一章 帽子屋の肉 4P
ハットにはホーカーの話を完璧に理解することができなかった。
なぜ人肉の噂が立つのか。なぜ父はホーカーを嫌うのか。なぜ父は、帽子屋と呼ばれて動揺したのか。
「今日はこのくらいにしよう。引きがあったほうが、続きも聞く気になるだろ?」
南西の町にハットを送ると、ホーカーは〝散歩〟に戻った。
昼食は三人でとる。以前に家族だけで昼食をとった記憶を掘り起こすのは難しい。
父はうんざりして、それを見る母もうんざりとしていた。
ハットにとって居心地が悪いのもそのはず、両親をうんざりさせているのも客が来ないのも、店にホーカーを招待したからだ。
散歩屋のホーカーはハットが思う以上の有名人で、有名だと往々にして敵が多い。
ふとハットは初めてホーカーに声をかける、もっと前のことを思い出す。
行き交う者たちはホーカーを見ると怯えたり避けたり、嬉々として話しかけ、稀に拝む者さえいた。
ホーカーを嫌う者は自分まで疑われるのを避ける。そして尊敬する者も、慕う人物から悪く思われたくない。
つまりハットたちが営む肉屋は、悪い意味でホーカーの興味を惹いている。というのが町中の人間の考えらしい。
彼はどんな人物で、なぜ〝散歩〟をしているのか。
「もうやつは呼ばないでくれ」
父は明言し、今度は母も何も言わない。
そうだ、とハットは違和感の正体を一つつかんだ。
本当に避けるべきことは、たとえ分かり切っていても明言する。なのにホーカーは自分たちを疑うようなことを言っておいて、心ではハットを助けたがっていた。
助けたいならもっとシンプルに、あれはやめろとかこうしろなどと明確に言うほうが分かりやすい。そしてそれができないほど口下手な印象もない。
「今日は夜に仕事がある。だから食い終わったら今のうちに寝ろ」
一瞬、ハットの思考が止まる。
夜の仕事は嫌いだ。と、思考が再び動き出したときには目先の問題に気を取られていた。
二人の様子に母は大きなため息をつき、ついに一言も話さぬまま食器を片づけた。
次の日は昼にホーカーが現れ、湖の跡地にハットを連れて行った。
「今日は何を話すか」
「昨日の続き!」
急かすように即答したその目は異様に爛々と輝く。
ホーカーは間違えて喋ってはならないことを喋らないように、じっくりと考える。
「簡単そうなことから話そう。旦那が帽子屋と言われて焦った理由だ」
「え? 一番分からないことなのに」
これは駆け引きではなく、ハットにとって純粋に一番不可解なことだ。
紫の瞳は黒の瞳をじっと見据える。これから話すことは冗談ではないと告げるように。
「はっきり言って旦那には知られたくねぇことがある。だから前に帽子屋をやってたことを知られてて、隠し事もバレてるんじゃないかと焦った。帽子屋にそれ以上の意味はねぇよ」
父の秘密。それはハットの知ることで、ホーカーの知らないこと。
ほっと一息つくほどハットは間抜けではない。
「きっとそれは父さんにとって困ることなんだよ。だからボクも言えない」
どうやらホーカーはその秘密が知りたいらしい。
「ねぇ、なんでホーカーは散歩屋って名乗るの?」
「ああ。そりゃあ散歩屋だからに決まってるだろ?」
ハットが持っている武器は、ホーカーを困らせる程度の威力がある。慌てるような失敗をしなくとも、呪われた黒い瞳の前で感情を伏せるのは難しい。
「普通、散歩屋っていうのは、働く気のない人が名乗る。誰かが言い始めて、それをろくでもない人までマネするようになった。働かないことを誰かに指摘されたり馬鹿にされたり、嫌味なんかを言われたりするとこう言うんだ。うるせぇ、俺は散歩屋だ! ってね」
相手の突かれたくないことを突くのは気が引けるが、その価値があれば容赦はしない。商人を続けるには思い切りと残酷さが必要だ。
ホーカーの心は困りながらも、続きを楽しみにして待っている。
「ねぇ、ホーカー。初めて散歩屋を名乗った人は、どうしてそう名乗ったの?」
「そうだな。そりゃあ、本当の仕事を知られると都合が悪かったんだよ」
「じゃあ、ホーカーの本当の仕事は何?」
急所にずぶりと刃物を沈める笑顔。
しかし真正面から刃を受けたホーカーの口許がつり上がる。
見る者が後ずさる類のそれを前に物怖じしなかったのは、彼の心が攻撃の色に染まることはなく、むしろますます困り果てているからだろう。
「こういうのはどうだ? ハットは親父の本当の仕事を知られたくねぇから、俺はもうハットにこのことを聞かない。俺も知られたくねぇことは答えない。互いに秘密だ」
これはハットに得のある申し出だ。それを二人とも分かっている。
ホーカーがこんなことを言ったのは、ハットと敵対したくないからだ。翼をつかまれた鳥はもがいた末に逃げてしまう。
「そのほうがいいね。人の秘密を無理に聞き出しちゃいけないって、母さんが言ってた」
散歩屋を初めて名乗ったのはホーカーで、その人物は自らの正体を明かせないと言う。
ハットは一つの答えを導き出した。
この国には国政と塔政という奇妙なものがあり、国政の下で町の治安を維持する者がどの町にも必ずいる。
維持することが目的の治安維持兵は常に町の味方で、塔政の下で動く者は常に治安を乱す、町の敵。
ホーカーは塔の人間だ。
「なぁに、もうしばらくしたらハットも知ることになるさ。秘密はいつかバレちまうものだってアウルが言ってた」
「アウルって?」
「いつか会うことになる。もし会うことがなきゃあ、聞く意味がない」
適当にはぐらかして機嫌よく笑うホーカーだが、ハットは問い詰めるほどの興味は持たなかった。
家に帰って早々、父はどこに行っていたのか尋ねた。
しかしハットは友達と遠くに行っていたと答えるだけで、誰とどんな話をしたかは答えない。
父は店の心配をしている。決してハットを案じたわけではない。
父からの信用を失いつつあることに少なからず不満を覚えながら三階の自室に上がると、ふかふかのベッドに寝そべって頬杖をつく。
商人は信用を失うと生きていけない。
綿の詰まったものに寝転がれる者は、この町ではそれほど多くない。ハットがその上にいられるのは、両親と自分の努力の賜物。
それでもハットは窓枠で羽を休める小鳥を、無性に羨ましく思う。
「お前には巣が無いの?」
小鳥はいつもの日課とばかりに鳴く。たまに聞かせてくれる歌を期待したハットは、ひどい虚しさに襲われた。
「お前がどうやって食べているのか、とても気になるよ」
小鳥は飛び立ち、窓の外からハットを呼ぶ。
ついて来いという甘い誘いに鋼の心で抗うと、小鳥は彼方へと飛び去ってしまった。
もしハットに自分の心を見ることができれば、どれほど強くそれを羨んでいたか気づいただろう。