ってもらった。

 おぶさる背がどんな気持ちでいるのか。ハットは考えることに夢中だった。

 鳥は住処を捨てる。

 ホーカーが残念がったのはハットが住処を捨てないから。残念に思うのを悟られるだろうことを見越して、水を飲もうとして誤魔化したに違いない。

 どうして自分たちは敵同士なのだろう。

 もし彼も鳥と話すなら、どんな話をするのだろう。

 ハットは考えながらまどろむ。渇いた空気を切り裂くような翼の上で、うとうとと。


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