一章 帽子屋の肉 3P
鳥のようだ。
みるみる過ぎ去る景色を眺める余裕が、ハットにはあった。
それを察したホーカーはさらに速度を上げ、どんな鳥も獣も追いつけない速さで走る。向かう先は町の反対側、北東部だ。
愚か者は死して、利口者が生き延びた。
この町は斜めに割ったビスケットのような形をしている。
利口者の町とその対になる愚か者の町は元々一つの町だったが、なぜかある時期に南西と北東に分かれた。故に二つの町を仕切る石壁は無い。
ハットは初めて利口者の町を離れ、北東部――愚か者の町まで来た。
北東の町が滅んでから両手で数えられる程度の年月しか経ていないが、ここには砂が広がるだけで何もない。
「着いたぞ」
その声にハッとして手を放そうとする。だがホーカーがハットの足を放すと、小さいハットはその肩にぶら下がる形になった。
「わりぃ。ちょっと待ってろ」
背の様子を想像して笑ったホーカーは、ぶら下がる足が地につくように屈む。肩の手を揉みほぐされてようやく手が離れ、ハットは尻もちをついた。
「恐かったか?」
速く走り過ぎたかと少し心配しているようだが、やはりホーカーの顔は笑っていた。
そんなに強く握りしめていた自覚はなかったが、きっと痛かっただろう。
ハットの視線に気づいたホーカーがわざとらしく両肩を回すから、その顔にもやっと笑みが戻る。
「恐かった! でも楽しかった!」
「そりゃあよかった。なんせ帰りも同じことするからな!」
互いに笑い合いながらハットは目的を忘れ、帰りが楽しみになる。
そしてひとしきり笑った後に気になったのは、『北東の町』のことだ。
「ここは?」
「これでも町の中だ。何年か前に色々あって、人がいなくなっちまったらしい」
笑顔の余韻に隠れた寂しさと罪悪感を見つけられるのは、ハットの眼だけだろう。
「何年か前にはここにも人が住んでたの? だってここには、家も何も無いよ?」
ハットも北東の町が滅んだことくらい知っていた。しかし跡形も無く消えたなどと思うはずもなく、本当に北東部に人が住んでいたのか疑うのも無理はない。
「人がいなくなったから、この辺の建物は全部壊されて、消されたんだ。もう人が住まないようにな」
「どうしてそんなことになったの?」
「それは……」
ホーカーは足元に屈んで砂をつかむと、さらさらと零す。
小さな砂煙はゆるゆると風に流され、再び大地の一部に戻っていく。
砂が舞い落ちた地点に視線を落とすさまは、誰でも寂しげに見えるだろう。
「……それは、でかい問題が起きたからだ。でもハットが聞きたいのは、そんなことじゃねぇだろ?」
取り繕うように浮かべられた笑みに、言いようのない悲しみを覚える。
この感情は自分のものなのか、それともホーカーの感情をそのまま自分も感じているのか、ハットは少し分からなくなった。
「昨日、ホーカーが来てから父さんは落ち着きがなかったり慌てたりしてた。でもボクにはそれがなんでなのか、よく分からない」
「そりゃあ、俺が目の前に現れて、しかも家に上がり込んだからじゃねぇか?」
ハットはどきりとした。散歩屋というのはなんでも知ってるのか。そう思うと頼りになる反面、どこか不安だ。
ホーカーがどうして会ったばかりの自分にここまでつき合ってくれるのか。本当に教えてくれるためだけにここまで連れてきたのか。
そしてすぐに思い直す。なんでも知ってる者に下手な隠し事をするのは得策ではない。
もし自分たちを疑っているなら、少しの情報を餌に大きな情報を釣り上げる。
「帽子屋の肉って言ったよね。そのときの父さんの反応はおかしかった」
父はホーカーを嫌っているわけではない。本気で嫌っているならハットや母が何を言っても家に上げなかっただろう。
だが帽子屋と言われてからは、もう絶対に家に上げないようにしようと固く決めた。
そう、ハットには人の感情を見てしまう呪われた眼がある。そして度々、見えたものに共感してしまうのだ。
ホーカーを警戒する父に、ハットは共感している。
「あそこはな、昔は帽子屋だった。けどそれが上手くいかなくなって、新しい商売を始めた。それがなんなのかは分かるだろ?」
ホーカーが困ったように頬をかき、軽く笑う。見た目以上に困っているのもまた、ハットの心に流れ込んだ。
本心ではこんなことを言いたくはないと思いつつ、それでも言うことを選ぶ。どんな意味を孕んでいるかまでは分からない。
「あそこは人肉を売ってる、なんて噂がある。でも本当は人肉なんか売っちゃいねぇし、それをみんなも知ってる。じゃあなんでそんな噂があるんだろうな」
「……知らないよ。食べたから分かるでしょ? うちでは豚とか牛とか羊の肉くらいしか扱ってないし、たまに山羊の肉も並べてみるだけだよ」
返答がやや遅れたのは、ホーカーに協力するか父を庇うか少し迷ったからだ。
そしてハットは父の代わりに弁明することを選んだ。
ホーカーはおもむろに懐から皮の水筒を取り出し、一口含む。
その間に言葉を選んでいることを、ハットもなんとなく察していた。だからどんなことを言われてもうまく切り返そうと身構える。しかし、
「少し別の話をしよう。ここには昔、湖があった」
あまりにも唐突に話題を変えるものだからつい困惑する。それはここに来て最初に話し、すぐに避けた話とは関係ないものなのだろうか。
ホーカーの心はやはり悲しみと寂しさの色に染まり、下手に返せばひどく傷つけてしまう気がした。
「湖には精霊と妖精が棲んでて、危険だから近寄っちゃならないって言われてたんだ。でも精霊は別に人を傷つけるわけじゃなかった。じゃあなんで忌み嫌われてたのか」
「性格が悪かった、とか」
遠慮がちな言葉に膝を叩いて笑うのは、どこか母と同じ豪快さがあった。
そうじゃなかったとしてもハットは安心しただろう。その心が楽しげなのを見れば、自分の回答を気に入ってくれたのだと分かるのだから。
「普通の人間はここでそんなこと、口が裂けたって言わないぜ!」
「じゃあじゃあ、なんで嫌われてたの?」
水筒を傾け、一息つく。
じれったく思うものの水筒を手渡されれば、ハットも仕方なく一口飲む。その水があまりにもうまかったものだから、自分はそんなに喉が渇いていたのかと驚く。
砂漠特有の渇いた空気と炎天の下で緊張感のある会話をすれば、喉が渇くのは当然だ。
水筒をしげしげと眺めるハットはつい、ホーカーの感情を見逃した。
「湖の精霊曰く、力のある者はそれだけで恐れられる。そしてもし上手く立ち回れなかったら、嫌われちまうらしい」
その心を確認するように見ると、助けたいという感情だった。
誰を?
少し考え、ここには二人しかいないことを思い出す。
「ボクの父さんは見かけによらず、そんなに強くないよ?」
ホーカーはハットの味方だ。だがこう言わずにはいられなかった。
目の前の人物が父の味方であるとは限らない。たとえ共感できても、やはりハットは頑固だった。
自分の眼に振り回されてしまわないように、強い意志が必要なのかもしれない。
「……あの店は結構力があるんだ。町中を探しても、昼食に三十人も呼べるような店はあそこだけだ」
旦那は上手く立ち回ったんだな。と続けて、ホーカーは水筒を宙で傾ける。
その残念がる心をいつまで見えないふりをしていられるか、ハットには自信がなかった。
水筒から零れ出た水は地面に落ち、砂に飲まれた。